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近松門左衛門 『碁盤太平記』(ごばんたいへいき)
『碁盤太平記』は、近松の作品の中でも謡曲よりも狂言の影響が強く、竹田出雲らの『仮名手本忠臣蔵』を経て、歌舞伎劇へ移行する通路をつくった得意な作品である。この作品でも近松の浄瑠璃的な思想の根源がよくあらわれている。
劇の最初の山場は、幕開きからすぐにやってくるので、幕開きから読んでみることにする。わかりやすいように現在の戯曲形式のように台詞とト書きのように書き換えたが、江戸時代の歴史性を会得するために、原文のままである。
時 文和三年(1354年)九月五日
所 京都市中、大星由良之介(おおぼしゆらのすけ)の住居
声 物申(もふ)どなたぞ頼みましよ。頼みませふ物申もふ
と引声(ひきごえ)も。長露路(ろじ)の裏座敷フシ牢人住居(ずまい)奥深し。折ふし嫡子の力弥は碁盤引よせ片手ざし。三つ目がかりの大指(ゆび)ひしぎ腕先(うでさき)試(ため)してゐたりしが。
力弥 ヤイ岡平(おかへい)はおらぬか物申が有(ある)請(うけ)取れ。岡平岡平
と呼びければ
岡平 どれい
と答(こた)へ出にける。
僧 是は承(うけたまはり)及ぶ塩冶(えんや)殿牢人。初の名は八幡(はちまん)六郎。今は大星由良之介殿と申(もうす)御方(かた)のお宿はこれか
岡平 中中(なかなか)由良之介借宅(しゃくたく)也
と云ければ
僧 愚憎は関東の所化(しょけ)。用事有(あっ)て昨日京着(きょうちゃく)致せしが。鎌倉の町大鷲文五(おおわしぶんご)殿と申(もうす)。是も塩冶殿牢人より御状一通ことづかり。急用也大事(だいじ)の用たしかに届(とどけ)くれとのこと。お届け申
と出しける。
岡平 旦那は他行(たぎょう)いたされ倅(せがれ)力弥宿にあり。申聞せん
と入らんとす
僧 アヽ是ゝ。愚憎も本寺へ用有(ある)者。お目にかゝるに及ばず
と云置(いいおき)てこそ出にけれ。岡平力弥に書状を渡し口上述べんとする所に。又
声 物申
と案内(あんない)す
岡平 どれい
と応(いら)へ出ければ。
順礼 これさ主(にし)達。物さ問ひ申(もうす)べい。我(わが)とうは常陸(ひたち)からつん出た順礼さでおんじやり申。鎌倉切通しのあたりで状をことづかり申た。大星由良之介殿と云(いう)は此(この)屋台(やたい)にねまりめさるか
岡平 いかにも是が由良之介旅宿。シテどなたよりの御状
と言へば。
順礼 是さお見やれ状は十四五もおじやり申ス。渡した人は小寺(おでら)惣内 竹ノ森(たけのもり)喜多八(きだはち)。片山源太といへば先(さき)に合点だ。頼むと有(あっ)てことづかり申た。順礼が届けたと返事に言(ゆ)つてやりなされ
と。言ふて出れば。
馬方 是旦那殿。大星由良之介様は是か。こちは相州の馬方(かた)。三条堀川迄早追(はやおい)の通しに来ました。鎌倉の町原郷右衛門(はらごうえもん)と云(いう)人から。状ことづかつて草臥(くたびれ)ながらほつこしふもない
と持(もっ)て来(く)る。あとおひ負(お)ほたる高野聖(こうやひじり)。
高野聖 我ら此度(このたび)東(あづま)へ下り鎌倉の星月夜。堀井弥九郎殿と申御方より。急用の御状とてことづかりし
と置いて行(ゆく)。御祓(おはら)ひ配(くば)りの伊勢の御師(おし)六十六部の納経者(おさめきょうしゃ)。関東廻しの商ひ便宜(びんぎ)思ひ思ひの便(びん)について。案内合図の忍びの状数四十余通。九月五日の一時(いっとき)に到来するこそ不思議なれ。
