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深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。 |
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『ハムレット』の演劇表現
盗み聞きの場
『ハムレット』には、いわゆる〈謎〉が多い。『ハムレット』を上演する場合、わたしたちはこの〈謎〉を解いて、演劇表現を決定しなければならない。
「尼寺の場」もこれまで〈謎〉とされてきた場面である。 「尼寺の場」は、ハムレットが母親への不信から女性憎悪になって、恋人のオフィーリアに「尼寺へ行け」ということから、こういう呼び方をされているが、これでは、劇の本質を言いえた適切な表現ではないので、ここでは「盗み聞きの場」ということにする。
「盗み聞きの場」は、ハムレットが国王の家臣であるポローニアスの娘オアィーリアに失恋して狂ったらしいので、国王とポローニアスがハムレットとオフィーリアの二人が話すのを盗み聞きして、ハムレットを確めるところである。
この場でいわゆる「謎」とされているのは、ハムレットはふたりの盗み聞きに気づいたのか、気づいたのなら、それはいつか、それとも、まったく気づかなかったのか、ということである。
これまでのハムレット上演では、だいたいつぎの二通りの解釈がなされてきたと、小田島雄志は『「尼寺の場」のハムレット』で述べている。
@ オフィーリアがハムレットに贈物を返すとき、その言葉が韻を踏んでいて形式的であることから、明敏な直観力にたけたハムレットは盗み聞きをされているのを察知したという解釈。(エドワード・ダウデン、G・R・エリオット、C・J・シッスン、大山俊一等)
A ハムレットがオフィーリアに尼寺行きをすすめている最中に、アラスの動きを目にして、「父上はどこにいる?」とたずね、盗み聞きするものの存在を知ったという解釈。(ハーリー・グランヴィル=バーカー、J・W・ドレーパー、G・ライランズ、G・B・ハリスン等) 現にメル・ギブソンも、ケネス・ブラナーも、蜷川幸雄も、浅利慶太も、かれらのハムレットをこの@とAの延長線上で処理している。特に蜷川幸雄は、この場でわざわざキスシーンを設定して、オフィーリアがハムレットにキスされて、そのことを親から見られたと思って慌てるので、ハムレットが盗み聞きの存在に気づくという演出をしている。
はたして、世界的な大スターやシェイクスピア役者、当代日本の人気演出家の解釈は正しいのか?
もし、かれらのようにハムレットが盗み聞きに気づいたのなら、この場面は、国王とポローニアスが仕掛けた罠に対して、ハムレットが反対に罠を仕掛けるという二重構造の場面になってしまう。現代人ならまだしも、16世紀のシェイクスピアがほんとうにそんな複雑なことを書きたかったのか?
もちろんシェイクスピアはそんなことは書かなかった。@の解釈もAの解釈も誤りである。ハムレットは、国王とポローニアスが盗み聞きをしていることに、まったく気づかなかったのである。
その理由を、小田島雄志はふたつ挙げているが、それをわたしなりに箇条書きにしてみると、
@ シェイクスピアを代表とするエリザベス朝演劇の特徴として、「盗み聞きの場」にはひとつのルールがある。つまり盗み聞きする者は、そのことを必ず観客に言葉で伝えなければならないということだ。現にハムレットにおいても、ポローニアスはこれから盗み聞きすることを「ここへ娘を連れてきて。陛下とわたしは壁掛けに隠れて二人の様子を」とはっきり言っている。だからこの当時の演劇のルールに従えば、もしハムレットが盗み聞きに気づいたのなら、そのことをはっきりじぶんの言葉で観客に言っている台詞なり傍白があるはずである。ところが原作のどこを探しても、そんな言葉は見当たらない。したがって、ハムレットは盗み聞きに気づいていない。
