THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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 永井愛『ら抜きの殺意』

 永井愛は卓抜なストーリー展開、人物造形の面白さ、軽妙な台詞、今日的なテーマ設定などで定評がある。つまり、社会批評性のあるウェルメイド・プレイ(良くも悪くも)の書き手として、現在も注目に値する劇作家の一人である。  
 『ら抜きの殺意』は、現代日本の言語状況に迫った知的コメディといえる。
 「見れる」「出れる」「来れる」「食べれる」・・・・・・現代日本語の乱れの象徴としてよく話題になる〈ら抜き言葉〉。  
 作者はこの〈ら抜き言葉〉に抵抗感を覚え、日本人の言葉づかいをまとめてみたいということで、この戯曲を書いたそうである。  
 物語はいたって簡単だ。箇条書きと戯曲中の台詞で前半部分の筋を追ってみる。

○ 物語の場所は、通信販売会社「ウェルネス堀田」の倉庫も兼ねたオフィス。
○ 社長の堀田が中年の海老名を連れて、アルバイトとして採用したいとやってくる。海老名も夜のバイトをしたいのだ。
○ 主任の伴は、女性アルバイトを希望していたので、海老名に反感を持つ。
○ 伴は、採用させまいと、「電話の応対もまともにできるのかよ?」と、海老名に敬語のテストをする。
○ 海老名の敬語は完壁。海老名は電話番で採用される。
○ ところが、海老名は、伴の「ら抜き言葉」と、女性事務員の宇藤の電話の応対に呆れ、注意までする。つまり、海老名は、「ら抜き言葉」がどうしても許せず、伴はその許せない感覚が許せないのだ。
○ やがて、事務員の宇藤は、海老名に言葉を直され続けて、電話恐怖症になって出社拒否をするようになる。
○ 伴も、言葉を訂正され続けて、海老名に一段と反感を持つようになり 執拗に「ら抜き言葉」を連発する。
○ やがて海老名は、日下の登場によって、伴が商品を直接販売し、伝票上は欠損扱いにして、その売上(18000円)をネコババしていることに気づく。
○ 伴は、黙っていてくれと海老名に頼み、これからは友好的に付き合い、金も明日返すという。
○ 海老名はそれだけでは足らず、「それよりも、ひとつ・・・・・「ら」を入れていただけませんか? 私の前で、今後一切、ら抜き言葉をやめていただきましょうか」と言う。これが社長に黙っている、犯罪を見逃す条件なのだ。
○ ところが今度は、海老名が公立中学の先生だということがバレてしまう。伴は「区立の中学だってな? ってえことは公務員だ。ってえことはバイト禁止なんだろ? 出しな、学校にタレ込まれたくなかったら・・・・・・」とおどす。
○ 海老名は、金だと思い、「そんな持ち合わせは・・・・・・だいたい、金があったら、こんな所に・・・・・・」と答えるが、伴は『「あんたの「ら」をこっちによこしな。「ら」を抜いてもらおうか。俺の前では「ら抜き言葉」になってもらおうか」と仕返しをする。  

 このようにして物語は。海老名は「ら」を抜き、伴は「ら」を入れるという抱腹絶倒の展開になっていく。  
 さて、この主軸の話にからむ重要人物が、伴の恋人の遠部その子だ。遠部は、伴の会社に出入りする取引先の社員。彼女は、携帯を三つ持ち、三つの言葉を使いわけている。

@ ひとつは、社用としての携帯。「させていただきます」「おコーヒーをいれさせていただきます」などのバカ丁寧な言葉。
A 二つ目は、恋人用の携帯。「課長から電話みたい。ちょっと待ってね。切っちゃいやよ」というような甘えた女言葉。
B 三つ目は女友達用の携帯。「チョー腹減ったよ」というぞんざいな言葉。  

 遠部は慌てて、恋人である伴の電話に、女友達だと思って、「ちょっとぉ、ムチャンコカツアゲもんだよ、あいつ(課長)、電話切りやがってよぉ、ヒトにゃあ電話番させおって、オレノは待てんのかっつ〜か、こっちゃ〜油ギッチョンに猫なでこいて鳥肌もんだっつ〜にぃ、どマジでガンギレしたぞっつ〜か〜、ボコるぞテメ〜っつ〜かぁ」と言ってしまう。  
 伴は驚きあきれて電語を切ってしまう。  
 遠部が、三つの携帯を使い分けて話しているのを見ていた副社長の堀田八重子は、電話を切られて困っている遠部に「まあ、携帯一つにするんだね・・・・・・確かにお前の言葉は凄かった。でもなぁ、お前がふだん伴につかってるナヨナヨした女言葉より、なんぼかマシだと思ったぞ」と反対に褒める。  
 遠部は、「あれは、たぶん、宇藤さんに引きずられたのではないかとぉ・・・・・・」と弁解する。  
 すると八重子は、「それが不思議なんだ私は。女言葉をつかうのが女にとって自然なことであるならば、女同士がしゃべるときにゃ、女言葉だらけになるはずだろ。それが逆なんだもん。どうしたことなのかね?」と不思議がる。  
 遠部も「実は私も宇藤さんとお話しながら、時々これでいいのかなと・・・・・・」と同調すると、八重子は、「嘘をつけ! 思いっきり楽しんでたくせに。本音が出せるからだろう? 女言葉をつかってちゃ、もう本音が出せんのだろうが」と突っぱね、さらに、「と言うことは、つまり伴には本音でしゃべっておらんと言うことだ。惚れてたら、誰より本音の出せる言葉でしゃべり、心を通いあわせねばならんのに、お前は女らしさを装う方にばっかり気がいってて・・・・・・」と断言する。  
 遠部が、「そんなことないですよぉ。本音で話し合おうって、私、すっごい努力してんです」と反論すると、「だから、まずお前が本音の出せる、偽りのない言葉でしゃべ」れと八重子は忠告する。そして、映画の『カサブランカ』の話をする。  
『私ね、どこの国でも、女はその国の女言葉をしゃべるんだと思ってたの。若い頃、洋画なんかよく見たけど、字幕はちゃんと女言葉と男言葉に訳されてたもの。ボガートが「愛してるぜ」って言えば、バーグマンは「ええ、私もよ」って言ってるんだと思ったわ。そうじゃなかったのよねぇ。ボガードが「愛してるぜ」って言ったら、バーグマンは「ああ、俺もだぜ」って言ってたのよねぇ』「文明国と言われる国で、言葉に女男別があるのは日本だけなんですってよ」。  続いて、女言葉には命令形はないという話になる。ここのところは会話の妙があるので、原文のまま引用する。

