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2007年8月28日(火)
先日のレッスンで村上龍の小説を読んだことがあるか? と尋ねたところ、ほとんどが読んでいないことがわかり失望した。 周知のように村上龍は疾走する文学の第一人者であり、話体を極限まで突きつめている稀有な作家である。わたしは演出家としてこれまでどれほどの恩恵を受けたかわからない。 例えば、かれの『料理小説集』のSubject5では、文章の脇に登場人物の内面の言葉が書いてあるのだが、これによってふたつの物語が同時に進行していくという画期的な手法を使っている。これによって物語は多層的になり、現在の揺れ動く不安をダブルイメージで映し出していくのだ。こんな凄いことができる作家なのだから、せめて『コインロッカー・ベイビーズ』『インザ・ミソスープ』
『共生虫』のどれかひとつくらいは読んでおいてもらいたいものだ。 さて、今『源氏物語』の現代語訳に取り組んでいるが、わたしは演劇人だから演劇人なりにひとつの手法を思いついた。それは光源氏の内面の言葉を〈〉で示すということである。 例えば、
内裏にいかに求めさせたまふらむを、
いづこに尋ぬらんと思しやりて、かつはあやしの心や、六条わたりにもいかに思ひ乱れたまふらん、恨みられんに苦しうことわりなりと、いとほしき筋はまづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひをあはれと思すままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまをすこし取り捨てばやと、
思ひくらべられたまひける。
という原文は次のように訳した。
(源氏の君は)〈帝はどんなにじぶんを捜しておられることか、どこを捜しておられるのだろう?〉と思われ、一方では〈(こんな女に心を奪われるとは)じぶんながら不思議だ、六条の方もどんなに悩んでおられることか、恨まれるのは辛いけど 無理もない〉と、気の毒がられ真っ先に思い出される。無心であどけなく座っている目の前の女を〈可愛い〉と思われると、〈(六条の方の)あまりにも思慮深く、こっちが息苦しくなるような態度を少しでもしなくなったら(いいのに)〉と、つい比較されるだった。
原文にない言葉は()で示しているので、()や〈〉が多くて読みづらいだろうが、それさえ気にしなければ意味ははっきりわかると思う。〈〉という手法を発見したことによって、確実に演劇化への一歩を踏み出したといえる。『源氏物語』54帖を訳すのはかなりの時間がかかるが、それはただ時間をかければ可能なことなので、私自身はいたって〈余裕〉である。54帖全部を訳したとき、きっと私自身の〈世界〉は変わってしまうだろう。 |
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