THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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近松門左衛門 『堀川波鼓』(ほりかわなみのつづみ)

 まず近松は、謡曲の『松風』で語りだし、  

 それは塩焼く海人衣、これは夫の江戸詰めの(それは謡いの塩焼く海人の衣がえの話、これから語るのは夫の江戸詰めの留守に起こった物語)留守の仕事の張(は)り物や。

 と、留守仕事の張物をしているお種の情景に転換させる。そこへ妹のお藤が里帰りしてくる。張物を手伝う妹にお種はいきなり、

お種 いやなうおふぢ・かならず、お主(しゆう)の気に入つて、いつまでも奉公しや・@男やなんど持ちやんなや。身につみてこそ知られたれ・彦九郎殿とは、様子(やうす)ある夫婦ゆゑ・嫁入の時の嬉しさは、たとへん方(かた)もなかりしが・小身人(せうしんびと)の悲しさは、隔年(かくねん)のお江戸詰め・お国にゐては、毎日の御城詰(おしろづ)め・月に十日の泊り番。A夫婦らしうしつぽりと・いつ語らひし夜半(よは)もなし。されども主(ぬし)は侍気・かう勤めねば、侍の立身がならぬとて・心強うは言ひながら、去年(こぞ)六月の江戸立(だ)ちには・Bまた来年の五月にお供(とも)して・下(くだ)るまでは逢はれぬぞや。無事でゐよ。よう留守せよとの顔付きが・目にちろちろと見るやうで、ほんに忘るゝ隙(ひま)もない。不断(ふだん)恋してゐるやうで・いつかいつか

太字の〔現代語訳〕 
@夫なんか持つな
A結婚してもいつからか夫婦らしくしっぽりと語り合ったこともない
B主人が江戸へ行くときに『また来年の五月に殿のお供をして帰るまで逢えない。無事でいてくれ、しっかり留守を』と言われたときの顔つきが今もちらちらと見えるようで、ほんとに忘れることもない。ずっと恋してるようで、いつお帰りか いつお帰りかと待っている)

 と、江戸詰めの夫のいない寂しさと夫をひたすら待っている胸のうちを明かす。このお種の夫恋しさは、奥の座敷から聞こえてくる鼓を打つ音と謡曲『松風』を聴くと、
お種 あら嬉しや。あれ連合(つれあ)ひのお帰りぞや・いでいで迎ひに参らう
〔現代語訳〕 
「ああ嬉しい、夫のお帰りだ、さあさあ迎えに行こう 」 
 
