THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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狂言 『昆布柿』(こんぶがき)

 
シテ(主役) 丹波の国の百姓
 アド(副役) 淡路の国の百姓
 小アド(まね役) 奏者
 灘子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)

 淡路の国の百姓が毎年嘉例の年貢に淡路柿を持って上洛する途中、これも年買の昆布野(とこ)老(ろ)を持って上る丹波の国の百姓と道連れになり、いっしょに無事納める。
 秦者は、海山川を隔てた両人が同時に持って上ったことを殊勝と喜び、年貢によそえて歌を一首ずつ詠めと言う。
 両人は歌についてはじめは、
「田唄か?」
「臼挽き唄か?」
「三十一枚の木の葉か?」
 などと聞くが、
「今年より所領の日記かきまして」
「よろこぶままにところ繁昌」
 と首尾よく詠み上げて、万雑公事を赦免され、盃も頂戴する。
 さて名前を帳面に留めようと奏者に名を問われて淡路の者は
「問うてなにしょ」、
 丹波の者は
「粟の木のぐぜいに、たりうだにもりうだ、もりうだにたりうだ、ばいばいにぎんばばい、ぎんばばいにばいやれ」
 と答える。
 あまり変な名前なので、奏者を通さず直に白州で申し上げることになるが、丹波の者は
「国の習いで左右小拍子にかかって申し上げよう」
 と言う。そこで白州では奏者もともに、左右小拍子にかかって、名前の問答が行なわれ、皆々浮かれてシャギリ留めとなる。

 このように、現在の狂言『昆布柿』では、登場人物は、柿を献上する丹波百姓と、昆布を献上する淡路百姓と、奏者(領主の取次)とにかわっていて、狂言としての面白さは、この三者の劇的な対話の進行のなかでのちぐはぐさ、滑稽味のなかにある。
 いいかえればこの『昆布柿』は、所作ごとをぬきにしても劇として読める。
 『三人百しやう』という古形では、言葉の掛けあい、狂歌や連歌の面白さ、説明される所作の面白さであったものが、言語の劇として形をととのえるやいなや、せりふのやりとりの面白さ、ちぐはぐな滑稽さなどにかわってゆく。言語表現それ自体のなかに、劇としての本質が存在するようになっている。
 『昆布柿』は、ちぐはぐの面白さである。
 領主は百姓の生活をしらず、百姓は領主の生活をしらない。そこに喰いちがいが生まれる。そして、この喰いちがいは、憎悪でもなければ、憧れや蔑みでもなく、じつに面白さ、滑稽さとしてあらわれる。
 この支配と被支配のあいだの関係の仕方としての面白さ、滑稽さは、被支配者が自己を、あるいは自己と他の被支配者との関係を、面白さ、滑稽さとして疎外していることを意味している。
 二人の百姓は、領主から歌を一首と所望される。
 二人は田唄や臼挽唄をうたうのかと考える。奏者は、いや
「三十一文字の言の葉を連らぬる事」(連歌)
 だと取次ぐ。二人は
「三十一枚の木の葉をつないで上げる」
 ことだと聞き違える。これが喰いちがいの関係のひとつの山場である。
 もうひとつの山場は、領主から名前を問われて、ひとりが
「問うてなにしょ」
 とこたえ、もうひとりが
「粟の木のぐぜいに、たりうだにもりうだ、もりうだにたりうだ、ばいばいにぎんばばい、ぎんばばいにばいやれ」
 とこたえ、領主の方は、それを感じ入りおもしろがるという喰いちがいの関係にあらわれる。
 この関係の仕方は、ほとんどすべての狂言の構成をつなぐ本質である。それは生々しい民衆の生活の象徴でもなければ、荘園の領主とその支配民の関係を写実したものでもない。あるがままに放任された生活民の、自己自身や他人との関係の仕方をあるがままに投げだしたというにすぎない。
 このあるがままは、必然的にフォルム(形式)をつくらざるをえない。そしてこのあるがままの生活民のフォルムが、そのまま支配層の儀式能(脇能)のフォルムに直通していく。
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