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寺山修司『毛皮のマリー』
寺山修司は、優れた歌人であるが、演劇において様々な実験を試みた稀有な演劇人である。彼の劇は、社会からはみ出されたような人物で占められている。それを風俗としてとらえる点では通俗的で、メロドラマ的だ。
ここでは、寺山の初期の作品で、反体制、反道徳をかかげ、反演劇を実験していたころの『毛皮のマリー』を取上げることにする。
物語はいたって単純だ。箇条書きにすると、
●「花咲ける四十歳の男娼」毛皮のマリーは、美少年の欣也と暮らしている。
●美少年の欣也は、マリーによって屋敷の中に放たれた蝶を収集するのが日課。
●毛皮のマリーは夜ごと男を屋敷に誘い、下男は忠実にマリーに仕える。
●美少年の欣也は美少女の紋白と出会い、家を出ようとする。
●だが、最終的には出られず、マリーによって美少女に仕立てられる。
このように物語は単純で、登場人物たちは風俗的で類型的である。しかし、この単純で類型的、場面も単一で、場景の変化もわずかに五つしかないからこそ、劇の分裂分散を抑制することができ、倒錯した官能美を重厚に盛り上げることができ、現代幻想詩を鮮明に浮き上がらせることができたといえる。そして、この詩劇的世界を支えたのは、会話ではない。それが詩の形であろうと、散文の形であろうと、登場人物たちの独白的な物語なのである。
作者は高校二年のときに「毛皮のマリー」というシャンソンを聞き、そのさびしい娼婦の話がとても気に入っていたところ、作者の住んでいた青森県の下宿近くにも街娼がいて、その中でタメ子と呼ばれる五十代の毛皮の娼婦が、実は男だと聞いたときにびっくりし、人生の「詩と真実」に触れることができたと言っている。
刺青の男 それにしても、マリーさん。あんたは、どうして女に変装したりするんだね?ちゃんとした男つうものがありながら。
マリー それはあんたが刺青をしてるのと同じことよ。どうしてそんなものを彫るの? きれいな肌がありながら。 (刺青の男、こたえない) ちゃんとした男でありながら、男であるだけじゃあきたらず、警察官を演じたり、船乗りを演じたり、思想家を演じたり、フットボール選手を演じたりする人がいっぱいいるのに、おかしいじゃありませんか。女を演じるのだけを、好奇の目で見るなんて。
刺青の男 しかし、マリーさん、船乗りや警察官つうのは、あれは職業だ。実業つうもんだべ。
マリー あたしだって実業家よ。 (と肩をそびやかして) でもおかねになるかどうかは、二の次の問題ね。人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの。芝居の装置は世の中全部、テーマはたとえ、祖国だろうと革命だろうとそんなことは知っちゃあ、いないの。役者はただ、じぶんの役柄に化けるだけ。これはお化け。化けて化けてとことんまで化けぬいて、お墓の中で一人で拍手喝采をきくんだ・・・・・・
寺山修司らしい現実と虚構を分離させたり融合させたりする台詞だ。作者はこのことについてつぎのように述べている。
たしかにわれわれは日常生活の中で、つねに何かを演じつづけている。人生というものは数十年におよぶ一慕劇であり、その中での虚像と実像との葛藤というのは、そのまま生きるための条理の略奪戦を思わせる何かかあるようである。私は、現代人か精神の荒地にあって、「演技」による救済を思いつくことに意味をおぼえてきた。アランやヒルテイのうす汚れた幸福論が、つまるところはすべて「演技論」に終始しているのは一体なぜなのだろうか?
寺山の言う「人生は一幕のお芝居」は、すでに16世紀にシェイクスピアが言っている。 |
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