THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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深層の劇(戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化。)
深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。
吉本隆明氏との出会い
シェイクスピアの物語とは?
シェイクスピアは言語の劇
観客の心を饒舌にする台詞
幕開きをつくる
アナクロニズムを解決する
言葉の意味を探る
リア王の狂気
道化の知恵
気ちがい乞食
あえて無にして本質を写す
嵐は来ない(16世紀の自然観の差異)
排除の門
リア王の貧乏観
ケントの忠義(忠臣は二君に事えず)
見せしめの身体刑
騎士の生活
中世の〈類似〉という概念
盗み聞きの場
ふたつの劇中劇
『ハムレット』の演劇表現

ふたつの劇中劇


 ハムレットは、父の亡霊から、父は庭で昼寝の最中に弟のクローディアスに毒殺され、国王の座と王妃ガートルード(ハムレットの母)を奪われたことを聞かされ、復讐を命じられる。ハムレットは狂人のふりをしてその機会をうかがうが、やがて亡霊が疑わしくなり、復讐をためらってしまう。

ハムレット 俺が見た亡霊は悪魔かもしれない。悪魔には変化の力があり人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。悪魔はそこにつけこんで俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。 (松岡和子訳「ハムレット」)  

 亡霊が悪魔ならば、現在の王であるクローディアスは父を殺していないことになる。王はほんとうに父を殺したのか?亡霊の言葉を信じて復讐していいのか?もしかしたら亡霊は実在したのではなく、憂鬱症による幻覚だったかもしれない。ハムレットは、これらの確証を得るために王の反応を見ようと、父が毒殺されたときの様子を芝居にすることを思いつく。芝居は、はじめは黙劇で、つづいて台詞劇で上演される。  

 トランペットの吹奏に続き、黙劇が始まる。王と王妃が登場し、互いに抱き合う。王妃はひざまずき、愛の誓いを立てるしぐさをする。王は妃を立ち上がらせ、その首すじに頭をもたせかける。王は花の咲く堤に身を横たえる。王妃は王が寝入ったのを見届けて立ち去る。ほどなく一人の男が現れ、王の頭から王冠を取り、それに接吻し、眠っている王の耳に毒を注ぎ、その場を去る。王妃が戻ってき、王が死んでいるのに気づいて激しく嘆く。毒殺者が三、四人の者を従えて再び現れ、王妃と共に悲しむふりをする。死体は運び出され、毒殺者は王妃に贈り物を差し出し求愛する。王妃はしばらくはつれない素振りをするが、遂にその愛を受け入れる。退場。

オフィーリア 殿下、いまのはどういうことでしょう?
ハムレット いやあ、たくみな悪さ、悪だくみさ。
オフィーリア このお芝居の粗筋のようですけれど。    

 序詞役登場。

ハムレット こいつが教えてくれる。役者に秘密を守れと言っても無理だ、何でも喋ってしまう。
オフィーリア いまの黙劇の意味も?
ハムレット うん、それにお前が見せればどんなことでも目撃するとさ。平気で見せさえすれば、こいつも平気で猥褻な解説をしてくれる。
オフィーリア いけません、そんないけないことをおっしゃって。私は芝居を見ます。
序詞役 われらの演じますこの悲劇、なにとぞ寛恕を賜りましてご静聴のほど、臥してお願い申し上げます。(退場)
ハムレット これが前口上か、指輪に刻んだ銘か?
オフィーリア ほんとうに短いこと。
ハムレット 女の愛と同じだ。  