岡平ひとつにひん抱(だ)かへ力弥の前に手をついて。
岡平 一度一度に申上んと存ぜし間(ま)に。追ゝに届キ申故(ゆえ)数多ければお名も忘れ。もとより無筆(むひつ)の私読むことは盲也(めくらなり。状は紛れ申せ共届けられし口ゝは。忘れませぬ
と申ける力弥打笑ひ。
力弥 世には無筆も多けれ共。をのれが年迄方々(ほうぼう)して。一文字(いちもんじ)引(ひく)ことも読むこともならぬとは。子共(こども)に劣つた奉公人 親父のお帰りなされたら。届けた衆を覚(おぼえ)て申せ。ヤアついでにをのれに云こと有(あり)。昨日(きのう)お上(のぼ)りなされし女中一人は身が母じや人。お年寄つたは祖母(ばば)様。隣の屋主(やぬし)の座敷を借り一両日は御逗留(ごとうりゅう)。裏はひとつの行通(ゆきかよ)ひ牢人でも武家は武家。常の様に自堕落に裏越(うらご)しに行(ゆく)まいぞ。お見廻(みまい)申て来る迄に用があらば切戸(きりど)を叩け
と。文共(ふみども)箪笥(たんす)に錠おろし。裏へ出れば表(おもて)より
声 頼みませふ
と言ふ声す。力弥聞付(ききつけ)何事かと障子の陰より窺(うかが)ふ共。思ひがけなく岡平は
岡平 はて再再の頼みましよ・どれから候(ぞう)
と立出る。
飛脚 いや我らは鎌倉の三度飛脚。大星由良之介様の内衆(うちしゅう)岡平殿とはこなたか。高ノ師直(こうのもろなお)様のお屋敷から
と。状取出せば
岡平 しいしい高い高い。成程合点請(うけ)取(とっ)た
と懐中に押し入るゝ。
飛脚 いや是々。当代の師直様大事の御用と御念が入(いっ)た。何時(なんどき)に届いたと詳しい請取ほしうござる
と云ければ。
岡平 アヽ声高(こえだか)な合点じや・請取せん
と駆け入(いる)も人は見ずとや硯水。滝本流の墨色やなまなか常に無筆ぞと。偽(いつわ)る筆の毛を吹いて疵(きづ)を求むる類(たぐい)かや。飛脚は手形請取て立帰れば岡平は。封じ目切て小隅(すみ)へ寄り くりかへし読む長文(ながぶみ)の。しかも細字(さいじ)をつらつらと南明(あか)りの横連子(よこれんじ)。影(かげ)口びるを動かせば無筆(むひつ)と云し空言(そらごと)も。顕はれわたる網代(あじろ)木やうぢうぢとして隠しかね。ずんずんに引裂き茶釜(ちゃがま)の下に打くべて。門(かど)背戸(せど)に目をくばる体(てい)力弥とつくと見すまして。大きにあきれ
力弥 是は扨。色事などの文ならば隠すすべも有(ある)べきが。いろはも知らぬと無筆になつて人の心をゆるさせしは。底意(そこい)にたくみ有(ある)やつ殊に飛脚が詞のはづれ鎌倉よりと請取を書かせて取(とっ)たる次第迄。思へば敵(かたき)の入レたる犬きやつ内通に極(きはま)つたり。エヽだしぬかれし口惜(くちお)しさよ
と胸をさすつて立たりしが。
力弥 我々が発足(ほっそく)も今日明日(あす)に近付て。欠落(かけおち)するか道中にて外(はず)すか。何にもせよおめおめと取逃しては無念なり。一刻も油断はならず。手討にせん
と思案を極め。さあらぬ顔にて
力弥 やいやい岡平。火の廻り気を付(つけ)よかんこ臭い
と出ければ。
岡平 いや少しも苦しからぬこと。八幡(やはた)愛宕(あたご)方々のお洗米(せんまい)の包紙(つつみがみ)。只今火に上(あげ)申たり
と。間に合(あい)嘘もまつかいな火箸(ひばし)なぶりてゐたりけり。
力弥 ムヽさこそさこそ。ヤ最前の物申はどれからぞ。又文(ふみ)などは来(こ)ぬか
