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子どもの頃はまったく本を読まなかった。家に閉じこもって本を読むより、外で遊ぶことのほうが好きだった。
小学5年のとき、
「このままではいけない」
と、親が担任の先生に相談に行って数冊の本を与えてくれた。
あの頃の親は、昨今とちがって、絶対だったので、しかたなく読んだ。
はじめは義務感以外のなにものでもなかったが、志賀直哉の「小僧の神様」やトルストイの「イワンのばか」を読んだあたりから、少しずつ興味がわき、中学時代には夏目漱石を好んで読んだ。
高校時代には、受験勉強なんかそっちのけで、恋愛小説に耽溺した。
大学時代には、日本と西洋の戯曲を読み、文学では三島由紀夫に惹かれ、彼のほとんどの作品を読破した。
昭和45年、尊敬していた三島由紀夫は自刀した。
この空虚から抜け出せたのは、吉本隆明氏の書物だった。三島由紀夫への喪失感が、吉本隆明氏の書物への没入へと加速されたのだろう。
吉本氏はたくさんの名著を著しているが、中でも右にあげた『言葉からの触手』は、まさに〈現在〉をとらえた箴言集といえる。この書物というものの完璧な定義には、ただただ脱帽するのみだ。
そして現在、わたしは「源氏物語」を読んでいる。千年も前に書かれた書物を理解するにはかなりの根気を必要とするが、ただひたすら日本女性の未来像を夢見るために読んでいる。 |
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三澤憲治 |
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「書物。それは紙のうえに印刷された文字の集積体でもなければ、ある著作者の観念の系譜が、言葉にあらわされたものでもない。
それは表側の視線からみると、起源からやってくる人間の反復・霧散・逼迫の連続体であり、裏側の視線からみると終末から逆に照射された人間の障害・空洞・異種または同種交配の網の目である現在のことだというべきだ。
書物は、至上の書物あるいは最高の書物でも、ただひとつの絶対的な真理を埋蔵することは、先験的にできない。
その理由は、どんな書物も書物であるかぎり、表側からの反復・霧散・逼迫と裏側からの障害・空洞・異種または同種交配の視線によって、はじめてこの世界に存在できるからだ」 |
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『言葉からの触手』 吉本隆明 |
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これまでキャサリン・パターソン、ベルトルト・ブレヒト、ミヒャエル・エンデ、ウィリアム・シェイクスピアと、外国の小説や戯曲を劇化してきて、演劇人生の最後は日本の作品の劇化をと思い立ったとき、真っ先に浮かんできたのが『源氏物語』であった。
周知のように、小説を脚色したり、戯曲から上演台本を作るには、登場人物の微細な心の動きと関係性を把握しなければ創れるものではない。
ところが『源氏物語』には最初から躓いた。 先行の現代語訳を読んでも、主人公光源氏をはじめ、主要な登場人物の心の動きと関係性がつかめないのだ。そこで、
〈これはもう原文にあたるしかない〉
と思い、七年前から原文を読みながら、わたしなりに疑問点を一つずつ解決していった。それが、10月17日(金)に刊行する三澤憲治訳『真訳 源氏物語』である。 |
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