 劇中の王と王妃登場。

劇中の王 陽の神フィーバスの御す馬車は、早や三十たび 海神ネプチューンの潮路を越え、地の神テラスの陸を巡り 三十を十二重ねしあまたの月 は、日輪の光を借り 三十を十二重ねし幾多の歳月、この現世を照らしたもう。その始め、われらの心は愛に結ばれ われらの手は婚姻の神ハイメンの聖なる絆で結ばれり。
劇中の王妃 こののち更に陽も月も、われらの愛の果つるまで 長き旅路をたどらんことを。それにつけても胸が痛む、近頃はご気分もすぐれず かねてのお元気もどこへやら、面変わり召され 気がかりでなりませぬ。とは申せ、わたくしの気がかりなど 何ほどのこと、どうかお案じなさいますな。 女子の気がかりと情けとき常に連れ添うもの、どちらの思いも知らずにすむか、二つながら度を越すか。わたくしの愛がいかほどか、おのずから表に現れご存じのはず。愛が深まるにつれ気がかりも深まります。愛がつのるとき、些細な不安も恐れとなり 些細な恐れの極まるとき、愛も大きく育つもの。
劇中の王 いや、余がそなたに先立つは必定、しかも遠からず。身も心も弱りはて、命脈も尽きた。そなたはこの麗しき世に残り 敬われ慕われ、ながらうるがよい。この身に劣らず情けある人を夫に迎え―
劇中の王妃 おお、その先は聞きとうない。そのような愛はこの胸の裏切り。二夫にまみゆるならいっそ呪われたい。二度目の夫を迎うるは、初めの夫をあやめし女。
ハムレット (傍白)苦いぞ、いまの言葉。
劇中の王妃 再婚をそそのかすは利得を求むる卑しい心、決して愛ではございませぬ。しとねにて二度目の夫の口づけを受くるは亡き夫をば二度までも殺すに等しい。
劇中の王 そなたの心、言葉どおりと信じよう。されど、いかに堅き決意とて、とかく破るが人の常。志とて所詮は記憶のしもべにすぎず、産声は高らかなれど生いたつ力は覚束なく 今でこそ枝を離れぬ青き果実も、熟すればおのずから地に落ちん。自らに課したる負債は 支払を失念するは当然。熱き思いにて目指せしことも 思いが冷めれば消え失せる。悲しみも歓びも、その激しさの極みにて 企てしことを打ち壊す。歓びの頂きに達するところ、悲しみは奈落に落ち、些細なことで悲しみは歓びに、歓びは悲しみに姿を変える。この世は無常なれば、われらの愛とても 時の運と共に移ろおうと何の不思議もありはせぬ。愛と時の運、いずれがいずれを導くか これぞ未だ解きえぬ問い。位高き者、低きに落つれば寵臣も逃げ去り 貧しき者、地位が上がれば敵も味方に変ず。かくのごとく愛は時の運に従う。順境にある者、友にこと欠かず、逆境にある者、実なき友をためし頼らばちまち敵に豹変す。とまれ初めに立ち戻り話を結べば、われらの意志と時の運とは互いに背きわれらの意図は常に覆される。思いは我がものなれど、その実りは我がものならず。二夫にまみえぬそなたの決意も 最初の夫の死とともに死に絶えよう。
劇中の王妃 いいえ、たとえ大地が糧を恵まず、天が光を与えず、昼の楽しみ、夜の安らぎを奪われ、信頼と希望が絶望に変わり、先ざき獄につながれ世間との交わりを断たれようと、歓びの顔を蒼ざめさせるありとあらゆる災いが幸多かれとの願いを打ち滅ぼし、この世のみかあの世まで永劫の苦しみがつき纏おうと、ひとたび寡婦となれば二度と妻にはなりませぬ。
ハムレット もしも今あの誓いを破ったら。
劇中の王 よくぞ誓った。愛しい妃、しばらく退ってくれ。気が疲れた。もの憂い午後のひと時 眠りで紛らわしたい。
劇中の王妃 眠りがおつむをあやしてくれますよう。禍事がわれら二人を裂きませぬよう。(退場。王は眠る)
王妃 あのお妃の誓いはくどすぎるようね。
ハムレット いや、誓ったことは守るでしょう。
 筋書きは聞いているのか? さしさわりはないだろうな?
ハムレット いえ、いえ、ごっこ遊びみたいなものです―毒殺ごっこ。さしさわりなどありません。
 外題はなんというのだ?
ハムレット 「ねずみ取り」―うん、実にいい比喩だ!この芝居、ウィーンで起きた殺人がもとになっていて―大公の名はゴンザゴー、大公夫人はバプティスタ―すぐに分かります。実にふらちな企みだ、だがそれがどうした。陛下や、心に疚しいところのない我々には。痛くもかゆくもない。脛に傷もつ馬こそひるめ。傷のない身は平気の平左。    

