The world of the drama 演劇の世界
2014年公演「HAPPY END」 2013年公演「セチュアンの善人」 2012年公演「弁天娘女男白浪」
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三澤憲治の台本
◇「ガラスの家族」からはじまった上演台本づくり。広島の演出家、三澤憲治の潤色・脚色・創作台本
2017年 紫式部原作
三澤憲治台本
「紫式部考 ―『源氏物語』という物語― 」

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2016年 近松門左衛門作
三澤憲治台本
「世継曽我 ―ひとえに愛を貫き通す― 」

「世継曽我」は、上演台本の一歩前の試作品です。M.A.Cでは、いつも上演台本を作る前に、必ずこのような試作品を作っています。

近松門左衛門作
三澤憲治台本
「碁盤太平記 ―大勝四十七目の石― 」

 近松門左衛門は近世文学を象徴する作家である。小説の井原西鶴も俳句の松尾芭蕉も近世を代表する作家だが、ここで象徴と言うのは、劇が近世の近松によって画期的な進化を遂げたことを言いたいからである。
 近松の言葉は論理の整合性があり、必ず現代人に突き刺さってくる。
「彼の描く「忠臣忠義」は過去の道徳だが、現代人はその過去の道徳の代わりになにかを手に入れたのか」
 と聞かれたら、
「なにも手に入れていない。欧米の模倣ばかりしてきた」
 と答えるしかない。
 もはや外国に追従することはない。日本から普遍的な精神性を創造しなければならない。
 こういうスタンスから、「碁盤太平記」と「世継曽我」を劇化しようと思った。 
2014年 エリーザベト・ハウプトマン原作
三澤憲治台本
「HAPPY END」

 80年前に書かれた芝居が現在のお客様の関心事となるよう改編した。
 まず原作はしばしばアナクロニズム(時代錯誤)が出現するので、時代設定を1925年にし、禁酒法時代のシカゴということにした。  
 そして大幅に改編したのはラストシーンである。 この芝居は救世軍のリリアンとギャングのビルとの恋愛を基調として劇は展開していくが、この二人の愛が、ラストには〈あるもの〉に昇華するというふうにした。
  つまり、リリアンとビルの対幻想が最後には共同幻想に昇華するといったように。
 この〈あるもの〉こそ、今の日本人が失っているものであるとともに、未来から照射した現在の世界的な課題ではないだろうか。
2013年 ベルトルト・ブレヒト原作
三澤憲治台本
「セチュアンの善人」

 ブレヒトは芝居を書くのがうまい。特に「セチュアンの善人」のラブシーンほど、せつなく、哀しく、美しいものはそうあるものでもない。  
 この芝居は、20年前に上演したが、時代の推移と共にドラマは変容を余儀なくされた。  
 初演の時のスライドは止め、舞台装置も簡略化して、登場人物の心の変化を際立たせることにした。そして、
「芝居には同化する部分と異化する部分があり、同化と異化というのは対概念で二つ一緒でなければ成立しない」
 という立場で、台本を書き直した。  
2012年 河竹黙阿弥原作
三澤憲治台本
「弁天娘女男白浪」