と言って、妹から
「正気の沙汰か、あれは庭の松の木、彦九郎様(夫)は江戸よ」
 とたしなめられると、
お種
 エヽ愚かな。おふぢ。なんの気が違はうぞ・男の留守の徒然(つれづれ)の、せめての心慰みに・こゝは所も因幡(いなば)の国・まつとし聞かば、帰り来(こ)ん
〔現代語訳〕 
「ばかなこと、気など狂ってるものか、夫の留守の退屈さの、せめてもの慰みに、松を夫になぞらえた、ここは因幡の国(鳥取)、謡にも松と聞けば帰ってくると謡われた所」
 と言うほどである。  
 奥の座敷から鼓と謡曲が聴こえたのは、お種の弟である養子の文六が鼓の師匠の宮地源右衛門から稽古をしてもらっていたものである。源右衛門が帰るというので、お種はせめて挨拶でもと座敷へ行き、いつのまにか酒宴になる。
 お種は大の酒好きでどんどん杯はすすみ、
お種 エイ何言(い)やる・お肴もない酒(ささ)なれば、飲んであげるが御馳走
〔現代語訳〕 
「なにを言う、酒の肴もない酒なので飲んであげるのがごちそう」
 と自分勝手な理屈をつけてなおも酒を飲む。  
 夕暮れになり、妹は奉公する邸から迎えがきたので帰っていく。文六も旦那の邸に行くというので源右衛門は座敷に退座し、お種は一人鏡台の前でほてった顔をして櫛をなでていると、夫と同役の磯辺床右衛門(ゆかえもん)がやってきてお種を抱きしめて、
床右衛門 これ申し・お留守を存じて参るからは、御親父(ごしんぶ)に用はなし・そもじ様ゆゑこがれ舟、人目の岩に波せきて・砕くる磯辺床右衛門。今年お江戸を勤むれば・御加増(ごかぞう)あるは知れたこと。武士の立身振り捨てて・虚病(きよびやう)を構へ、願ひを上げ・御国(おんくに)に留まるも、皆君ゆゑと思し召せ・病気も嘘で嘘ならず。恋が病(やまひ)のおたね様・仮(かり)の情けのお薬を、ちよつと一服(ぷく)頼みます・拝みます
〔現代語訳〕 
「これ、留守を承知で来たのは親父に用ではない、あなたに恋焦がれ、思うようにはらないで、心が砕ける磯辺床右衛門。今年江戸へのお供をすればご加増になるのはわかっている。その武士の出世をすてて、仮病をつくって願いを出して、国にいるのも、みなあなたのためと考えてください、病気は嘘で嘘でない、恋の病で その原因はお種様、仮の情けという薬を、ちょっと一服頼みます、拝みます」
 と横恋慕する。お種はもう恐ろしく、
お種 こりや侍畜(さぶらひぢく)生(しやう)め・彦九郎殿とは念比(ねんごろ)なり・人間の道に背くといひ、御家中(かちゆう)の後ろ指・殿様のお耳にたゝば、身代(しんだい)の破滅となるが、知らぬかや・小倉彦九郎が女房ぞ。侍の妻なるぞ・推参(すいさん)なことをして、かならず我を恨みやるな・沙汰はせまい。サア帰りや
〔現代語訳〕 
「ええい、侍の皮をかぶった畜生め、彦九郎殿と懇意にしている その女房に言い寄るとは人間の道に背くばかりか、藩内からも後ろ指をさされる。殿様の耳に入れば、身分も財産も破滅となるが、それを知らないの、小倉彦九郎が女房よ、侍の妻よ。無礼なことをして、後でけっしてわたしを恨まないで、誰にも言わないから、さあ帰りなさい」
 と必死で抵抗すると、床右衛門は
「なら、ここで刺し違え、心中を」
 と刀を抜いてお種の胸ぐらをつかんでおどす。お種は女心に本気だと思い、
「今死んでも犬死、根も葉もない噂を流すのも悔しい」  
 ので、とっさの嘘を思いつき、
お種 さても嬉しき御心底(ごしんてい)。なにしに無下(むげ)にいたすべき・されどもこゝは親の家。今戻られてはいかゞなり・明日(あす)の夜にても我らが内へ、そつと忍んでくだされなば・うち解け、思ひ晴らさう
〔現代語訳〕 
「それは嬉しい気持ち。どうしておろそかにしましょう、だけどここは親の家。今にも親が帰られたらどうしよう、明日の夜にでもわたしの家へ、そっと忍んでくださったら、打ち解けて、思いをかなえましょう」
 と言ってしまう。すると襖の向こうで源右衛門が鼓を打って、
源右衛門 邪淫の悪気(あくき)は身を責めて責めて・剣(つるぎ)の山の上に、恋しき人は見えたり。嬉しやとて、よぢ登れば・剣は身を通す、磐石(ばんじやく)は骨を砕く。こはそもいかに恐ろしや・
 と謡う。床右衛門は
「今の冗談だ、嘘だ、嘘だ」
 と言って逃げる。お種は源右衛門に聞かれたと思い仰天し、胸が高鳴るのを抑えようと一人で酒を飲む。すると縁先に物音がする。
お種 ヤアこれは源右衛門様・お前はどれへお越し
〔現代語訳〕 
「やあこれは源右衛門様、あなたはどちらへ行かれる」
 と言へば・
源右衛門 イヤ女中ばかりは遠慮に存じ・罷り帰る
〔現代語訳〕 
「いや女性ばかりの所は気が引けて、帰ります」