 ルシアーナス登場。

ハムレット この男はルシアーナスといって、王の甥です。
オフィーリア 語り手のようによくご存じですね。
ハムレット 人形劇の濡れ場を見せてくれれば、その人形をお前とお前の恋人に見立て、二人の仲を語ることだってできる。
オフィーリア いけません、殿下、そんないけないことをおっしゃって。
ハムレット もっといけないことをしたら、お前は痛がってうめくだろう。
オフィーリア もうおやめになって。
ハムレット 病めるときも、などと言って夫を迎え、たぶらかす。―さっさとやれ、人殺し。もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ。さあ、「しわがれ声の大ガラス、復讐せよと叫びたり」。
ルシアーナス 暗い企み、腕は鳴る、毒も整い、時は今 折りよくあたりに人目もなし。闇夜の草より絞りし毒薬 魔女の呪いを三たび受け、三たび毒気を吹き込まれ、汝が恐ろしき天然の、魔力こもりし猛毒で健やかなる命、ただちに奪え。(眠る劇中の王の耳に毒薬をそそぐ)
ハムレット 庭園で王を毒殺し、王位を奪うのです。王の名前はゴンザゴー。この話は今も残っていて、選り抜きのイタリア語で書かれている。さあ、もうすぐあの人殺しはゴンザゴーの妃を口説き落します。
オフィーリア 王様がお立ちになる。
ハムレット ほう、空砲におびえたか?
王妃 あなた、どうなさったの?
ポローニアス 芝居は止めろ。
 明かりを持て。奥へ。
ポローニアス 明りだ、明りだ、明りだ。(ハムレットとホレイショーを残し、全員退場)
(松岡和子訳「ハムレット」)  

 黙劇ではなにも反応しなかった王が、台詞劇の毒殺場面で席を立ち退座してしまう。この王の反応を見て、ハムレットは亡霊の言葉は真実であり、王が父を毒殺したことを確信する。  
 ここで「謎」とされていることがある。それを挙げてみると、

 @ なぜ同じような内容の劇が、〈黙劇〉と〈台詞劇〉として、二度も繰り返されるのか?

 A なぜ王は、黙劇の毒殺場面で反応しないのか?

 B なぜ王は、台詞劇の毒殺場面で退座するのか?  

 これらの「謎」を解くためには、まずこの場面を〈芝居〉と〈劇中の現実〉とに区分けしてみる必要がある。この場面はつぎのようにわけることができる。

●芝居(黙劇)
●劇中の現実(オフィーリアの反応)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(ハムレットの母へのあてつけ)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(ハムレットの母へのあてつけ)
●芝居(台詞劇・王妃の誓い)
●劇中の現実(王妃の反応)
●ハムレットの割り込み(劇中の暗殺者ルシアーナスの紹介)
●劇中の現実(オフィーリアをからかう)
●ハムレットの割り込み(人殺しの催促)
●芝居(台詞劇・ルシアーナスの独白と毒殺場面)
●ハムレットの割り込み(亡霊の言葉の再現)
●劇中の現実(王の反応・退座)  

 このように、この場面は、〈芝居〉と〈劇中の現実〉とが交互に展開され、途中から〈ハムレットの割り込み〉が加わり、芝居は〈黙劇〉と〈台詞劇〉にわけられ、さらに台詞劇は〈王妃の誓い〉と〈王の毒殺〉の、いわゆる2場構成になっている。なぜ台詞劇が2場構成になっているかというと、台詞劇は黙劇の場割に従っているからである。次の表のように、黙劇は3場の芝居と見ることができ、台詞劇はそれを言葉によってさらに具体化したものである。

芝居の形式 黙劇 台詞劇
芝居の内容 1場―王妃の誓い
2場―王の毒殺
3場―毒殺者の求愛と王妃の受け入れ
という3場の無言劇
1場 2場
黙劇1場
(王妃の誓い)の言葉による具体化
黙劇2場
(王の毒殺)の言葉による具体化
劇中人物の反応 劇中の観客は、オフィーリアと同じで、芝居のあらすじだと思うが、無言で演じられることによって集中でき、芝居の全容を鮮明に記憶することができる。 母は、「あのお妃の誓いはくどすぎるようね」というように、じぶんのことがあてつけられていると思う。 叔父は、毒殺場面を観て席を立って退座する。

 だからこの黙劇の場割に従うなら、本来は台詞劇も3場(毒殺者の求愛と王妃の受け入れ)まで上演されるはずであるが、王が退座し、ポローニアスが芝居を止めたために上演されなかったのである。  それでは@の謎から見てみよう。

@ なぜ同じような内容の劇が、〈黙劇〉と〈台詞劇〉として、二度も繰り返されるのか?
   