 広島の地で、歌舞伎を上演したのは、ひとえに俳優の物言う術の獲得と、魂あるセリフの復活にある。  
 この数年、俳優の演技指導をしていてつくづく思ったことは、かれらが語るセリフにメリハリがなく棒読みで、いわゆる音声を発するだけで、そこには日本語の美しいリズムも、言葉本来の魅力である言霊も感じられないということだった。
 日本人の俳優であるなら、日本語特有の七五調や三、四、五の音数律のセリフ回しや、日本語独特の〈間〉を獲得し、それを基底に演技しなければ俳優としての存在意義はないと思い、言葉を知り尽くした幕末の劇作家、河竹黙阿弥の作品を上演しようと思い立ったわけである。
2006年
W・シェイクスピア原作「十二夜」より
三澤憲治脚色 「劇変・十二夜」 
 2005年の師走、吉報が入った。広島県立向原高等学校の芸術鑑賞会での演劇公演の依頼である。
 思えば20年間、広島でコツコツと芝居作りに励んできたが、広島にもこんな奇特な方たちがいらっしゃったかと感動した。  
 ひとつ返事で請負い、
「前回の芸術鑑賞会は落語だったが、生徒はだれ一人笑わなかった。ぜひ面白い芝居を!」
 と頼まれた。
 出し物は「中高生たちの十二夜」と決まっていたが、2005年に上演した台本では高校生はきっと退屈する場面があるだろうと思い、台本を向原高校の生徒さんたちのために一から書き直した。これが「劇変・十二夜」である。  
 テーマは高校生向きにアイデンティティ(自己の存在意義)、じぶんとはなにか? とした。
 なぜなら現在の日本の高校生はかなり過酷な生活を強いられ、人生の隘路にいて、自己を確立することが急務だと思ったからだ。  
 劇作の方法は、自分自身のガキ大将時代の記憶をよりもどして、「なんでもあり」とした。16世紀の芝居にケータイや、最愛の娘(劇中の岡田)を登場させたのは、この「なんでもあり」を子ども心に具現したものだ。  
 そもそも「なんでもあり」はシェイクスピアの専売特許である。「リア王」を上演した40代の頃は、この「なんでもあり」が許せなかったが、50の坂を越えてすべてを許すことができるようになった。遅ればせながらの成長である。
 「なんでもあり」は実に気持ちいい。この「なんでもあり」のおかげで次回作「源氏物語(仮題)」も「なんでもあり」で書こうと思っている。
2004年 キャサリン・パターソン原作
三澤憲治脚色
「The GREAT Gilly Hopkins 1978」
副題「ガラスの家族」  
 思えば20数年前、広島の土を踏んではじめて演出したのが「ガラスの家族」だった。今は亡き銭形平次の監督だった長谷川安人氏とふたりで上演台本づくりに励んだのを思い出す。  
 「ガラスの家族」は初演、再演、再々演と、3度も上演している。これほどこの作品にこだわったのは、わたしの演劇において〈母〉が基底にあるからにほかならない。  
 再々演の台本は、翻訳の題名「ガラスの家族」からは見えてこなかった、原題の「THE GREAT GILLY HOPKINS」のGREATにこだわり、このGREAT(人間の偉大さ)が焼き鳥の串のように劇全体をつらぬくようにした。最終場面で、ギリーと少年たちが歌う歌こそ、作者キャサリン・パターソンの思想であり、わたしの思想でもある。
2003年 W・シェイクスピア原作
三澤憲治台本
「ペリクリーズ」 
 書き始めて完成までに5ヶ月かかった『ペリクリーズ』。
 上演したいのは山々だが、ペリクリーズを演じられる俳優がいない。身長175cm以上、体脂肪率5パーセントの俳優がいれば上演したい。
 この台本は、原作では、マリーナは失意のペリクリーズに歌を歌うが、ペリクリーズはその歌を聞きもしない、となっているところを、マリーナに歌を歌わせ、ペリクリーズはその歌によって心を開いていくというように改変した。また、語り手のガワーをカットし、語り手なしで劇が運んでいくようにも改変した。
 それぞれの理由は以下を。

マリーナの歌の理由


 おそらくシェイクスピアは、ペリクリーズの妻と子を失った空虚な心は歌では救えない、と思ったから歌に意味を持たせなかったのだろうが、わたしはこの歌にあえて意味を持たせることにした。つまり、人生は、生と死の逆転の連続だという意味を。

語り手ガワーのカットの理由

 語り手を登場させると、どうしても説明的になってしまい、紙芝居という印象をぬぐえない。ガワーが語っていることは、現代の観客には蛇足でしかなく、それは俳優の肉体と音声によって表現されなければならない。そうすれば劇は緊密になり、テンポも生まれてくる。いわゆるブロードバンド時代に対応したスピーディーな場面転換とイメージの多層化である。
2002年 宮沢賢治原作
三澤憲治脚色
「ねこの事務所」 
 宮沢賢治はわたしの生まれつきとあう作家で、なかでも童話はとりわけ好きである。
 「ねこの事務所」は<いじめ>を扱った作品だが、主人公のかまねこ、つまり、いじめられっ子を聖なる天使として救済するところに特色がある。
 わたしの台本は、児童部のレッスン教材として書き上げた小品だが、愛着があり、乞われれば、小学校や中学校で上演したいと思っている。 
2001年 W・シェイクスピア原作
三澤憲治台本
「マイ・ハムレット」 

