THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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深層の劇(戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化。)
深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。
吉本隆明氏との出会い
シェイクスピアの物語とは?
シェイクスピアは言語の劇
観客の心を饒舌にする台詞
幕開きをつくる
アナクロニズムを解決する
言葉の意味を探る
リア王の狂気
道化の知恵
気ちがい乞食
あえて無にして本質を写す
嵐は来ない(16世紀の自然観の差異)
排除の門
リア王の貧乏観
ケントの忠義(忠臣は二君に事えず)
見せしめの身体刑
騎士の生活
中世の〈類似〉という概念
盗み聞きの場
ふたつの劇中劇
『リア王』の演劇表現

言葉の意味を探る


 シェイクスピア劇にかぎらず演劇の場合、俳優の仕事の第一歩は、台本を読んで言葉の意味を探ることからはじまる。なぜなら俳優というものは、言葉の意味がわからないと、じぶんの役を身振りや台詞や動きのイメージにつくりかえることができないからだ。  
 ここでは、わたしの台本『リア王』を使って、シェイクスピアの言葉の意味を探ってみることにする。老齢のリア王が三人の娘たちに財産を分与するから、それに見合った父への愛を示してみろというところだ。

リア グロスター、フランス王とバーガンディ公爵を迎えに行ってくれ。
グロスター かしこまりました、陛下。(グロスターはエドマンドを伴って退場する)
リア その間に、いままで内密にしてきたことを話そう。これを見ろ。(椅子で象徴した権力の像を指して)いいか、わしは王国を三つに分けた。わしももう高齢だ。これからは、国家の統治権も、領土の所有権も若い者に譲り、面倒な政務などせず、のんびりと余生を送りたい。わが婿オールバニ、コーンウォール、いまここでわしは、将来の争いの種にならぬよう、娘たち三人に財産を分けておきたい。末娘に求婚中のフランス王とバーガンディ公爵にも、きょう返事をする。どうだな、娘たち、おまえたちのだれが一番わしを愛してくれるかな?親を思う気持ちを言ってみろ。その愛情の深さに応じて、分け前を決める。オールバニの妻ゴネリル、長女のおまえからだ。  

 こういうリア王の長台詞は、あらかじめ台詞をピースごとにわけて、その内容を分析してみる必要がある。この長台詞は11のピースにわけることができる。

 @ その間に、いままで内密にしてきたことを話そう。  
 
 ここの「その間に」は、原文でもmeantimeとなっている。シェイクスピアはなぜリア王に「その間に」と言わせたのだろうか。ここは王国分割(財産分与)という重大なことを伝えるところだから、フランス王とバーガンディ公が来場するまでの「その間に」より、客人には聞かせたくない内密な話だということに重点を置いた「それでは」のほうがいいのではないか。  こういう疑問がわいたときは、この場面だけではなく前後の場面を読むと解決の糸口が見つかる。結論をいえば、リア王はこの財産分与のセレモニーがフランス王とバーガンディ公がやってくるほんのわずかな時間ですむと確信していたのだ。まさかコーディーリアがじぶんに楯突くとは夢にも思っていなかった。だから、その間に早くすませてしまおうという意味で「その間に」と言ったのである。だから俳優は、そういう心積もりでこの台詞を言うべきなのだ。

 A これを見ろ。(椅子で象徴した権力の像を指して)  
 
 椅子に象徴される権力を誇示していう台詞。

 B いいか、わしは王国を三つに分けた。  
 
 リア王はブリテン王国分割を一部の重臣を除いて 秘密にしてきた。権力の譲渡は、ある確固とした信念がなければ実行できるものではない。その確かな信念とはなにか。自分の余生をゆだねるのは、末娘のコーディーリアだ。三人娘の中では一番信頼できる。しかし、コーディーリアにすべてを譲ったら、二人の姉とその夫たちから反感を買うことは必至だ。それではブリテン王国の安定ははかれない。やむを得ないが、ブリテン王国の永遠の安泰のために、王国は三分割するしかない。この台詞で俳優は、「三つ」を強調することになる。つまり三つに分けたのであって、それ以外ではないことをはっきりしめさなければならない。

