THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴20年の広島で活動する演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2007年3月19日(月)

 昨夜は、今はなき「劇団SEED」の元劇団員、今は大蔵笑の社長である中本真吾氏の結婚披露パーティに行った。パーティは、中本氏の人徳を反映して、マスコミの有名アナウンサーが司会し、各界の著名人も来ていて盛大そのものだったが、ほかの元劇団員のだれとも会えなかったのには一人寂しい思いをした。
 そんな空虚感を味わっていたところ、二次会で8年振りに照明家の稲田さんと邂逅した。向原高校の「劇変・十二夜」の公演で舞台監督を手伝ってもらった八幡さんも同席して杯をかわした。
 稲田さんとの出会いは、わたしの広島での初演出「ガラスの家族」からで、「リア王」では大阪公演にも付き合ってもらった。照明の特徴といえば、ディテールにこだわった<深い照明>である。「リア王」の、特に広島公演の照明は出色の出来栄えで、大いに演出を助けてもらった。
 酒宴の席で二人が一致したことがある。 
 それは、お互いに、
 「まだ照明のことが・・・・・・演劇のことが・・・・・・よくわからない」
ということだった。
 遅ればせながら私は今、わが演劇人生の転機を迎えている。日曜日のレッスンも、演劇専門クラスのHAS(ヒロシマ アクターズ スペシャリスト)の連中には唐十郎の「少女仮面」を教えている。この「少女仮面」を教えている時に、どういうわけか私の俳優の血が騒ぎ出し、つい演技指導の枠を越えて、演じてしまうのだ。俳優としての唐十郎には勝てる自信があるが、戯曲となると天才の唐十郎にはかなわいだろう。でもそろそろ、俳優、演出と歩んできて、劇作という領域にも踏み込んでもいいかなと思っている。
 こんなことを稲田さんに話すと、こう諭された。
 「どの世界にも晩成型の人間がいる。ぜひ書いてみては・・・・・・」と。
 一流の照明家はいつでも未来志向だ。
 さあ、これからは、「演劇の自由」を自分自身で束縛しないぞ。演劇の血が流れるにまかせて書いてみるぞ! 昨夜の酒は、大酒を食らったときのいつものクセですべて吐き出してしまったが、薬酒だったな。

2007年3月15日(木)

 ウェブで2000年に脚色した「リトル・トリー」を連載していたが、原本紛失のためアップできない。会社と自宅のパソコンのデータは残っていなく、いつも台本を書くときに使うコクヨの大学ノートも残っていない。記録マニアのわたしにとっては、これは信じられないことである。「そんなバカな!」 会社も自宅も何度も何度もあらゆる所を探したが、「リトル・トリー」以前の台本やノートは残っているのに、この「リトル・トリー」だけが見つからないのだ。そこで会社と自宅のパソコンでシステムの復元をしてみたが、やはり浮かび上がってこない。きっとあの慌しかった事務所の引越しでフロッピー(当時はCDに保存していない) もノートも失くしてしまったのだろう。
 最後に見つけ出す方法は? 
 2000年に「リトル・トリー」をテキストとして配った教え子たちに尋ねてみることだ。
 確率は0パーセントの予想! 
 なぜなら書いた本人が紛失してしまった台本を教え子たちが保存しているわけがないからだ。
 そこで、わたしが公演すると、必ずチケットを50枚以上買ってくれる教え子に電話してみた。残念、彼女は「「リトル・トリー」のレッスンを受けていなかった。「彼女が持っていないなら書き直すしかないな・・・・・・」と思って原作を読み直してみたとき・・・・・・「待てよ!と最後の頼みの綱としてKさんとIさんを想い出した。Kさんは今ベルギーで、Iさんは東京で俳優修行をしている。Kさんはしばらくして他人を介して「探してみる」ということだったが、なんと電話したIさんに聞くと・・・・・・・・
 以下はIさんとのやりとりである。

「ええっ! 持ってるの?」
「ええ」
「信じられないよ。書いた本人が失くしてしまったのに・・・・・・」
「わたし、先生の台本はすべて持ってます。東京にも何冊か持ってきていますが、リトル・トリーがあるかどうかは・・・・・・なかったら実家の母に頼んで探してもらいます」
「悪いね、ありがとう、あったら着払いで送って!」
「ええ」
「・・・・・・・ところで、何歳になった?」
「28ですよ。でもね、東京に来たらどんどん若返って、21、2くらいにしか見られません」
「いいことだよ、若く見られることは・・・・・・俳優は若く見られることがいちばんだよ」
「(笑い)」
 
 こんなことがあるのか? 無名の演出家が書いた台本を持ち続けている。これはまさに奇跡だ! これほど嬉しいことはない。新作への炎がどんどん燃え上がってくる。
 ありがとう! Iさんに幸運あれ!