と言へば。
岡平 いやいやそれは私用(しよう)。近日お下り近付(ちかづく)故道中のたしなみ。さらし木綿の切レを買(かい)代物(だいもつ)が遅いとて。気の小(ちい)さい商人め毎日せがみにうせをる。旦那に勤める岡平三匁たらずの銀やらずに立(たつ)と思ふか
と。木綿は六尺一寸のがれまことし。やかにぞ偽(いつわ)りける。 力弥始終(しじゅう)を聞届ヶ曲者(くせもの)に疑ひなし。下人(げにん)手討は大事の物とかねて親の物語。一生の手はじめ仕損(しそん)ずまじと
力弥 こりや岡平。用が有(ある)こゝへ来い
とにこやかに云(いひ)ければ。
岡平 ない
と答へてゐざりよる。
力弥 いやずんどこゝへ寄れ。遠慮なしに膝元へつゝと来い
と言ふ五音(いん)。岡平も心付(こころづき)脇指抜いてからりと捨(すて)。丸腰になつて出んとす
力弥 ヤア其まゝ脇指差いておれ。差いて来い
と重ねて言へば
岡平 いか様共(ようとも)とかく御意はそむかじ
と。脇指差いて腰かゞめ左(ひだり)勝(がっ)手に座したりけり。力弥も小膝(ひざ)を立てなをし。
力弥 ヤレをのれは最前関東の飛札(ひさつ)を読み。請取迄を書きながら一文(いちもん)不通(ふつう)の無筆と偽り。主人の眼をくらまし誑(たぶら)かしたる不届きによつて。成敗するぞ
と声をかけ抜打(ぬきうち)にはたと切る。左の肩先(かたさき)肋(あばら)をかけ脇指迄切付(きりつけ)られ。のつけに返すを取てひつしき 止(とど)めを刺さんとせし所へ。父由良之介立帰り門口(かどぐち)より声をかけ。
由良之介 ヤレそいつに止めを刺すな。子細有
と走り入(いり)力弥が脇指取らんとすれば。
力弥 こいつは敵の内通者おのきなされ
と引はなす。
由良之介 ヤレそれをおぬしは今知つたか。きやつが作り無筆になり。敵方(てきがた)の内通とはそもそもより此由良之介が見付しが。只今討ては敵方に。すは顕はれしと用心の気を付(つけ)させ。敵に六分の徳有(あっ)て味方に六分の損有(あり)。内通と知るからは其まゝきやつを生けて置(おき)。はかりことを打(うち)返しに白き物を黒く見せ。赤き物を青く見せ虚を実に振舞へば。きやつはそれを誠とし其通(そのとおり)を内通せん。時には敵に裏食(うらく)はせ居ながら敵の懐(ふところ)を。知るは味方に十分の勝十分の徳取て。仕廻(しまい)にはこいつを殺しても助けても。損も益(えき)もないこと。損益なくは同じくは助くるは慈悲(じひ)仁の道。我が計略は智より出おぬしが手討は勇の道。是常にいふ智(ち)仁(じん)勇(ゆう)。弓馬(きゅうば)の家の守りにも本尊(ほぞん)にも此(この)三つ。是を守るを忠臣共(とも)忠義の武士共名づくるぞ。エヽ早まつたり粗忽(そこつ)なり。去(さり)ながら若き者道理かな道理かな。我も口にはかく言へど主君を無罪に殺害させ。其(その)仇(あた)をも報じ得ず主の敵と今日迄も。同じ天を戴くは智仁勇も口ばかり。忠臣の道を失はん。口惜(お)しさよ
と両眼(りょうがん)に無念涙を浮ぶれば。力弥も教訓聞(きく)につけ。父が涙にもよほされ落涙。止(とど)めかねにけり。
深手(ふかで)の岡平起きなをり親子の顔をつくづく見て。涙をはらはらと流し。
