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矢代静一「宮城野」
矢代静一 『宮城野』(みやぎの)

 
登場はしないが宮城野(遊女)と矢太郎とで取りざたされる東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師で、一七七四年にデビューし、およそ十か月の間に約百四十点の錦絵を描いて、その後消息を絶った謎の人物である。
 写楽が描いた歌舞伎役者の大首絵は、役者を美しく描くのではなく、その欠点をわざと強調するような個性的な描写に特徴がある。
 ここからはわたしの推測だが、
 
 ・・・・・・東洲斎写楽は役者を描いた。
 役者といえば幻想と現実を行き来する。
 役者にとっては幻想が〈表〉の世界、現実が〈裏〉の世界だ。
 写楽はこの役者の〈表〉〈裏〉の二重性を描きたかった。
 だが写楽は、
 作品〈表〉は残っているが、
 素性〈裏〉ははっきりしない謎の人物だ。
 矢代静一はこうしたことに興味を持ち、
 伝説の謎に拮抗するために、登場人物に謎を持たせた。
 つまり、〈表〉と〈裏〉が交錯する芝居を書いた・・・・・・

 これはあくまでも私の想像だが、『宮城野』が、二人の登場人物の〈表〉と〈裏〉、つまり宮城野と矢太郎の建て前と本音が交錯する、逆転また逆転の筋立ての戯曲であることには間違いない。まずこの巧妙な劇作術がこの作品の特徴である。

宮城野 ちょっとちょっと、そこの粋なおにいさん、あ、いま、こっちむいた、痩せっぽちの旦那でもいいや。あのね、暇な人、ちょっと、そこの番所まで、御注進にいっとくれよ。天下の浮世絵師東洲斎写楽をしめ殺したおっそろしい女が、ここにいるってね。ほれ、ほれ、ほれ、この絵が証拠だ。写楽の絵は、いい値になるんでね、盗みに入ったんだよ。そしたら、みつかっちゃってね、みつかっただけなら、まだいいんだけど、とんだ助平じいさんでね。許してやるから、帯ほどけっていうのさ。ま、七十近いお歳で、それだけ元気なのはなによりだけど、やっぱりねえ。そんなこんなで、組んずほぐれつ、からみあってるうちに・・・・・・お年のせいか、ふうっとあの世へ、行っちゃった・・・・・・。

 遊女の宮城野が、女郎屋の二階から通りをゆく人々に、呼びかけている台詞だ。つまり彼女は、写楽を殺した真犯人の若い男女を救ってやるため、自らその罪を背負おうとしている。
 といっても、その若い男女が救うに足るほど純粋でもなければ、彼女にそうしなければならない義理があるわけでもない。従って彼女はここで、とりたてて感傷的になっているのでもなく、深刻なのでもなく、まして捨てばちになっているのでもない。言ってみれば、いかにも軽やかである。そして、この軽やかさの中に、この台詞の生命がある。 彼女は、いわば「善意の人」だ。しかし、無知なのではない。人々の嘘もたくらみも的確に見抜きながら、それに怒るより前に、そうせざるを得なかった人々の気持ちを、素朴に受け入れてしまう。それは、使命感でもなければ、深刻な原罪意識に基づくものでもなく、まるで条件反射のような軽やかな「善意」が、あらゆるグロテスクなものをろ過して、純粋にすくいとられている。そしてそこに、この「善意」の哀しさもある。

宮城野 つまるところあたい、あれが好きな女なんだと思うんです。あらら、あれっていっても、いやらしい意味じゃないわ、そんなしかめっつらしちゃいや。あれって、男の人に抱かれることじゃないのよ。あたいのいうあれというのはね・・・・・・むずかしいんだ、とっても。だって、自分でもよく説明できないほどだもん。  

 矢代静一は女心の機微をとてもうまく表現する作家である。 宮城野は、男につくし、男の歓びの代償になる善意の人であり、可愛い女だ。ここでも宮城野は、言葉ではうまく表現できない〈生の歓び〉を軽妙に語っている。  
 宮城野は江戸中期の岡場所の安女郎だ、矢代静一のカトリシズムを具現した聖女といえる。
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