 と、立ち出づる。袖を控へて・
お種 さては、お前は今の事御耳(おみみ)に入りたるかや・勿体なや、恐ろしや。彦九郎といふ男を持ち・真実にいふべきやうはなし。当座の難を逃れんため・騙して申した分のこと。御沙汰なされてくだされな・ひとへに頼み参らす
〔現代語訳〕 
「さては、あなたは今のこと聞かれたか、畏れ多いこと、恐ろしいこと。彦九郎という夫があって、本心から言うわけがない。その場の難を逃れるために、だまして言っただけのこと。人には言わないで。お願いします」
 と、手を合せて泣きければ・源右衛門も為方(せんかた)なく・
源右衛門 いや聞いたでもなく、聞かぬでもなく・あまり側から聞きにくゝ、謡をうたひ、紛したり・申しても、易(やす)大事(だいじ)。拙者は他言いたすまいが・錐(きり)は袋と、外よりの・取沙汰は存ぜぬ
〔現代語訳〕 
「いや聞いたわけでもなく、聞かなかったわけでもなく、あまり近いので聞きにくく、謡をうたい、まぎらわした、なんと言っても、たやすいようで一大事。わたしはしゃべらないが、キリは袋に入れても先がしぜんに現れるというから、外から、評判が立つのは知らない」
 と、振り切り出づるを、縋り留(と)め・
お種 さりとは酷い御言葉、御身(おみ)様(さま)も若い殿・我も若い女の身。実(じつ)のかうした事聞いても・隠し、隠すは世の情け。この分で往(い)なせては・私心落ち着かず。言ふまいとある固(かた)めの杯(さかづき)・取り交して
〔現代語訳〕 
「それはまたむごいお言葉、あなたも若い方、わたしも若い女。実際にあったこういうことを聞いても隠しあうのが世の情け。このまま帰らしては、わたしの心が落ち着かない。口外しないという約束の杯を取り交わしてから」
 と、銚子を取り・濃茶(こいちや)茶碗(ぢやわん)にちやうと注(つ)ぎ・つゝと干して、また引き受け・半分飲んで、差しければ・
源右衛門 こは珍らしいつけざし
〔現代語訳〕 
「これは珍しい口づけの杯」
 と、おし戴いて飲んだりけり・おたねもよほど酔(ゑ)ひはくる。男の手をしかと取り・
お種 コレこな様とても、主(ぬし)ある者のつけざしを・参るからは罪は同罪・何事も沙汰することはなるまいぞ
〔現代語訳〕 
「さああなたも、夫のある者の口づけの杯を、飲まれたからには罪は同罪、何事も言いふらすことはできない」
 と、詰めければ・
源右衛門 いやはや、かゝる迷惑
〔現代語訳〕 
「いやはや、とんだ迷惑」
 と、飛んで出づるを、抱(いだ)き付き・
お種 エヽあんまり恋知らず・さてもしんきな男や
〔現代語訳〕 
「ええ あまりにも情け知らず、さてもしんきくさい男よ」
 と、両手を回して男の帯・ほどけば解(と)くる人心、酒と色とに気も乱れ・互ひに締(し)めつ締められつ、思はずまことの恋となり・
お種 サアこの上は、今の事沙汰はならぬが、合点か・
〔現代語訳〕 
「さあ こうなったからには、今のこと言いふらすことはできないが、承知か」
源右衛門 オヽオヽ、余所(よそ)かと思へば、我が身の上。この事を隠さいで、なん
〔現代語訳〕 
「オオオオ、よそ事と思えば、じぶんの身の上のこと。このことを隠さないで、どうしていられよう」
 としやうじを押しあけて・転寝(うたたね)枕(まくら)、かりそめの・縁(えん)の端(はし)、また因果の端、うたてかりける契りなり。

 このようにお種は、夫と同役の床右衛門から横恋慕をされ、これを逃れるために、その場のとっさの思いつきで、日を改めて会う約束をしているのを、義子文六の鼓の師匠源右衛門に聴かれ、源右衛門の口を封ずるために茶碗酒をくみかわすうちに一線を越えてしまう。
 この些細な言い逃れの積み重ねが〈不義〉〈密通〉に進展し、夫に問いつめられてお種は自害する。だから夫も、お種に憎しみをだくこともできないで妻のお種を自害に追いやり、女敵打にでかけて源右衛門を斬り殺す。  
 このように近松は、お種のその場を逃れる行為の偶然性を積み重ねて、お種の自害、女敵打の殺し場までわたしたちをつれていく。「うまい」「流石」という半畳をいれたくなるほどだ。  
 お種は侍の女房として設定されているが、描き方は町家的であり、遊女的でもある。近松が意図したのは、この町家的な、遊女的なお種の些細な作為が、自己展開して、武家の倫理や慣行法に触れるとき、無惨な殺し場に到達し、人間関係を破減に追いやるという悲喜劇であり、ここで重要なのは、お種のつまらない作為のつみかさねという一点に近松が着目したということだ。
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