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深層の劇(戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化。)
深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。
吉本隆明氏との出会い
シェイクスピアの物語とは?
シェイクスピアは言語の劇
観客の心を饒舌にする台詞
幕開きをつくる
アナクロニズムを解決する
言葉の意味を探る
リア王の狂気
道化の知恵
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嵐は来ない(16世紀の自然観の差異)
排除の門
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ケントの忠義(忠臣は二君に事えず)
見せしめの身体刑
騎士の生活
中世の〈類似〉という概念
盗み聞きの場
ふたつの劇中劇
『リア王』の演劇表現

リア王の狂気

 リア王の狂気。
 狂気といえば、現在のわたしたちは、すぐに精神病と結びつけてしまう。精神病という概念は、古典主義時代(17世紀中期から19世紀初頭までの近代社会の形成期)以降のもので、それまでは狂気を病のカテゴリーに入れてはいなかった。たとえばギリシアのプラトンは、狂気をつぎのように考えていた。  

 ところで、神が予見の働きを、人間の、知力を欠いた状態に対して与えたということについては、十分な証拠があります。というのは、人間誰にしても、正気の状態では、霊感に満ちた真実の予見をなすには到りえないものなのでして、それができるのは、ただ、眠っている時とか病気のためとかで、知力が束縛されているような場合や、あるいは、何か神憑りのために異常を来しているような場合に限られるからです。いやむしろ、「予見」だとか「神憑り」だとかによって夢でか現でか言われたことを、思い起こして 理解したり、また、幻像として見られた限りのすべてのものについても、それがいったいどんな仕方で、誰に対して、未来や過去や現在の凶事なり吉事なりの何かを合図しているのかということを、勘考によって判別するのが、正気の者のなすべきことなのです。 (プラトン「ティマイオス」種山恭子訳)  

 プラトンにおいては、狂気とは〈神憑り〉のしるしであり、神が人間に予見の働きを与えたものだった。だから正気の人間は、この〈神憑り〉にあった人間の合図を読みとり、何を予見しているのかを判別する必要があった。狂気についてのこうしたギリシア的な考え方は中世まで維持され、16世紀になってある種の変容をきたした。古典主義時代における「狂気の歴史」を著したミシェル・フーコーは、16世紀初頭の〈狂気〉には二つの相貌があったという。  
 ひとつは、ボッシュの絵画「阿呆船」に見られるような、狂気に対するきわめて近寄りがたい〈怖ろしさ〉だ。阿呆船はアルゴ船物語という神話的主題に由来する文学的創作であり、当時こうした船をテーマにした文学が流行したが、この阿呆船だけは実在したとフーコーはいう。船に乗っているのは狂人たちで、かれらは鞭打たれ、街を追い払われ、脱出できない船に閉じこめられる。行き先は〈あの世〉であり、船をおりることは〈あの世〉から帰ってくることだった。ボッシュが描いている船のマストは、おそらくエデンの園から引き抜かれた禁断の樹(不老不死の約束と罪悪の樹)であろう、とフーコーはいう。  

 狂人たちのこうした知はなにを表わしているのか?おそらく、それは禁ぜられた知だから、サタンの君臨ならびに世界の終末を予言しているのである。最終の幸福と至高の懲罰を、地上における全能と地獄堕ちを。狂人の船が航行する場所は、いっさいが欲望にささげられている悦楽の風景であり、人間がもはや苦痛も欲求もあじわわぬ点では一種のよみがえった楽園である。(フーコー「狂気の歴史」田村俶訳)

 ボッシュをはじめ、ブリューゲル、デューラーが表現するような狂気の知。それは破局を呼び起こし、世界の終末を予言するものだったから、人々は狂気に接するとある種の〈怖ろしさ〉を感じ、宇宙的な規模の暗さ、人間の悲劇的ヴィジョンを見た。ところが当時の文学や哲学や道徳では、狂気はまったく別の様相をあらわす。中世において狂気は、〈神の信仰と偶像崇拝〉〈希望と絶望〉〈慈善と貪欲〉〈貞潔と淫乱〉〈思慮と痴愚(狂気)〉〈忍耐と怒り〉〈温和と冷酷〉〈和解と不和〉〈服従と反逆〉〈志操堅固と無節操〉という善悪対比の悪のひとつだったが、ルネサンスになると、狂気は人間のなかの悪のすべてを支配し、絶対的な特権をえる。だがこの支配権は、〈怖ろしさ〉という悲劇的なヴィジョンとは結びつかず、世界のなかの安楽なもの、愉快なもの、軽快なものを支配するようになる。つまり狂気は、人をひきつけはするが呪縛はしない。無秩序のしるしではあるが、〈笑いや滑稽〉を誘う人間を楽しませるものだった。  