 ローカルで演劇をする場合、男優不足に悩まされる。このときも男優がいなくて少女がハムレットを観て、ハムレットに扮し、その劇体験を通して、彼女の生きがいが蘇生するというように改変した。
2000年 フォレスト・カーター著 
和田穹男訳(めるくまーる刊)
三澤憲治脚色
「リトル・トリー」 
 これは、リトル・トリーというインディアンネームをもった少年が、父母の死後、東チェロキーの山に住む祖父母に引き取られて生活し、祖父母の愛情に包まれて、「インディアンの生き方」を学んでゆく物語である。
 しかしこの物語は、一インディアンの生き方を超えて、わたしたち現代人が失ってしまった豊かな感性と情操の世界に満ち溢れ、人間普遍の生き方を教えてくれる。  
 脚色はしたが未上演の作品である。
 その理由は、これまた俳優の人材不足により、祖父母役と主役のリトル・トリーを演じられる俳優がいないことだ。
 台本を読んでもらえばわかるが、祖父とリトル・トリーにはずば抜けた身体能力と物を察知する能力が必要とされる。例えば、鷹がうずらを襲う場面のふたりの演技は、それなりの熟練した俳優でないと劇として成立しない。
1998年 W・シェイクスピア原作
三澤憲治台本
「リア王」 

 初演の「金愚・リア」は、愛を金で買った男の痛恨の悲劇として上演したが、その奇をてらったやり方を反省して原作をもう一度読み直し、「リア王」を16世紀の産物ととらえ、1998年当時、それがどのように有効かということをふまえて上演した。
1997年 ミヒャエル・エンデ原作
三澤憲治脚色
「はてしない物語」決定版 
 「モモ」の成功に気をよくしてミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の脚色に挑んだ。
 原作に忠実に脚色したところ、できあがったものは膨大な量に及び、とても上演できるような代物ではなかった。カットにカットを重ね、1996年に初演の幕を開けたが、これは完全なる失敗作だった。打ち上げの日、夜通し酒を浴びながら、臥薪嘗胆を誓ったことを思い出す。  
 初演の失敗は、過度な装飾性にあった。そこで決定版では、劇構造、登場人物の台詞、舞台装置などすべての面で余分な飾りを取り除き、シンプルに徹し、観客の想像力にまかせた。
 この試みによって、初演では考えもしなかった、舞台の下手にはベッド上のバスチアン、上手には白馬に乗ったアトレーユというように、ふたりの少年の〈病〉と〈勇気〉を対比させることができた。
1995年 ミヒャエル・エンデ原作
三澤憲治脚色
「モモ」 
 わたしのはじめての脚色作品。
 とにかく私心を捨て、原作に忠実にという視点で書き上げた。航海ごっこの場面は、私自身が子どもに還って演出し、1950年代の自由な精神を伝えようと、何度も何度も稽古したのを想いだす。
1993年 ベルトルト・ブレヒト原作
三澤憲治台本
「セチュアンの善人」 
 ブレヒトとの出会いは、高校生のときに俳優座の「セチュアンの善人」を観たのがはじめてだ。
 内容は高校生には難解でよくわからなかったが、主役を演じた市原悦子さんの演技にはなぜかしら心を打たれた。
「よし、東京に行って俳優になるぞ!」
 と決断したのもこの市原悦子さんの演技を見て感動したからにほかならない。  
 このときから、ブレヒトの戯曲を読んでいったが、戯曲はおもしろいのに、実際に東京で上演されたものを観ると、つまらないという体験をしばしばした。  
なぜだろう?  
 この疑問こそ、わたしに「セチュアンの善人」を書かせた原動力にほかならない。
 「セチュアンの善人」には大衆劇としての面白さがいっぱいある。思想を云々する前に、まずそれを表現することが先決だ。
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