2007年3月12日(月)

 ある所から芝居のDVDが送られてきた。ある俳優の演技力を見てくれとのことだった。ひと月前もHASのメンバーがある著名な劇作家の高価なCD集をわざわざ持ってきてくれたが、とうとう観なかった。なぜなら、その作家の戯曲はすべて読破していて、いまさら観ても創造の邪魔になるだけだと思ったからだ。
 だいたい私は他人の演出した演劇作品は観ない主義で、わたしの創造の糧となっているのは、演劇とはちがうジャンルの映画だ。映画をおさえておけば、全世界の俳優の動性がわかり、今世界は演技的にどの程度のレベルかがよくわかるからだ。
 いつの頃からか私は他人の演劇作品を観なくなった。他人の作品を観ると、必ず鳩尾が痛み出し、劇場からの帰りには飲み屋に直行して大酒をあおるはめになってしまうからだ。唯一の例外は井上ひさし氏の「人間合格」を東京の紀伊国屋劇場で観たときで、このときは演出も俳優も井上戯曲のなんたるかをよく理解していたので、大笑いし、涙し、終演後はわざわざ受付にいらっしゃったお子様の井上都氏にお礼を言ったほどだ。これはもう例外中の例外で、それ以来そんな経験はない。
 そんなわけで、DVDが送られてきたきたとき「嫌だな」と思ったが、ニ三日してやっと重い腰をあげて観ることにした。作品は東京の超一流の劇作家のもので非常に興味があったが、これがいただけない。演出をなりわいとする者にとって、演技力を云々する前に演出が気になってしかたがないのだ。演劇は出だしの数分間で決着がついてしまう。これは演劇にかぎらず文学作品でも同じことで、書き出しの数行でもうその小説の出来具合はわかってしまうものだ。演劇を観たこともない人がいるからわかりやすく言うと、人間は例えば電車などに乗るとつい眠ってしまうものだが、これは電車の同一リズムが身体に心地よく伝わり眠りを誘ってしまうからだ。DVDの演出家はこの演劇の敵である同一リズムを理解していない。延々と繰り返される同一リズムには辟易した。
 では俳優の演技はどうだったか?
 残念ながら稚拙そのものだった。俳優の演技を見る場合、その俳優がどの程度のレベルかは舞台の立ち姿を見ればすぐにわかる。この立ち姿を獲得するために鈴木忠志は「鈴木メソッド」を考案したといってもいい。それほど俳優にとって舞台の上に立つ、つまり板の上に立つことは至難の業である。わたしたちは舞台を板という。板の上に立てる俳優はなかなかいないものだ。
 板の上に立てる俳優・・・・・・それは森光子だ。
 森光子が板の上に立っている姿を実感したのは「放浪記」を大阪の梅田コマ劇場で見たときだ。
 話はそれるが、森光子の「放浪記」はわたしの演劇に衝撃を与えた作品で、5回も観ている。最初は桐朋学園の学生時代、総見で明治座の「放浪記」を観に行った。当時、ブレヒトを学び、ピーター・ブルックや別役実や唐十郎を知って、演劇の最先端を歩んでいると自負していたわたしたちは、「ええっ、おれたちに商業演劇を観させるの?」とバカにして劇場に出かけた。案の定、劇がはじまっても、主人公の登場に音楽をかぶせる商業演劇特有のやり方に辟易し、わたしたちはゲラゲラ笑ってしまった。ところがだ。劇が大詰めにさしかかったとき、客席のあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。すすり泣きばかりか、「うん、そうだ、そのとおりだ!芙美子そのとおりだ」と森光子扮する林芙美子の台詞にいちいち半畳を入れるのではないか!
 このとき、わたしに衝撃が走った。「演劇にこんな力があるのか? バカにしていた商業演劇で、人々が泣いている・・・・・・おれたちの演っている演劇ではこんな光景は見かけたことがない・・・・・・観客は静かなものだ・・・・・・もしかしておれたちの演劇は・・・・・・演劇とはいえないかもしれない・・・・・・」。
 それ以来わたしは、生活人を納得させる演劇とはなにかを考えるようになり、じぶんの劇団を旗揚げするときに「放浪記」の作者である菊田一夫の「がめつい奴」を選んだ。
 そして5回目に「放浪記」を観たとき、それまで気づかなかった森光子の俳優としての偉大さを知った。
 森光子は瀬戸内の浜辺に着物を着て下駄を履いて立っている。
 それはまるでゴッホの絵のようだった。ゴッホの絵は、あの有名な「ひまわり」の絵にしても、けっして根は描かれていないが、ひまわりの下には根があり、その根が大地から命を汲み上げているのが推察できる。このゴッホの絵のように、「放浪記」の森光子はまるで根が生えているように板の上に密着し立ちつくしているのだ。
 わたしは感動に震え、その偉大さに圧倒され、至福を実感した。 