 それは、〈黙劇〉と〈台詞劇〉の表現特性のちがいにあるといえる。いうまでもなく〈黙劇〉は、身振りだけの劇だが、〈台詞劇〉のように言葉で意味を明確に伝えることができないかわりに、「含み」を持たせることができる。そして動作を簡略化できるから、〈台詞劇〉よりはるかに「短時間」で筋を結末まで見せることができる。ハムレットはこの特性を利用したのだ。なぜなら、王は芝居が気に入らない場合、いつでも席を立って芝居を中止させることができる。いきなり劇の意味が明確になる台詞劇を上演したのでは、王に中止にされる危険があるからだ。そして四面楚歌のハムレットにとって、王に毒殺場面を見せる前に、劇中の観客(つまり王の臣下)に芝居の全容(王妃の誓い、王の毒殺、毒殺者の求愛と王妃の受け入れ)を見せ、「父は毒蛇に噛まれて死んだのではなく、王に毒殺された」ことを想い描いてもらいたかったからだ。それには短時間で上演できる黙劇が最適だったのである。  
 芝居の前に演じられる黙劇は、エリザベス朝における芝居上演の際の慣行で、シェイクスピアの時代にはすでに古風な表現形式になっていたが、シェイクスピアはそれを、芝居の全容を短時間の間に鮮明に映し出す〈だんまりの劇〉として利用した。だからこの場面の黙劇は、エリザベス朝演劇の通例の黙劇とはちがって、台詞劇とまったく同じ内容と筋とが具体的に表現されているのである。よって黙劇はカットすることはできないのだ。  
 つぎにAの〈謎〉はどうか?
 
A なぜ王は、黙劇の毒殺場面で反応しないのか?    

 〈黙劇〉での王の反応についてシェイクスピアはなにも書かなかったが、王が酔っ払ったり、居眠りしたりせずに毒殺場面を観たのなら、なんらかの反応を示すのが自然であろう。だが王は、まだこの段階では毒殺場面が演じられても偶然の一致としか考えられず、よもやじぶんの犯罪がハムレットに知られているとは夢にも思わなかったのである。だから王は余裕綽々で平静を装うことができたし、たとえ心が乱れたとしても、ハムレットやホレイショーが気づくほどの反応ではなかったのである。  
 最後にBの〈謎〉はどうか?

B なぜ王は、台詞劇で反応するのか?    

 これは、台詞劇(一場)が終わってからのハムレットの心の動きを、順を追って考えていけば解決できる。はじめの台詞劇(一場)は、母にあてこんだ芝居でもあるので、ハムレットは芝居が終わると、真っ先に母(王妃)の感想を聞く。案の定、母はじぶんのことがあてつけられていると思うので、誓いがくどすぎるという。ハムレットの憂鬱の原因のひとつには、母が父との誓いを破ってクローディアスと結婚したことにあるので、ハムレットは「誓ったことは守るでしょう」と母に皮肉をいう。王は、そんな王妃を気づかって「筋書きは聞いているのか?さしさわりはないだろうな?」とたずねる。この王の問いでハムレットが心配したのは、芝居の中止である。ここで芝居を終えられたら、王に肝心の毒殺場面を見せることはできない。それでは元も子もないから、ハムレットは芝居が続行できるように、狂人のふりをして「ごっこ遊び、毒殺ごっこ」と茶化す。王はさらに「外題はなんというのだ?」とたずねる。ハムレットは「ゴンザゴー殺し」とは答えない。「ねずみ取り」という比喩を使い、ウィーンで起きた殺人事件を芝居にしたものだという。そこへルシアーナスが登場する。ハムレットはルシアーナスを「王の甥」と紹介する。ふつうに考えれば、劇中の王を殺すルシアーナスはクローディアスのことだから、「王の弟」というのが自然なのに、ハムレットは「王の甥」と言う。なぜだろう?これは「毒殺ごっこ」から派生してきたもので、ハムレットが狂人を装いながら、じぶんの願望を言った言葉だと理解すればいい。(下表参照)

王の質問と
ルシアーナスの紹介と芝居の催促

本来言われるべき言葉

実際に言った言葉(ハムレットの願望)

さしさわりはないだろうな?

あります

「毒殺ごっこ」

外題はなんと言うのだ?