 C わしももう高齢だ。これからは、国家の統治権も、領土の所有権も若い者に譲り、面倒な政務などせず、のんびりと余生を送りたい。

 これを言葉通りに解釈すると、おじいさんが隠居するだけのありふれたホームドラマになってしまう。リア王は権力は譲るが、日本の天皇のように「象徴」として君臨したい並々ならぬ意欲があり、国家の統治、領土の所有権という権力のもう一つ上の権力を切望していることを見落としてはならない。

 D わが婿オールバニ  
 
 人物の指示語。

 E コーンウォール  
 
 人物の指示語。

 F いまここでわしは、将来の争いの種にならぬよう、娘たち三人に財産を分けておきたい。末娘に求婚中のフランス王とバーガンディ公爵にも、きょう返事をする。  

 ここで観客は、リア王には三人の娘があり、長女と次女はすでに結婚しており、末娘はいまだ結婚せず、二人の男に求婚されていることを知らされる。いわゆるこのコーディーリアの結婚は遺産相続という一大セレモニーを盛りたてる添え花的な存在である。リア王はこのセレモニーを無事終え、つぎのような台詞をしゃべりたかったはずだ。「王国は無事三分割して譲渡できた。末娘も幸せな結婚ができた。めでたし、めでたし、ブリテン王国万歳!」と。ところが、劇は意外な方向へ急展開していく。したがってこの一連の台詞は、リア王の幸福の極みであり、なんの疑いもなく、じぶんの筋書き通りに事が運ぶと思って、余裕綽々と語る必要がある。

 G どうだな、娘たち

 本題に入る前の娘たちに注意を促す言葉。

 H おまえたちのだれが一番わしを愛してくれるかな?

 わたしたちには愚かな問いでしかないが、リア王にとっては財産贈与を決める大切な問いである。リア王はあらかじめこの問いを用意していて、早く喋りたくてしょうがなかったはずだ。だからこの台詞は、リア王のそういう高揚した気持ちで言うべきで、リア王の愚かさはみじんも表現してはならない。リア王の愚かさは観客が判断してくれる。

 I 親を思う気持ちを言ってみろ。その愛情の深さに応じて、分け前を決める。

 分け前とは領土のことであり、封建時代では、領土はその固有の価値はあまり問題にされないで、あくまでも分量が大切だった。だからより多くの領土を持つことが、支配者の力の証明になる。いわゆる領土の所有は、権力のバロメーターだったのだ。だからこのリア王の台詞は、莫大な領土(権力)を与えるのだから、それに見合った父への愛を示してみろ、と、ある種の傲慢さで言われるだろう。

 J オールバニの妻ゴネリル、長女のおまえからだ。  
 
 日本の慣習と同じように一番目に答えるのは長女というわけだ。  
 つづいて、このつづきの『リア王』の前半の山場である「リア王の愛憎の読み違い」の言葉の意味を探ってみる。長女のゴネリルはリア王の前に進み出て語る。

ゴネリル わたしにとってお父さまは、この目より、自由より大切な、真善美をそなえた、命にも優る尊いお方です。    

  リアは喜びの声をあげる。ゴネリルはそれを受けて。

ゴネリル 私は、あらゆる評価を越えた、豊かで素晴らしいお父さまに最大の愛を捧げます。
コーディーリア (傍白)コーディーリアはどうしよう?私は黙って愛するだけ。
リア (ゴネリルのことばに満悦して)この線からこの線にいたる広大な領土はすべておまえのものにする。この莫大な財産は、おまえとオールバニの子孫が永久に所有するがいい。    

  リアはそう言うと、ゴネリルを権力の像に座らせる。人々は盛大な拍手と歓声でゴネリルを称える。リアはことのほか満足して。

リア では次に、コーンウォールの妻、次女のリーガンはどうだ?    