2007年3月8日(木)

 N・A・Cが選び抜いた俳優たちのグループ、セグンドソルのホームページが自分としては納得のいくものではなかったので、すべて修正した。あとは森田直幸の撮影写真を追加すれば明日にでもアップできる。少し暇ができたので、ご無沙汰の演出日記を認めることにした。
 さて、「現実のほうがドラマより劇的だ!」といわれて久しいが、「はてしない物語」「セチュアンの善人」を再度パソコンで打ち込みながら思ったことがある。
 わたしは朝7時に起床し、まず「みのもんたの朝ズバッ!」を見てから土井洋輝くんが出演している関係上 (今は出演していないが、多くの土井洋輝ファンと同じようにわたしも今か今かと再度の出演を心待ちにしている)、NHKの「芋たこなんきん」を見て朝風呂に入って出社するというのが日課だ。「朝ズバッ!」はみのもんたが視聴者代表の立場になってさまざまな事件に切り込み、怒りを露わにしている。「朝ズバッ!」で日々報道されるニュースは今や、「現実のほうがドラマより劇的だ!」という概念は成立しなくなり、現実の事件はドラマにするにはあまりにも唐突で短絡すぎる動機なき殺人の連続だ。現実はドラマとは無縁の異常の世界を彷徨っているといっていい。
 だから、みのの怒りは爆発する!
 みののこうした怒りはすべてわが国の「精神教育」の欠如に起因している。
 この現実の異常を打開するには?
 わたしは演劇教育を小学校の授業に復活させ、人間の関係性を教えることがひとつの方策だと確信している。
 例えば、AとBとのふたりの人間の関係性からAとBとCとの三人の関係、そしてAと集団の関係性に変わると、人間はどういうふうに変容していくのかを教えるのが幼児、児童期には大切だと思っている。
 そして、言葉の裏を読むことを教える。
 例えば、「嫌い」という言葉をひとつ取っても、ほんとうに嫌いで言うときと、好きなのに「嫌い」と言ってしまうときと、好きなのに「嫌い」と言わされてしまうときなど、「嫌い」という言語表現にはさまざまな意味があるように言葉の裏を理解する能力を養うことが、携帯記号世代(絵文字世界)に突入する小学校高学年では必要になってくる。
 昨今の事件は、この言葉の裏を理解できない短絡思考がもたらした理不尽なものでしかない。
 さて、余談が長くなったが、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」とベルトルト・ブレヒトの「セチュアンの善人」は普遍的なドラマだ。全世界で人類はこの2作品のテーマを越えてはいない。
 わたしは、もうそろそろ、このテーマを普遍的という領域から引きずりおろしたほうがいいのではないか、と思っている。
 これがわたしがパソコンを打ちながら日々思ったことで、今後の私自身の演劇的なテーマはここにはない。
 「源氏物語(仮題)」では、女性の普遍性を考察しようと思っている。
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