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三島由紀夫 『弱法師』(よろぼし)
原典の『弱法師』は、
○河内の国、高安の左衛門尉通俊は人の讒言によってわが子俊徳丸を追放してしまった。
○その非を悔いた通俊は四天王へ行って不憫なわが子俊徳丸の後世での安楽を願って施行する。
○そこへ盲目の弱法師(実は俊徳丸)が現れ施行を受ける。弱法師は四天王寺の縁起を語り、折しも西の海に沈む入り日を拝む(日想観)。
○彼は、かつて見た難波周辺の景色を心眼で見て達観するが、実際には目が見えないので、往来の人にぶつかって倒れたりする。
○すでにわが子と気づいていた通俊は、夜になって自ら名乗り、俊徳丸を高安に連れてかえる。
このように原典の弱法師には、父親との和解があり救いがある。だが三島の『弱法師』には救いがない。
舞台は無機質な家庭裁判所の一室。
シンメトリーの上手に川島夫妻。
下手に高安夫妻。
中央に調停委員の桜間級子。
重苦しい雰囲気の中、級子が口を開いたところから、登場人物の台詞によって、話していることが、五歳の時に東京大空襲で失明し、両親を失った、今は二十歳になった俊徳の親権争いであることがわかってくる。
川島夫妻が育ての親の権利を主張するのに対し、高安夫妻は生みの親の権利を主張し、話は平行線をたどるばかり。しかたなく級子が俊徳を連れてくる。俊徳は誰にも心を開かない傲慢で冷酷な美青年で、二組の両親を嘲る。
俊徳 (おそろしく激して立上り) 何をごちゃごちゃ言ってるんです! 黙りなさい! (一同撃たれたごとく沈黙。又坐り)・・・・・・いいですか。あなた方の目はただこういうものを見るためについている。あなた方の目はいわば義務なんです。僕が見ろと要求したものを見るように義務づけられているんです。そのときはじめてあなた方の目は、僕の目の代用をする気高い器官になるわけです。たとえば僕が青空のまん中に大きな金色(こんじき)の象が練り歩いているのを見ようとする。そうしたら即座にあなた方は、それを見なくてはならないんです。ビルの十二階の窓のひとつから大きな黄いろい薔薇が身を投げる。夜ふけの冷蔵庫の蓋をあけると、翼の生えた白い馬がその中にしゃがんでいる。楔形(せっけい)文字のタイプライター。香炉のなかの緑濃い無人島。・・・・・・そういう奇蹟を、どんな奇蹟でも、あなた方の目は立ちどころに見なくてはならない。見えないのなら潰れてしまうがいい。
こう俊徳に言われて、生みの親も育ての親も卑屈なほど従順になり、歓心を買おうとする。その姿は子供への愛や執着に踊らされる哀れな親というよりも、魅惑的な強者に心酔し、服従する弱者そのものである。
川島 われわれはみんな恐怖のなかに生きているんだよ。
俊徳 ただあなた方はその恐怖を意識していない。屍(しかばね)のように生きている。
川島 そうだ。われわれは屍だよ。
川島夫人 私だって屍ですとも。
高安夫人 屍なんて縁起でもない!
高安 まあまあ、お前にはわからんのだ。
俊徳 その上あなた方は卑怯者だ。虫けらだ。
川島夫人 卑怯者だわ。
川島 虫けらだよ。
高安夫人 ああやって子供をスポイルしてしまうんですわ。親は虫けらなんかじゃありません。
高安 お前も俊徳を呼び戻したかったら、虫けらになる他はないんだよ。
高安夫人 (非常な決心を以て) 私もそれなら虫けらですよ。その代りお母さんと呼んで頂戴。
俊徳 (無感動に) お母さん・・・・・・虫けら・・・・・・。
高安夫人 やっとお母さんと呼んでくれましたよ!