ゴンザゴー殺し

ごっこではなく「ねずみ取り」

ルシアーナスの紹介

王の弟です

「ねずみ取り」王を生け捕るのはハムレット

もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ 沈黙

「王の甥」は「復讐せよと叫びたり」


 表をみると、王は芝居の内容について質問しているのに、ハムレットは本来言うべきことを言わないで、じぶんの願望をいっている。つまりわたしたちにはハムレットが言葉遊びをしているように見えるが、ズバリ本音を言っているのである。イギリスの学者ナイジェル・アレグザンダーがいうように、ハムレットはここから、叔父(クローディアス)を殺すじぶんと劇中のルシアーナスとを一体化させていく。ここには過去に行われた王殺しと未来に行われるはずの王殺しが共存しているのである。 
 つづいてオフィーリアが「語り手のようによくご存じですね」と図星をつくものだから、ハムレットはわれに返って、芝居とはまったく関係ない猥褻な話をして、なんとかこの場を切りぬける。ハムレットには猶予がない。早く毒殺場面を王に見せて、かれの反応を見なければならない。このハムレットのあせる心が、「さっさとやれ、人殺し。もったいぶったしかめ面はやめて、始めろ」という台詞になって現れる。そしてここでまた、じぶんの願望をいう。「しわがれ声の大ガラス、復讐せよと叫びたり」。ハムレットはもはや「演出家兼観客」ではない。役者そのものであり、舞台という境界線を越えてしまっている。  
 ルシアーナスが口を開く。「魔力こもりし猛毒で、健やかなる命、ただちに奪え」。ルシアーナスは劇中の眠る王の耳に毒薬をそそぐ。この情景だけではハムレットには不足だ。そこで役者ハムレットは語りをかぶせる。「庭園で王を毒殺し、王位を奪うのです。王の名前はゴンザゴー。この話は今も残っていて、選り抜きのイタリア語で書かれている。さあ、もうすぐあの人殺しはゴンザゴーの妃を口説き落します」。王は、この毒殺の情景を見ながら、兄殺しが芝居にされているだけでなく、ハムレットが復讐のためにこの芝居をたくらんだことに気づく。王の耳にはハムレットの語りが執拗に飛び込んでくる。目の前ではじぶんが犯した兄殺しが再現されている。王は、この視覚と聴覚の両方からの攻撃によって、否応なしに兄殺しの実景を思い浮かべる。悶え苦しんで死ぬ兄。王の手が震えだす。あの毒を注いだ手がだ。震える手は、止めようとしても止められない。「早く、兄の死骸から立ち去らなければ」。王は殺害の現場から逃れる。オフィーリアが真っ先に気づく。続いて王妃も夫の様子を不審がる。王は、「明かりを持て。奥へ」といって去る。
 このように王が台詞劇(二場)の途中で退座したのは、ルシアーナスと語り手である役者ハムレットの迫真の演技によって、兄殺しの実景が思い浮かび、劇中の王を兄と取り違え、一刻も早く兄の死骸から逃れたかったからである。そう考えなければ、ハムレットが芝居を思いつくときにいう「罪を犯した者が芝居を見ているうちに、真に迫った舞台に魂をゆさぶられ、その場で犯行を自白した」とはつながらないし、劇として成立しないのだ。

ハムレット 役者とは摩訶不思議なものだ。たかが絵そらごとなのに、かりそめの情熱に打ち込み、全身全霊をおのれの想像力の働きにゆだねる。そのあげく顔面は蒼白となり、目には涙を浮かべ、表情は狂おしく、声はかすれ、一挙一動が心に描く人物をまざまざと映し出す。なんのためだ?ヘキュバのため!ヘキュバはあの男にとって何だ?あの男はヘキュバにとって何だ?あんなに泣いたりして。もしもあの男に俺と同じ動機があり、怒りを噴き出すきっかけが出たら、一体どうするだろう。舞台を涙でひたしすさまじい台詞で観客の耳を引き裂くだろう。罪ある者の気を狂わせ、罪なき者をおののかせ、何も知らない者を呆然とさせ、目と耳を疑わせるだろう。  

 役者の演技に感服したハムレットにとって、役者と拮抗できるのは、みずからが役者になって演じることだった。案の定、王は目と耳を疑い、「気を狂わせ」て退散したのだ。  このように、シェイクスピアがこの場で意図したのは、芝居は罪人の悪しき心をも浄化させることができるものだが、それはなによりも役者の演技によって成し遂げられる ということであり、ここで重要なのはつくりものの芝居からクローディアスが兄殺しの実景を思い浮かべるように、虚構の世界が現実の世界を凌駕することをシェイクスピアが着目したということである。
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