 結局のところ、もし皆さんが、昔メニポスがしたように、月の世界から地球上の数限りないどんちゃん騒ぎをごらんになれたら、まるで、あの蠅や羽虫の類がお互いにぶつかり合い、争い合い、罠をかけ合い、ちょろまかし合い、ふざけまわり、とんだりはねたりしながら、生まれてきたかと思うと、倒れて死んでしまうのとそっくりだとお思いになりますよ。そしてすぐさま死んでしまわねばならないこんなにちっぽけな生物が、なんという混乱、なんという悲劇を起こすものか、とうていお信じにはなれますまい。なにしろちょっとした戦争が起こったり、疫病に襲われたりしますと、一時に数千人も の人間が消えてなくなってしまうことがあるのですからね!(エラスムス「痴愚神礼山讃」渡辺一夫・二宮敬訳)   

 エラスムスでは、狂気はもはや奇怪さではなく、見世物にすぎない。宇宙のひろがりという形姿ではなく、時の流れという特質をおびる。『阿呆船』に代表される宇宙的なひろがりの狂気経験と、エラスムスに代表される風刺という批判的な狂気経験。だがこの対立の図式は、実状はそれほど顕著でもなく、表面的でもなく、その後も双方から派生したものは交錯しあい、相互の交流はとどまることはなかったという。 
 ところが16世紀になると、この〈怖ろしさ〉という悲劇的な狂気は、〈笑いや滑稽〉という批判的な狂気に隠蔽されてしまう。それは狂気が理性と相関的になり、その狂暴さを失っていくことだった。人間の理性は、神の理性とくらべると狂気にほかならない。だから人間の理性は、みずからの愚かさや狂気をわきまえなければならない。こうして狂気は理性に取り囲まれていく。狂気はもはやあの世界の闇夜のなかの絶対的な実在を持たない。理性の領域そのものにおいてしか意味と価値がなくなってしまうのだ。それでも16世紀のあいだは、狂気はいまだ排除の対象ではなかった。だが古典主義時代の初期から近代の合理主義は、〈理性〉の名のもとに狂気を非理性として排除していく。狂人たちは、かつて聖なる病として監禁された癩病者の施療院に閉じこめられる。フーコーのいう「大いなる閉じ込め」の時代が始まったのだ。これをきっかけに西欧の新しい感受性は、狂気を性病と同種の〈罪〉と感じるようになり、その罪を罰するという道徳性が重視され、やがて狂気を治療するという医学的な行為に移っていく。ここに狂気は〈精神の病〉として規定されたのだ。

 セルバンテスやシェイクスピアでは、狂気はつねに、それには救いがないという点で極端な位置をしめている。狂気はいかなるものによっても真理や理性につれもどされない。狂気の通路のさきには、裂け目、そこからさらに死しか存在しない。狂気は、無駄口をきくときも空虚ではない。狂気をみたす空虚は、マクベス夫人について医者が述べているように、「私の治療ではなおせない病気」であり、すでに死の充満せる姿である。また、オフェリアが最後にふたたび見出す快い歓喜は、どんな幸福にもくらべようがないし、彼女の錯乱の歌は、マクベス城の廊下を「女王様は崩御されました」と告げてまわる「女の叫び声」と同じく本質的なものに近いのである。 (フーコー「狂気の歴史」田村俶訳)  

 リア王の狂気は、狂気がまだ非理性として排除されない、狂気にとって幸運な一時期を象徴するものといえる。リア王の狂気は、人間の想像力の自由奔放さであり、天空に翔る幻想の宇宙性と悲劇性を意味するものである。フーコーは、リア王を絶望せる情念の狂気ととらえ、それは悲劇的な狂気経験の証人であり、悲痛ながらも快い狂乱とのべている。  
 「リア王」の上演では、リア王の狂気は、娘に家を追い出された嵐の場面以降に具体化されるのがふつうだが、わたしはこのフーコーの考察から、リア王の狂気を劇冒頭の「リア王の愛憎の読み違い」の場面であらかじめ具体化しておくことにした。なぜなら、狂気とはフーコーがいうように、愛を憎悪、虚偽を真実、死を生、男を女、恋する女を憎悪の女、犠牲者を加害者と取り違える、思い違いのもっとも純粋な形式にほかならないからだ。  
 わたしの演出では、リア王の忠臣ケントは、リア王がコーディーリアを勘当したとき、いち早く王の狂気を察する。王の狂気は、ケントにとって不安な魔力である。ケントは命を張って王の愚かさを諫めるが、逆に王の不興をかって追放されてしまう。リア王の絶望せる情念の狂気が、ケントの理性を追い出したということにしている。
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