岡平 真実(しんじつ)敵の内通と思(おぼし)召(めさ)れん恥づかしや。疾(と)くに名乗らん名乗らんとは存ぜしかど。一日も師直が扶持(ふち)を受くれば。主従の道にあらずと延引し。此(この)仕儀(しぎ)に罷(まかり)成ル拙者が親は前殿様。御持弓の足軽(あしがる)寺岡平蔵と申せし者。某は寺岡平右衛門。先年我等九歳の時。御領内の塩焼(しおやき)浜(ばま)。検地のおちどに親平蔵御扶持(ふち)をはなされ。流浪の身とは成ながら奉公こそは足軽なれ。忠義の道に違(ちが)ひはなし。二君には仕へまじ譜代のお主(しゅう)に今一度と。十余年の渇命(かつみょう)は草の根を喰(わ)み木の実を拾ひ。水を飲んで暮せしに。去年殿様滅亡と聞(きく)より親子が此時に。大手の御門を枕にして。塩冶殿の弓足軽寺岡親子が忠心と。鑓下(やりした)に名をとゞめ御恩を送り奉らんと。御城本(しろもと)へ馳(はせ)参じ籠城願ひ嘆きしかど。牢人を集めては謀叛の籠城同前にて。天下の咎め憚り有(あり)かなふまじきと追返(おいかへ)され。親平蔵は七十の老の望みも是迄也。冥途(めいど)へ参つて殿様へ御奉公仕らん。手ぶりのお目見へ言ひがひなしをのれは敵(かたき)師直が。首取てお土産に跡より参れと申置(もうしおき)。去年の当月切腹いたす親の遺言お主の仇(あた)。人手にかけじと存じ立(たち)縁(えん)を求め心をくだき。師直が馬屋奉公に罷(まかり)出(いで)。馬の口取(とる)時もがな只一討(うち)と仏神に。祈つて時節をうかゞへ共(ども)用心深く引籠り。馬は扨置(さておき)乗物でも他行(たぎょう)とていたさねば。本望とげん時節もなく我身(わがみ)の運のつたなさと。思ひながらも世を恨み天をかこちて一ト冬は。布子の袖の乾く間もながき夜すがら忍び泣き。よし仕損ぜばそれ迄よ切込まんと存ぜし内。各方(おのおのがた)の検見の為方々へ犬入るゝ。我らも其役申付(もうしつかり)見ること聞こと内通し。虚言(きょごん)他言(たごん)有まじと熊野の牛王(ごおう)に血判据へ。方々へ出(いで)けるが只目にかくるは此(この)御親子(ごしんし)。案内人(あんないひと)に知らせじと当春より御奉公。親が念願殿様の草葉の蔭の御忠節。せめてもと存(ぞんず)る故内通の度ごとに。由良之介親子の者腰が抜けて武道を忘れ。遊女にふけり酒宴に長じ。武具も馬具も売払ひ。主(しゅう)の敵を討(うつ)ことは思ひもよらず。一門も中違(たが)ひと言ひ遺(つか)はすを誠にして。師直が用心おこたり連歌茶の湯花の会。油断とは此時也片時(へんし)も早く御下り。本望をとげられよ。サア此こと申しまふては浮世に思ひ置(おく)ことなし。はやはや止めを刺いてたべ。熊野の牛王(ごおう)の起請(きしょう)の罰(ばち)。現世にはありありとお手討にあふ現罰(げんばち)。未来の無間(むけん)も疑ひなし那由(なゆ)他劫(たごう)が其間(そのあひだ)。阿鼻の苦患(くげん)は受くる共一言成共(なりとも)主君の忠。親の願ひを達すること喜ばしや嬉しやな。去(さり)ながら願はくは今少(すこし)ながらへ。敵討の御供し敵の首を一目((ひとめ)見て。一所に腹を切(きる)ならば。なんぼふ嬉しかるべきぞ忠義は人に負けね共(ども)。誠の時に外(はづ)るゝは是も起請の罰か
とて。くどき嘆くも息切れてあはれ。涙の玉の緒の脈も。乱れて見へにけり。
親子も不覚の涙にくれ
由良之介 驚き入(いっ)たる忠心。今一言の知らせにて大勢(ぜい)本意をとぐること。一騎当千(とうぜん)共いひつべし身柄こそ足軽なれ。お主は冥途の塩冶殿我ら親子も傍輩(ほうばい)なり。主君の忠義に傍輩の礼を云(いう)も慮外也。由良之介が志(こころざし)に此度の一味の武士。我々親子を始として以上四十五人有。たとへ其場へ出(いで)ず共其方親子をさし加へ。四十七人忠義の武士と末代に名をとゞむべし。是を冥途の感状と親父に語り吹聴あれ。あつたら武士を残念や
