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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴20年の広島で活動する演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2007年9月28日(金)

 昨夜のNHKの『クローズアップ現代』の〈ケータイ小説特集〉は面白かった。
 いうまでもなく、ケータイ小説の形式の特徴は、〈話し言葉〉にある。情景描写さえも〈話し言葉〉で展開していく。わたしは常日頃、このケータイ小説に着目していて、こんな世界がどんどん広がると、〈まだるっこしい表現の文学なんか廃れてしまうな〉と思っていた。
 というのも、今、高校生と社会人のクラスで、現代小説の冒頭部分の朗読を教えているのだが、何十年ぶりにそれらの小説を読み返して、若いときの感動が薄れてしまったことに気づいた。
 取り上げている作品は、谷崎潤一郎『細雪』、三島由紀夫『金閣寺』、大江健三郎『飼育』、川端康成『雪国』、安部公房『砂の女』、中上健次『枯木灘』、島尾敏雄『死の棘』の七作品だが、島尾敏雄の『死の棘』以外は、現在から読み直すと、その表現に〈まだるっこさ〉がつきまとってしまう。この〈まだるっこさ〉というのは、表現上の説明過多を意味しているのだが、学生時代にあれほど心酔した三島由紀夫でもそうなのだ。
 このレッスンは、高校生と社会人にとりあえずじぶんの好きな作品をひとつ選んでもらい、朗読という形をかりて、それを読みこなすことによって自己の個性(本性)を発見してもらうのが真の目的であるが、かれらが選んだのもやはり〈話し言葉〉の多い作品だった。
 若者たちはなぜ〈話し言葉〉で物語を展開するのか?
 そのほうが読者に含みを持たせる(想像力を喚起させる)ことができるからというのだ。わたしもそう思う。
 例えば『源氏物語』の市販の現代語訳は、これでもかこれでもかと意味を説明し、読む楽しさがないので、わたしが現代語訳するときは簡潔にし、なるべく読者の想像力の妨げにならないように配慮しているのだが、今ウェブにアップしてるものはその域に達してはいない。完璧なものは演劇形式で展開しようと思っているのだが・・・・・・。
 物語において〈話し言葉〉が盛んになる。
 これは本来の〈話し言葉〉の表現形式の演劇に一縷の望みを与える兆候である。

2007年9月4日(火)

 季節が変わった。
 夏は高校野球、世界陸上とスポーツに親しんだので、『源氏物語』の現代語訳も遅々として進まなかった。このところ朝夕の風の涼しさを感じられるようになり、やっと私たちの本業の季節となった。
 思えば土井洋輝くんは、この酷暑の夏、東京で秋からの新番組の収録にせっせと励んだことだろう。10月からはNHKと民放で土井くんのテレビドラマが観れるなんて、なんと嬉しいことか。土井くんばかりでなく藤岡涼音さんも東京のテレビドラマ(時代劇)の出演が決まり、今月から収録に入る。二人に幸あれ! まさに指導者冥利に尽きるというものだ。
 さて、世界陸上では、日本と世界とのレベルの差を痛感させられどおしだったが、そんな時ふと、〈日本人とはなんだろう?〉という思いが駆け巡った。
 訳したばかりの『源氏物語』につぎのような箇所がある。最愛の女性(夕顔)が突然死して泣くところだ。

 からうじて惟光朝臣参れり。夜中、暁といはず御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、 召しにさへ怠りつるを憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でんことのあへなきに、ふともものも言はれたまはず。 右近、大夫のけはひ聞くに、はじめよりのことうち思ひ出でられて泣くを、君もえたへたまはで、我ひとりさかしがり抱き持ちたまへりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたくえもとどめず泣きたまふ。

 現代語訳すると、

 ようやく惟光の朝臣がやった来た。夜中、早朝といわず いつも源氏の君に仕えている者が、昨夜にかぎって控えていなく、呼びにやってもすぐに来なかったので(源氏の君は)腹立たしく思われるものの、呼び入れて、(昨夜の一件を)話そうとされるが もはやどうにもならないことなので、なにも言う気になれない。右近は、大夫(惟光)がやって来たのを聞くと、(惟光が手引きした)最初からのことが思い出されて泣くので、源氏の君もこらえきれなくなって、じぶん一人だけ気を張って(女を)抱きかかえておられたが、惟光の顔を見ると気がゆるみ、悲しいことが思いだされ、そのことばかりが、胸にせまってきてとめどもなく激しく泣かれる。
 
 太字で示したように、物語の主人公である光源氏はただ泣くのではない。とめどもなく体を震わせて激しく泣く。この泣き方は古代から連綿と受け継がれているもので、古事記の須佐之男命(スサノオノミコト)は、青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾(青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき)といったように、地団駄を踏んで猛烈に泣く。
 國學院大學名誉教授の岡野弘彦氏は、この〈泣き〉が日本人の特性であり、時代が下れば下るほど日本人は泣かなくなったと説かれている。
 日本人はなぜ泣かなくなったのか?
 それは知性や理性が重んじられ、泣くことが「恥だ!」「ひ弱だ!」と見なされているからだ。知性や理性と感情とはまったく別物で、どんなに知識があろうと、理性があろうと、激しく泣くものは泣く。激しく怒るものは怒る。人間は怒りたいときには怒ればいいし、泣きたいときには泣けばいいのだ。
 岡野氏はこうも言われている。
 「泣く心は、同時にまた、その反対の怒る心の激しさであり、人を憎む心の激しさは、また同時に、その反面、人を愛することの心の深さでもあり、そういう心の振幅の大きさ、あるいは深さというものを人間はだんだん失っていく」
 まさしくその通りである。
 世界陸上の最終日、マラソンの土佐礼子さんの〈泣き〉に、わたしは日本人の特性を見た。彼女こそまさに日本の伝統を受け継ぐ真の日本人といえる。
 そういえば、この国の政治家や企業の重役は悪いことをしても泣かないな。もしかれらが会見の席で、「私が悪かった」と素直に謝りボロボロと涙を流してくれたら、どんなに救われて、未来にも希望が持てるのに・・・・・・。

 追伸
 土井くん、藤岡さん、東京でのドラマ作りは、ローカルとは比較にならないほど苦しいと思います。泣きたい時もしばしばあるでしょう。そんな時は、須佐之男命のように、山が青くなるほど、海が涸れるほど泣いてください。
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