八重子 ・・・・・・伴さんが「風呂沸かせ!」って言ったら、あなたどう答えるの?
遠部 「もう沸いてるわよぉ」って言うかぁ・・・・・・
八重子 嘘! あなたがそんなこと言うはずないでしょ。
遠部 「私、ちょっと疲れてるの。悪いけど、自分で沸かしてくれる?」
八重子 何でそんなに長くなるの。向こうは「風呂沸かせ!」って短いのよ。
遠部 じゃ、「自分で沸かしてよ!」
八重子 向こうは命令してんのよ。あなたも命令しなくっちゃ。
遠部 だから、「自分で沸かしてよ!」って。
八重子 「沸かしてよ」って、お願いじゃない。命令じゃないじゃない。
遠部 でもぉ、きつく言えばぁ・・・・・・
八重子 きつく言ったって、命令するヤツにお願いするヤツは勝てないのよ。伴が「出てけ!」って言ったら、あなたどうするの?
遠部 「あなたこそ出てってよ!」
八重子 お願いじゃない。
遠部 「あなたこそ、出てきなさいよ!」
八重子 丁寧語の命令形ね。男だってつかえるわ。女だけしかつかわない、女言葉に命令形があるか探してごらんなさいな。
遠部 ないですかぁ、命令形?
八重子 私もずっと探してるのよ。でもまだ見つからないの。
遠部 嘘ぉ、そうでしたっけ?
八重子 どうもねぇ、日本人は女に命令してほしくなかったらしくて・・・・・・
遠部 じゃ、副社長、命令形がないから女言葉をやめたんですかぁ!
八重子 だって日常生活には迫力を必要とする場面がたくさんあるんですもの。それをこんなナヨナヨした言葉で乗り切れだなんて、あんまりじゃない? 日本の女言葉は人を動かしたいとき、お願いしかできない仕組みになってるのが大チョンボよ。ボガートが「出てけ!」って言ったら、バーグマンは「お前こそ出てけ!」って言えるのに。  

 そして三つの言葉を使い分けている遠部に、八重子は、「まあね、日本の女が多重人格になるのも無理はない。これだけ言葉をつかい分けてりゃ、どうしたってそうなるわ。男の本音と建前なんぞ、女の多重人格に比べりゃ可愛いもんよ」と言い、自分のことを、「さまざまに研究し、調整を重ね、やっと到達した現在の言葉づかいは、私のアイデンティティーである。この言葉は私の生き方を示し、私の人間観を示している。言葉ってのは、その場を切り抜けるための方便ではないし、ただの伝達の手段でもないのだ」と言う。  こうして遠部は、自分の言葉を探そうとし始める。  遠部は電話以来、伴と連絡してなかったが、社長夫妻のはからいで会って、こう言う。「あれ、聞かれて、まずかったって思った。私の知られたくない本音の言葉を聞かれたって。でも、よく考えてみれば、あれが本音とも思えない。あそこまで汚くしなくちゃ本音が吐けないわけじゃない。あれは、本音らしさを装った言葉だったのかもしれない。何で本音らしさを装う言葉が必要だったんだろうって、しばらく考えてみた」  遠部にこう告白されても、伴は遠部の悩みがわからない。「帰れ! バカヤロ! とち狂うのもいい加減にしろ!」と言うだけだ。  遠部は「通じなかったようだ。もう少し研究してくる」と言い残して去る・・・・・・。(以下梗概省略)  

 このように、『ら抜きの殺意』は、現代の若者の話し言葉の乱れを題材にしながら、言葉と生きる姿勢の深いかかわりに着目した傑作喜劇といえる。  
 最後におまえは「ら抜き言葉」をどう思っていると問われるなら、わたしはこう答える。
「ら抜き言葉けっこう、言葉は変わるもの。絶対はないよ」  
 と。だから戯曲「ら抜きの殺意」は巧みに作られた傑作だが、作者とわたしとでは言語に対する感性がまるっきり違うので、上演意欲はそそられない。  
 俳優の物言う術の練習にはとても適した戯曲だと言っておこう。
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