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唐十郎『少女仮面』
20代の若いときからずっと気になる劇作家がいる。唐十郎だ。
唐十郎の芝居は、道具立てやモノが多彩だ。モノ自体は、吸引力のある強い象徴性を与えられ、劇のキーワードとなっている。海(血の海)、道(硝子の道)、大衆浴場、焼け跡、母、堕胎児、大陸、満州、少女、子宮・・・・・・。そしてこれらのモノは、いつ、どこで、どこから飛び出してくるのか、予測もつかない。登場人物は、悪家の男と女で、良風美俗、年功序列を建前とする社会の外側か裏側に棲息し、戸籍不明、住所不定、固有名詞のない異様な風体をしている。
とにかく唐の芝居は、ナンセンスの虚脱快感を誘い、視覚に激しく訴え、歌う要素も多いのが特徴だ。これは、唐が登場人物の思想の厚味に頼らず、話の筋で観客を引きつけるのではなく、ただただ俳優の肉体で舞台を昇華させることに演劇のダイナミズムを見ていることを示している。唐の芝居は、極限の猥雑さの中に〈精神の高貴さ〉が光り輝いている。彼は演劇についてつぎのように述べている。
「もし演劇が、あらゆる芸術の中でダイナミズムを特徴とするならば、劇は、壁の中の華ではけっしてない。それは、外界へ、市場へと空間を切り裂き、君の魂を政治における物理的力とすれすれのところまで煽動してゆくものだ。そんな奇蹟が、かって遊行民族の、あの「劇による襲撃」ともいえるような瞬間に確にあった。(『腰巻おせん』の後記)
この襲撃は、視覚に訴える行動だけではなく、聴覚に訴える台詞によっても果たされる。つまり、唐の台詞は観客への絶え間のない襲撃なのである。ふつうの日常的な会話が交わされていても、それを口にする俳優の存在感が、台詞よりも物をいっている。台詞の意味内容よりも、
○掛け合い万才的な会話者同志の意気投合のリズム。
○即興的な飛躍による緊迫の更新。
○言葉のあやとり的遊び。
○絶えざる官能への回帰を裏づける性的言語の刺激。
○逆に、抽象観念語への変身。
これらが俳優のあらゆる劇的行動の火力源なのである。そして、唐は、これらを優れた語感と豊かな語彙を使って操っている。
ここでは、唐の戯曲のなかでは、最も古典的な初期の作品『少女仮面』を取り上げてみる。
場末の地下喫茶店《肉体》。
そこは、宝塚歌劇の偶像的なスター「春日野八千代」が経営し、暴力的なボーイ主任は彼女に献身的に仕えている。
店の名前「肉体」が示すように、この戯曲で展開する物語は、俳優の肉体論である。唐はこの俳優の肉体論を説くために、さまざまな関係性の網の目を張っている。
○エミリ・ブロンテの小説「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの関係を肉体を求めつづける亡霊の関係にしている。
○俳優と観客の関係を、肉体を与え続けながら、むしり取られる関係にしている。
○俳優が俳優の肉体を求め、その奪還を切望する関係を、自己と他者という関係にしている。
○腹話術師と人形の主従関係を逆転させ、肉体の実質を逆転させた関係にしている。
○老婆と少女と春日野という三者の関係を、そのまま時間、身体の問題、永遠性の問題としてとらえている。
このような関係性を理解すると、この戯曲は論理的でないようでいて、明確な論理性をもった作品であることがわかる。
偶像のスター「春日野」は、いまや自分の肉体を求めてさすらう肉体の乞食だ。スターのすべてをむさぼろうとする少女ファンたちに、数十年間自分のすべてを投げ与え続けた結果、彼女には自分で所有するどのような肉体も残ってはいない。奪われ続けの歳月はいつしか「春日野」を極度の疎外に追いこみ、今では「どんどんふけてゆく、かわいそうな幽霊」、「自分自身にはぐれた」一人の「醜女」でしかない。
これと同時に進行する腹話術師と人形のエピソードも明らかに「春日野」と観客、あるいは少女「貝」との物語とパラレルな関係にあり、いわば異質のシチュエーションを使った同質の物語である。
いいかえれば、この戯曲においては、根本的には二つの同じストーリーが展開される。
さらに「肉体論」とは一応別に、この作品には二つの流れが合流している。
一つは、唐作品おなじみの焼け跡願望、つまり第二次大戦直後の広大な焼け跡、その至福のユートピアに回帰しようとする志向であり、それはいまなお焼け跡の水道飲みの儀式を続ける「男」によって体現される。
もう一つの流れは、「甘粕大尉」である。甘粕大尉は、社会主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻を殺害し、のちに満州で活動した人物である。作者は、甘粕大尉の登場によって場の時間からの乗り越え、つまり芝居ラストへの突破口を図り、最終的に肉体の存在した場所を求め続けるというロマンチシズムに転化させているのだ。
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