THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
「演劇の世界」コンテンツ
トップ 公演履歴 深層の劇 劇音楽 小道具 夢見る本 演出日記 台本 戯曲解釈 俳優育成 DVD
深層の劇(戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化。)
深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。
吉本隆明氏との出会い
シェイクスピアの物語とは?
シェイクスピアは言語の劇
観客の心を饒舌にする台詞
幕開きをつくる
アナクロニズムを解決する
言葉の意味を探る
リア王の狂気
道化の知恵
気ちがい乞食
あえて無にして本質を写す
嵐は来ない(16世紀の自然観の差異)
排除の門
リア王の貧乏観
ケントの忠義(忠臣は二君に事えず)
見せしめの身体刑
騎士の生活
中世の〈類似〉という概念
盗み聞きの場
ふたつの劇中劇
『リア王』の演劇表現

騎士の生活

  戦争は楽しい仕事・・・・・・戦場では、みんな、たがいに愛しあう。味方に大義ありと知り、同胞がりっぱに戦うさまをみれば、涙はおのずから目に浮かぶ。われらが創造主の命令を実行し、遂行せんとして、勇敢に身を挺する友の姿をみては、誠実と憐憫の甘い感情に心も満たされる。すると、かれと生死をともにしてもよいという気持になるのだ。かれを愛し、けっして離れまいと思うのだ。それを味わったことのないものには、それがどんなに快いものか、けっしてわからない快楽が、ここにはある。この快楽を味わうものが、死をおそれると、諸子はお考えか?けっして、けっして。なぜというに、その ものは、そのいるところを忘れるほどに、元気づけられ、心喜ばされるからである。真実、かれはなにものをもおそれないのだ。(ホイジンガ「中世の秋」堀越孝一訳)  

 これほど戦争に生きがいを感じる中世の騎士にとって、平和はある意味で罪悪といっていい。騎士たちは戦えないうっぷんを馬上槍試合にたくした。馬上槍試合は十二世紀が全盛期だったが、試合の内容は実戦とさして変わらず、死傷者もでたという。各地からやってきた騎士たちは、きらびやかな緞帳のなかで、敵味方にわかれて戦う。狙いは相手を捕虜にして身代金をとることにあった。王侯貴族たちはこの馬上槍試合を金を競って催し、騎士たちは誇りと名誉のために、武器、衣服、装身具などにたくみな装飾をほどこし、贅のかぎりをつくしたという。
 戦えない騎士のもうひとつの気晴らしは、狩猟だった。騎士たちはよく訓練した猟犬をともない、しばしば森にでかけては、猪、鹿、熊、雉などを追いまわすことに夢中になった。実戦と同じように、何日も露営して狩りをするのもめずらしくなかったという。もちろん貴婦人たちも同行し、すばらしい獲物をしとめた騎士は、貴婦人の賞賛の的だった。獲物は夜の大宴会の馳走であり、誓いの供物でもあった。騎士たちは車座になって、まだ生きている猪に手をふれて、「神と聖母マリアとにかけて、想わせびとにかけて、また猪にかけて」といった誓いをたて、一晩中飲めや歌えの大さわぎをしたという。この馬上槍試合と狩猟からうかがえるように、中世の騎士はとても開放的だった。騎士の生活信条は「気前のよさ」であり、質素を最上の美徳とする日本の武士道とはちがい、けちけちしないで金を使い、ものおしみしない人が尊敬された。主君は家臣の信頼をえるためには、武器、馬、銀、装身具などをおしみなく与え、無欲なところをみせなければならない。つまり騎士道とは、ぜいたくこそが美徳だった。「リア王」では、気ちがい乞食に変装したエドガーが、騎士の生活について語っている。

エドガー ご婦人の恋の相手をする騎士さ。まったくいい気なもんだったよ。髪をちぢらせ、女からもらった手紙を帽子に飾り、ときには奥方さまの夜のお勤めまでした。誓いは口から出まかせ、寝ては女をものにすることを考え、起きてはそれを実行した。ようするに、飲む、打つ、買うの三拍子揃った男よ。ちくしょう、風がおれを刺しやがる。おい、悪魔!おとなしくして旦那を通してやりな。  

 エドガーが語る貴婦人との密通は、中世にしてみれば、そう珍しいことではない。当時は、「貴婦人崇拝」や「宮廷愛」が騎士道の徳目であり、騎士は主君の奥方に崇拝の念をいだき、ひたすら奉仕することが要求されていたので、おたがいに恋愛感情が芽生え、一線を越えることがあっても不思議ではなかった。事実、馬上槍試合などが姦通の温床となり、なんどもセンセーショナルな事件をひきおこした、とホイジンガも『中世の秋』でのべている。    
 
 騎士が、愛する女性の髪や、肌の匂いのただよう薄絹や衣装を身につけるということ、このことのうちに、騎士道トーナメントのエロティックな要素が、まさにそのものずばりにあらわれている。闘いがエキサイトしてくると、女たちは、次から次へと、身につ けたものを騎士に投げあたえる。だから、勝負がついたときには、女たちは、かぶりものなく、衣装の袖もまたなしという恰好ですわっていたという。13世紀後半のある北仏吟遊詩人の作『三人の騎士と下衣のこと』は、このぞくぞくするようなモティーフを、あますところなく展開している。争いを好まず、ともかくけだかく寛大な夫をもつある貴婦人が、かの女に愛をささげている三人の騎士に、日ごろ身につけている下着を贈った。かの女の夫が催すことになっているトーナメントに、 かぶと、すねあてのほかは、よろいのたぐいをいっさいつけず、くさりかたびらのかわりに、ただこれだけを着て、出場してほしいというのである。3人のうちふたりは、おそれをなして、ひきさがってしまった。三人目の騎士は、これは貧乏騎士であったが、その夜、この下着を腕にだき、情熱こめて接吻したという。当日、かれは、よろいもつけず、くさりかたびらのかわりに、これを着こんであらわれた。下着は破れちぎれ、かれの血にそまった。かれは深手を負った。人びとは、かれの人並みはずれた勇敢さを認め、かれを勝者とした。貴婦人は、かれに心をゆるした。今度は、愛するものたるかれが、お返しを求める番だ。かれは血ぞめの下着を返し、トーナメントの行事をとじる祝宴の席に、よくめだつよう、衣服の上にそれをまとってあらわれるよう、かの女に要求した。かの女は、その血ぞめの下着をやさしくかきいだき、要求されたとおりの恰好で、宴席にあらわれた。会食者の多くは、 かの女を非難した。夫は当惑した。(ホイジンガ「中世の秋」堀越孝一訳)  

 愛する人の前では、血を流しても、強くて、勇気があるところをみせたい。これは、男ならだれでもが少年時代に体験したことがある自己犠牲の最たるもので、下着は充たされない欲望の象徴にほかならない。そして貴婦人の行為は、いつの時代も、禁欲主義は、奔放な愛欲を生むことを物語っている。
MACトップへ