高安 そのあとに 「虫けら」 がちゃんとついてた。
俊徳 あなた方はみんな莫迦で間抜けだ!
一寸した躊躇の間。
川島夫妻・高安夫妻 私たちはみんな莫迦で間抜けです。
ここで俊徳の異常性は、両夫妻の異常性に転化し、喜劇と化している。 級子は両夫妻を退出させ、俊徳と膝をまじえて、ゆっくり話しあうことにする。
級子が美しい夕映えに感嘆の声を上げると、俊徳はそれを否定し、「この世のおわりの景色」だと言い張る。
俊徳 僕はたしかにこの世のおわりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いたその最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のおわりの焔が燃えさかっているんです。何度か僕もあなたのように、それを静かな入日の景色だと思おうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれている姿なんだから。
ごらん、空から百千の火が降って来る。家という家が燃え上る。ビルの窓という窓が焔を吹き出す。僕にははっきり見えるんだ。空は火の粉でいっぱい。低い雲は毒々しい葡萄いろに染められて、その雲がまた真赤に映えている川に映るんだ。大きな鉄橋の影絵の鮮やかさ。大きな樹が火に包まれて、梢もすっかり火の粉にまぶされ、風に身をゆすぶっている悲壮なすがた。小さな樹も、小笹(こざさ)のしげみも、みんな火の紋章をつけていた。どんな片隅にも火の紋章と火の縁飾りが活発に動いていた。世界はばかに静かだった。静かだったけれど、お寺の鐘のうちらのように、一つの唸りが反響して、四方から谺を返した。へんな風の稔りのような声、みんなでいっせいにお経を読んでいるような声、あれは何だと思う? 何だと思う? 桜間さん、あれは言葉じゃない、歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚という奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。この世のおわりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
見える? 見えるだろう? あちこちで人間が燃えているのが。落ちた棟木(むなぎ)の下、石材の下、とじこめられた部屋の中、いたるところで人間が燃えているのだ。そこかしこに真裸の薔薇いろの屍がころがっている。まるで恥かしさのあまり死んだように薔薇いろの、罌栗(けし)いろの、それから後悔のように真黒の、色さまざまの裸かの屍。・・・・・・そうだ。川も人間でいっぱいだった。川が見える。川のおもてはもう何も映さなくなり、ぎっしり詰って浮んだ人間が、少しずつ海のほうへ動いていた。葡萄いろの雲が垂れ込めている海のほうへ。
どこにも次々と火が迫り上っていた。火が迫り上っているじゃないか。見えないの? 桜間さん、あれが見えない? (部屋の中央へ走り出す) どこもかしこも火だ。東のほうも、西のほうも、南も北も。火の壁は静かに遠くのほうにそそり立っている。その中から小さな火が来る。やさしい髪をふり立てて、僕のほうへまっしぐらに飛んでくる。僕のまわりをからかうようにぐるぐるとまわる。それから僕の目の前にとまって、僕の目をのぞき込むような様子をしている。もうだめだ。火が! 僕の目の中へ飛び込んだ・・・・・・。
「この世の終わりの景色」は、俊徳にとって官能を呼び覚ます愛しい記憶でもある。だから、俊徳にとって形あるものとは、この紅蓮の炎でしかなく、阿鼻叫喚の声こそが人間の真率な声であり、俗悪の代表である両夫妻の言葉なぞまがい物でしかない。この後、「あなたもこの世の終わりの景色を見たでしょう?」と強制する俊徳に、級子は「いいえ」と否定する。俊徳は思いがけない拒絶にあって激昂し、罵る。だが、級子はそれをも毅然と受け流す。俊徳独占の壮絶で悲惨な光景。「自分だけがこの世の真の姿を知っている」という自負で、他人より優位に立ってきた俊徳は、ここで初めて敗北する。
俊徳 「僕ってね・・・・・・、どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」
言葉と裏腹に、俊徳は決して孤独からは逃れられないのである。 |
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