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深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。 |
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『リア王』の演劇表現
幕開きをつくる
『リア王』に限らず、演劇には幕開きをつくる楽しみがある。演出家はだれでもこの幕開きに精力を傾ける。なぜなら観客というものは、幕あきが気に入らないと、いつまでも現実世界から劇世界に飛躍できないばかりか、「これは悪い作品だ!」と早々と決めつけてしまうからだ。 たとえば『リア王』の幕あきは、つぎのようなことを考えた。
@ 『リア王』は現代劇ではなく古典劇だ。観客は現代劇でさえなかなか劇世界に入れないのに、じぶんの生活とはまったくかけ離れた古典劇ではなおさらだ。この古代の物語にいかに早く興味を持ってもらえるか。その要素を見つけだすこと。
A 『リア王』は幕をあけてすぐに劇の山場「リア王の愛憎の読み違い」がくる。原作通りにいきなりケントの台詞からはじめる演出もあるが、これでは劇が山場にさしかかっても、観客は古典という障害を乗り越えることができず、まだ日常性に囚われているかもしれない。劇の山場までに、観客を劇的世界に誘うにはどうするか?
B およそ物語は必ず中心の出来事をもっている。その物語の中心に、観客をいきなり入れてしまいたいのか、ゆっくり近づけたいのか、あるいは物語の中心を見破られないようにしたいのか。幕あきと物語の中心の距離が問題になる。『リア王』の場合は、観客をいきなり物語の中心におくこと。
C 観客はだれでも、これから劇がはじまるぞという期待感を持っていて、すぐにも作品を評価したがる。とくに『リア王』のように有名な作品のばあい、あらかじめ筋を知っている観客はじぶんなりに幕あきを想定している。この観客の先見性の網に引っかからないように、観客の想像性を超えること。
D 現代演劇のばあい、観客を惹きつける力は、耳より目にある。つまりこの物語の中心をビジュアルに提示することが必須の条件だ。この作品の底に流れるモチーフは権力である。この権力をビジュアルに表現すること。
これら5つの条件から、幕あきは次のようになった。
プロローグ・現在
観客が劇場に入って客席に行くと、幕はすでに開いている。装置はいたってシンプルで、ただ茫漠とした空間があるだけだ。
開演5分前になると、現代服を着た俳優が一人、二人、あるいはグループになって登場してきて、本を読みだす。なかにはわざわざ椅子を持ってきて読む者もいる。椅子に座って、それにもたれて、腹ばいになって、仰向けになって、立って、歩きながら、つぶやきながら、線を引きながら。読む姿勢や読み方がさまざまなのは、それがいちばんじぶんにとって本の世界に入りやすいからだ。
俳優たちは、それぞれが別な本を読んでいるわけではない。観客には、はじめはわからないが、しだいにみんなが読んでいる本が、これから上演する『リア王』であることがわかってくる。この状態が続いて開演の時間がくると、突然ME(序曲)が鳴りだす。これを合図に客電が消えていき、舞台はほの暗い照明に変わり、俳優たちは本を閉じて劇の世界(主を待つ華やかさとざわめき)を演じる。小姓役が来場者の手荷物(俳優たちが読んでいた本)を回収していく。
ややあってMEが変調していくと、その音につれ俳優たちが本を読むために使っていた三つの椅子に照明あたっていく。これは三分割されたブリテン王国のそれぞれの権力を象徴しているだけでなく、日常の効用の椅子が劇世界の権力という像(イメージ)に変貌したことを示している。
人々はこの権力の像に息をのむ。そして欲望のままにその像に駆け寄る。目を凝らしたところでMEが突然中断し、人々も静止する。
このストップモーションを合図に上下よりグロスターとケントが登場する。ふたりはあいさつをかわしてから、この権力の像を背景に語りだす。
いわゆる演劇通は、演劇を「だまし」と言うが、〈観客の想像を超えること〉と〈観客をだますこと〉とは千里のへだたりがある。わたしにとって幕あきとは、じぶんの経験知と想像力をふるにつかって観客の想像を超えることである。もし幕開きで、観客の想像力を超えることができなかったら、わたしたちは観客から早々と「停滞」という烙印を押されてしまう。 |
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