 リーガンは、リアを見つめたまま進み出る。

リーガン 私もお姉さまと同じです。お姉さまのことばは、私の気持ちを伝えてくれました。でも、それだけでは足りません。    

 リアは嬉しそうに反応する。リーガンはそれを受けて。

リーガン お父さまはこの世でもっとも大切なお方、私の幸せはお父さまを愛することにしかありません。
コーディーリア (傍白) ことばでは言えないわ。私のお父さまへの愛は、ことばより深いもの。
リア (ゴネリル同様、リーガンのことばに満悦して) おまえとおまえの子孫にも、末代まで、わが王国の三分の一を与える。その広さといい、ゆたかさといい、ゴネリルに与えたものにまさるとも劣らぬ。    

 リアはゴネリルト同じように、リーガンを権力の像(椅子)に座らせる。人々はふたたび盛大な拍手と歓声でリーガンを称える。リアは喜んでコーディーリアのところへ行って肩を抱き、最後に残った権力の像(椅子)に連れて行きながら語る。

リア さて、最後は末娘のおまえだ。可愛い、可愛いコーディーリア。フランス王とバーガンディ公が競っておるが、おまえは三分の一のためになんと言う?
コーディーリア 言うことはなにも。
リア なにも?
コーディーリア なにも。
リア なにもないところに、なにも生まれぬ。もう一度言ってみろ。
コーディーリア 私はお父さまを愛しています。それだけです。
リア それだけ? なんだその言い方は? ことばを改めぬと財産を失うことになるぞ。
コーディーリア お父さまは、私を愛し、育ててくださいました。私はお父さまに感謝し、心から大切に思っています。お姉さまたちは夫がありながら、なぜ愛のすべてをお父さまに捧げると言われるのでしょう。私は、結婚したら夫を愛します。お姉さまたちのように、お父さまだけを愛することはできません。
リア そのことば、本心か?
コーディーリア はい。
リア その若さで、なんと冷たいことを。
コーディーリア 若くても真実はあります。
リア 勝手にしろ! その真実を持参金にするのだな。親子の縁を切る。きょうからおまえは赤の他人だ!

 リア王は、ゴネリルとリーガンの愛情表現を財産(権力)欲しさのその場かぎりのものとは読みとれず、コーディーリアの子としてのほんとうの気持ち(真実)を反抗と読みとってしまう。そのために権力の行使の仕方をまちがえ、ゴネリルとリーガンに財産を二分し、コーディーリアを勘当してしまう。悲劇の誘因は、この〈リア王の愛憎の読みちがい〉にしかない。リア王の勝手な思いこみが底知れぬ悲劇をまねくことになるのだ。  ほんの些細な動機で、自己の滅亡、王国の崩壊という大事に至る。この些細な動機がシェイクスピアの目のつけどころで、こういうところに人間の本質があり、人間のラディカリズムがあると言っているようだ。
 この場面は、リア王、ゴネリル、リーガン、コーディーリアの四者の思惑が重層的に絡まっていて、それぞれが全力を挙げて自己を主張している。それがじつにドラマチックで面白い。まさにこの劇の最初の山場にふさわしいといえる。
 この場の四人の台詞の面白さは、吐く、吸うという呼吸法にある。ゴネリルは、財産欲しさに偽りの忠孝の言葉をリア王に言う。「わたしにとってお父さまは、この目より」。父は「ううん」という感じで娘の言葉を聞く。娘はすかさず父の反応を見てとって「自由より大切な」と続ける。父は「ほう」とのっていく。娘の言葉はさらに上昇していく。それにつれ父の喜びのテンションも上昇していく。娘は「言葉が通じている」という快感から言葉をさらに飛躍させる。「真善美をそなえた」という誇張した表現になる。このゴネリルの「真善美」は、きわめてギリシア的な言葉で、神と同義だ。したがって、真、善、美と一音一音区切って言うべきで、観客が真、善、美の歴史的意味を理解できる速度になるだろう。父は、この娘の言葉で、「早くすませたい」という気持ちと、「もっと聞きたい」という気持ちの葛藤によって、喜びのテンションをさらに上昇させる。父の喜びを察して、娘はついに「命にも優る尊いお方です」と、その場かぎりの完璧な愛情表現をする。父はもうたまらない。ほとんど骨抜きにされ、喜びの喚声をあげてしまう。あとは娘の思うつぼ。言葉をさらに飾って、偽りの愛を捧げればいい。
 このようにここの親子の対話は、ゴネリルが台詞を吐くことによって、リア王が娘の台詞を吸い、その吸ったものをさらに飛躍させて吐き出すという構造になっている。つまりこの親子のかけ合いで行われる言葉の上昇と、それに伴う呼吸の受け渡しが面白い。だから俳優は、この吐く、吸う、吸ってまた吐く、それをまた吸って吐くという連続的な呼吸の受け渡しを修練することになる。  
 この親子の〈異常〉な世界に、コーディーリアの〈正常〉が割りこんでくる。「コーディーリアはどうしょう?私は黙って愛するだけ」。  このコーディーリアの台詞には、傍白という作者の指示がある。傍白(Aside)とはわきぜりふとも言い、語る本人の内面を表現する、他の劇中人物に聞かれては困る台詞である。シェイクスピア学者は傍白は観客に向かって語られるというが、わたしなら俳優にそうは言わない。コーディーリアはリア王とゴネリルが創りあげた〈偽りの親和〉の対置者だ、それを〈正常〉という強い意志で打ち破れば観客に伝わる、台詞の言い回しや、強弱、高低、速度はその内面のエネルギーによって決まると指示する長女に三分の一の領土を与えたリア王は、呼吸も荒々しく、さっそく次女の答えが聞きたくなる。「私もお姉さまと同じです」。父は「よしよし」と目を細めて納得する。リーガンは姉以上の財産を手に入れたいので、「でも、それだけでは足りません」と姉を見下し、じぶんの優位を主張する。父は「ほほう」と注目する。ゴネリルの刺すような鋭い視線。今までの父と次女という二人の関係が、父と次女と長女という三人の関係として際立つ。だが欲望の虜になっている次女は姉などいっこうに気にしない。姉と同じく偽りの言葉を吐くだけだ。  ここでもリア王とリーガンの呼吸のかけ合いが重要なのは言うまでもない。この親子三人の異常な世界に、またコーディーリアの〈正常〉が割りこんでくる。「ことばでは言えないわ。私のお父さまへの愛は、ことばより深いもの」。リア王は長女と同じく次女にも三分の一の領土を与える。残るは最愛のコーディーリアだけだ。かれはなんの疑いもなくたずねる。だが末娘の答えは思いもよらぬもので、かれの喜びを一挙に下降させる。ここのリア王とコーディーリアのかけ合いは、原文ではつぎのようになっている。

