|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2013年8月5日(月)
広島の人はよくこんなことを口にする。
「広島にいたって駄目だよ、俳優になるなら東京に行かなくちゃ」
と。MACの俳優たちからこんなことを聞かされると、わたしは一喝する。
「じやあそいつに言ってやれよ、あなたこそ広島なんかで営業活動しないで東京へ行けば」
と。
今やインターネットの普及で、世界共有の時代だというのに、まだこんな時代遅れのことを言う奴がいる。愚かなことだ。だからいつまで経っても広島は文化が発展しないのだ。
東京の演劇はそんなに素晴らしいのか?
今、蜷川が演出した唐十郎の「盲導犬」の一部をYou tubeで観ることができる。これを観てのわたしの感想はこうだ。箇条書きにすると、
@ポスターはとても素晴らしい。唐十郎の世界をうまく描き出している。
A俳優の演技は、三人とも稚拙だ。特に若い俳優がシンナーの袋を吸ってしゃべるところなんて、なにを言っているのか皆目わからない。わたしは、蜷川や唐と同世代だからよくわかるが、あの頃、新宿や渋谷でシンナーをすっていた奴は、こんな程度じゃない。唐の言う世の中に対する〈不服従〉を虚ろなまなざしで具現していた。その域にとても及ばないのだ。
B女優のセリフはどうか? MACでは今秋、中島千鶴が「セチュアンの善人」のシェン・テとシュイ・タという難役を演じるから、悪い見本で見せた。タレントだから仕方がないが、まるでセリフになっていない。一定の音程で早口でしゃべりまくるので、女の悲哀も情念もまるで伝わってこない。CMで莫大なギャラを稼いでいるのだから、ボイストレーナーを雇って、発声を一からやり直した方がいい。演劇がなぜスポーツに負けるか。それはアスリートのように身銭を切って、自己の肉体を切磋琢磨する奴がいないからだ。
C唐十郎と三島由紀夫の演劇は、まったく異質な演劇ととらえがちだが、根本は一緒だ。セリフはある詩的表現のための手段にすぎないのだ。だから俳優は、いかに感情が激しても、あくまでも詩的に美しく表現することが要求される。
D盲人の演技はどうか? 巧いと噂に聞いていたが・・・、期待外れだった。作者が盲人と設定したのにはそれなりの理由がある。とにかく盲人のリアリティがない。
最後に、蜷川の「盲導犬」は、台本を読んでいない人にはわからないと思う。演劇を観るのに、台本を読んでおかなければいけなかったり、ワークショップをしてから観なければならないというのでは、もはや演劇ではなく、アジテーションでしかない。
演劇は本来、世界万人誰もが共有できるものである。
演劇のことなんかなにも知らない人が、広場でやっている演劇を通りすがりに観て感動する。
これこそが演劇の価値である。
今秋、MACはブレヒトの「セチュアンの善人」を上演する。ご覧になれば、わからないセリフはまったくなく、そこには詩的で情念のある言葉が発せられていことに気づくだろう。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|