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2013年4月30日(火)
トム・ストッパードのシェイクスピアの「ハムレット」を下敷きにした「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という映画はとても素晴らしかった。
その後、彼は「恋に落ちたシェイクスピア」でまた感動の映画を作ったので、
〈トム・ストッパードが脚本を担当しているなら〉
と、昨日は「アンナ・カレーニナ」を観に行った。「アンナ・カレーニナ」を書いたトルストイはシェイクスピアを猛烈に批判しているので、その興味もあって観に行った。
わたしは、
「映画は映画でしかできない表現をしなければならない」
という考えを持っているが、それは最初のシーンから裏切られた。「アンナ・カレーニナ」はまるで演劇の舞台転換のように進行していくのだ。舞台装置の転換を見せるのは演劇だから面白いのであって、映画では興醒めなだけだ。
「アンナ・カレーニナ」の醍醐味は、人妻のアンナが青年将校のヴロンスキー伯爵と恋に落ちるところだが、わたしにはアンナがなぜヴロンスキーを恋するようになったのかさっぱりわからなかった。
「もっと丁寧に、繊細に、美しく描いてよ」
というのがわたしの率直な感想で、二人のラブシーンなんか監督が頭で考えたものでしかなく、まったく驚きもなく、情緒も感じなかった。
小説を映画化すると、必ずと言っていいほどダイジェスト版になってしまう。例えば「源氏物語」を桐壷から藤裏葉まで映画化したのを観たことがあるが、そんなのは愚の骨頂で、源氏物語を映画化するなら、六条御息所なら六条御息所、若紫なら若紫に絞って映画化すべきで、そうでなければ源氏物語の世界は萌出できない。
「アンナ・カレーニナ」もダイジェスト版の域を出ていない。人妻と青年の許されない愛をもっと丁寧に描くべきなのだ。
そして、映画を観おわって、
「シェイクスピアの作品は現在も普遍性があるが、トルストイの「アンナ・カレーニナ」は過去の産物だな」
と、エンドロールでシーンを反復することもなく、そそくさと劇場を後にした。
2013年4月5日(金)
心の師、吉本隆明氏の喪が明けたので、今日からまた日記を認めることにする。
今、猛スピードで「源氏物語」を訳している。早く劇作に取り掛からなければならないからだ。
思えば訳し始めてから6年も費やしている。訳してみたものの、やはり原文の素晴らしさは超えられない。最近は訳しながら、原文を声をあげて読むことが多い。それほど紫式部の原文は魅力的なのだ。
今日は、原文の素晴らしいところをあげておく。浮舟の巻の兵部卿宮(匂宮)が大将(薫)と偽って浮舟と関係したところだ。
女君は、 あらぬ人なりけりと思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず。 いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、
ひたぶるにあさまし。はじめめよりあらぬ人と知りたらば、 いかが言ふかひもあるべきを、 夢の心地するに、やうやう、 そのをりのつらかりし、 年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。
いよいよ恥づかしく、 かの上の御事など思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに泣きたまふ。
平安文学の特徴で過去と現在が錯綜する難解な文章だが、
「素晴らしい!」
の一言である。わたしは演劇人だから、この女と男の心理の襞をドラマチックに書く紫式部にことのほか共感する。その思いを現代語訳にこめたつもりだが、さてどうだろうか・・・
姫君は、
〈大将ではない〉
と気づくと、驚き呆れるが、(宮は)声も出させないようになさる。あの遠慮しなければならない二条院でさえ、なりふり構わず関係を持とうとなさった方だから、今はただ呆れるばかりのなさりようである。
はじめから違う人だとわかっていたなら、なんとか拒むこともできただろうが、(大将だと思っていたので)夢のような気がしているうちに、だんだんと、あの時の恨めしかったこと、それ以来思い続けていることをおっしゃるので、(姫君は)
〈この人はあの時の宮〉
とわかった。(そうとわかると)(姫君は)ますます恥ずかしく、中の君のことなどを思うと、泣くしかないので、限りなく泣く。宮も、こうして逢ってみると愛おしく、
〈容易には会えないだろうな〉
などと思われると(せつなく)お泣きになる。
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