Cordelia. Nothing, my lord.
Lear. Nothing!
Cordelia. Nothing.
Lear. Nothing will come of nothing. Speak again.   

 リア王のNothing will come of nothing.(なにもないところに、なにも生まれぬ)は、アリストテレスの自然学(Ex nihilo nihil fit.「無からはなにもでてこない」)から引用したものだ。このリア王の台詞は、有るものだけを本質と考える、有こそが理性(ロゴス)とする、きわめてギリシア的な考え方から発せられている。リア王は、コーディーリアが「非有の闇に逃れている」としか考えられず、かれの絶対が「有」を催促する。ところがコーディーリアにとって〈有〉は、「私は黙って愛するだけ(love,and be silent)」と言っているように、〈無〉を措定することによってしか生まれてこない。つまりリア王の問いを、「言うことはなにもない」と否定することによってしか見いだせない〈有〉なのだ。リア王は、このコーディーリアの意識の二重性がまったく理解できない。権力をかさに一方的な〈有〉を強要するだけだ。コーディーリアは、この〈無〉を通過した〈有〉を父に理解してもらえないので、こんどは直接的に姉たちの不信を訴える。だが父は、コーディーリアの言い分を反逆としか受けとれず、ついに最愛の娘と縁を切ってしまう。  
 このNothingを媒介にした親子の対立には、近代的な自我が介在している。つまりこの親子の対立は、主題を古代にとっているからといって古代のそれではなく、リア王に代表されるギリシア的な古代思想とコーディーリアに代表される近代的な自我の対立なのだ。シェイクスピアは、この自我にまつわる時代の変革を描きたかったかもしれない。  
 このように長台詞をピースわけしたり、原文にあたったりして、そこに書かれている言葉の意味がわかると、これを元にして俳優は声の強弱や高低、話す速度やリズムを決められるだけでなく、その言葉にふさわしい身振りや動きまで決めることができる。ここから俳優の技芸の修練がはじまるといっていい。言葉の意味もわからないで、やみくもに修練したところでよい成果が得られるはずがない。
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