と涙ぐめば嬉しげに。顔さし上(あげ)て一礼を言はんとすれど舌すくみ。声も出ねば手を合せ頭(かうべ)を下げてうなづきし。心の内こそあはれなれ。力弥は手負の顔色見て
力弥 はや目の色も変つたり。息の有中(あるうち)師直が。屋形(やかた)の案内聞(きき)置きたし
と云ければ。
由良之介 げに是は気がついたり有(あら)ましいかに
と尋(たずぬ)れ共。心計(ばかり)に息ぎれの只「ウヽウヽ」と苦しみて言舌(ごんぜつ)さらに分からねば。由良之介碁盤を寄せ。
由良之介 是此方より碁石を並べ図を作つて尋ぬべし。合(あ)はばうなづき合ぬ時はかぶりを振り。指をもつて引直(なお)せ。白石は塀(へい)黒は屋形と心得よ。こヽは東表門一目(いちもく)を十間づもり。並べし石数(かず)十四目。百四十間是皆塀(へい)か
岡平 ムヽムヽ
由良之介 折回しに平長屋西の裏手は長屋か塀か。扨は是も折回しの長屋門。櫓(やぐら)はこゝにたつみ角玄関はこゝのほど。侍小屋は南か北か
岡平 ムヽムヽ
由良之介 三方に取回し。馬屋は西か武具の蔵。扨はこゝらぞ遠侍(とおざむらい)広間は是より是迄な。奥の寝所(しんじょ)はこゝかかしこか
岡平 ムヽ
由良之介 出来た。然れば此間(このあい)長廊下。此間が泉水築山(せんすいつきやま)広庭ならん。北は空地(あきち)か
碁盤の目(め)。空いてもふさぐ手負の目。うんと計(ばかり)を最期にて終(つひ)にはかなく成にけり。
このように大星力弥は中間の岡平の挙動を怪んで手討にする。 すると、岡平は斬られた息の下で、敵師直の屋敷に間者として入りこみ、油断させるため大星親子の放蕩ぶりを内通していたが、じつは、塩冶判官の家人の息子であると名乗って、大星父子に師直方の屋敷の見取図を教えて死ぬ。
この岡平のどんでん返しの仕方は、近松の浄瑠璃概念にとって本質的なものである。すでに斬り殺されてゆく息の下でしか、間者の二重性を名乗れない岡平の設定には劇的思想性がある。
ところが、竹田出雲らの『仮名手本忠臣蔵』にはこのような劇的な思想性はない。
『仮名手本忠臣蔵』の加古川本蔵は、塩冶判官の刃傷の際に、判官を制止した人物であり、その娘の小浪は、大星力弥の許婚である。
母親の戸無瀬と娘とは、身を隠して住んでいる大星の家をたずね、夫掃の式をあげてくれとせがむ。
力弥の母のお石は、加古川は敵の家来であり、その娘とは息子を一緒にできないといいはる。
すると、虚無僧姿の加古川がこの場にやってきて、主君の仇も討たないで放蕩三味にその日をくらしている腰抜には、俺は討てまいと、故意に罵しってお石を挑発し、息子の力弥にわざと討たれて死ぬ。
おなじみの忠臣蔵の名場面といわれるところだ。しかし、この〈どんでん返し〉は通俗的な悲劇であり、客受けを狙った泣かせ所にしかなっていない。
近松の『碁盤太平記』においては、中間岡平の些細な行為が人間関係を破壊し、死に至らしめることが、現実的にもありうるし、また理念としても正当であることがふまえられているのに、『仮名手本忠臣蔵』では武家的な倫理のやるせなさにたいする讃美はあっても、近松が劇的理念としてかんがえた思想はない。ただ、観客に喝采を浴びそうな、いわば観客に媚びた通俗的な泣かせ場にしかなっていない。 |
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