A この「盗み聞きの場」を演劇の基本である関係性ということで考えてみると、この場の関係性は〈聞かれる者〉と〈聞く者〉である。そして、この関係性を、劇世界(わたしたちの生活する日常とはちがう幻想の世界)において設定するとどうなるのか?〈聞く者〉は〈聞かれる者〉から何を聞きたいのか?ここで国王とポローニアスがハムレットとオフィーリアとの話から知りたいのは、ハムレットの狂気の原因が失恋のためなのか、それともちがう原因なのかということである。日常の世界では、盗み聞きしている者の期待を裏切って、聞かれる者が何の関係もない話をしたり、なにも言わないで素通りすることもありうるが、劇の世界ではそれは許されない。ひとたび「盗み聞きの場」を設定したのなら、必ずつぎのようなことが実演されなければならない。つまり〈聞かれる者〉は無意識に〈聞く者〉の期待する、あるいは恐れている言葉を言わなければならない。そうでなければ、「盗み聞きの場」は劇として成立しない。演劇の要である関係性から考えても、「盗み聞きの場」は〈聞く者〉と〈聞かれる者〉という、いたって単純な構造でしかないのに、これまでシェイクスピア学者や研究家たちは、それをことさら複雑難解にして、さも「謎」を解いたかのように謬見をふりまいてきた。 「盗み聞きの場」のハムレットの台詞は、小田島雄志がいうように、「観客は知っているのに彼が知らないで言うから、ドラマチック・アイロニーとしておもしろいのである」。
尼寺の場」は、ポローニアスが仕組み、国王と二人でアラスのかげにかくれ、ハムレットのオフィーリアとのやりとりを立ち聞きする場である。そして、ハムレットの「おれは傲慢だ、執念深い、野心も強い」ということばは、彼から王位を横どりした国王の胸を刺すだろうし、「父上はどこにいる?」という問いかけは、ポローニアスの耳をそば立たせ、「しっかり閉じこめておくのだな、外に出てばかなまねをしないように」と続くハムレットのことばを苦々しく聞くだろう。それは、二人の存在に気づいたからではなく(気づいたならなぜ相手を警戒させるようなことばを吐くか!)、ドラマチック・アイロニーとして言われるのである。その結果、国王はハムレットの狂気の原因が「妨害された野心」にあると危険視し、ポローニアスは「拒絶された恋」にあると自説を確認する。それがこの場の劇的な意味である。それを知るのは、ハムレットではなく、観客なのである。
(小田島雄志「詩とユーモア イギリス演劇ノート」)
小田島の解明したとおりであり、これ以外の解釈はありえないのに、松岡和子は、河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」で、ちがう解釈をしている。松岡は、オフィーリアが贈物をハムレットに返すときに、じぶんが訳した「品位を尊ぶ者にとっては、どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます」の「品位を尊ぶ者(noble mind)」という言葉が高慢な感じなので、もっとオフィーリアらしい言い回しに変えようと思って、ハムレット役の真田広之とオフィーリア役の松たか子に、そのことをたずねたところ、
松岡 (前略)そうしたら、松さんが、私はあの言葉は父親に言わされていると思って演っています、と言ったんです。真田さんがそれを受けて、僕はそれを感じるからふっと心が冷えて、裏におやじがいるなと思い、「お前は貞淑か?」って尋ねる、と言うんですよ。私はもうびっくりしてしまってね。言われてみれば、筋が通るんです。一幕三場でオフィーリアはポローニアスに「気ぐらいを高く持て」とかお説教されているんですから。シェイクスピアは台詞の中に役者へのきっかけを埋め込んでいるんです。つまり、ここであやしいと思え、とね。あの場面はつねに問題にされるんです。(中略)ハムレットはそれに気づくのか、気づかないのか。気づくとすればいつなのか。それがつねに問題になるんですよ。だいたいどこかで気づくという演出をとってますけれども、能のない演出家が「気づく」ことを表現しますと、ポローニアスとクローディアスが隠れる瞬間にハムレットが入って来て目の端でちらっと見てしまう、という演出をとったりする。でも、このnoble
mindがきっかけだと分かれば、目撃する必要はないんですね。現実にそこに隠れていると気づかないとしても、オフィーリアが自分のことをnoble
mind と言った途端に、ハムレットが「ん?」と思うようにできているんだから。これは怪しい、裏に父親がいるな、とね。私が違和感を持ったまま差し出した言葉を、松さんと真田さんはそう読んでくださった。優れた役者ってすごいですよ。私はそこまで読めなかったけれども、オフィーリアらしいと自分で思うように、こなして訳してしまわない程度には、馬鹿じゃなかったなと。(河合隼雄・松岡和子「快読シェイクスピア」)
はたして松岡の言うとおりであろうか?
わたしはそうは思わない。この場は、装飾過多のシェイクスピアの言葉に惑わされずに、ハムレットとオフィーリアとのふたりの関係性、つまり贈物を〈返す者〉と〈返される者〉という関係性で考えてみることだ。そうすれば不明はたちどころに解ける。 それでは、松岡の解釈がいかにこの場の劇的本質からはずれているかを、わたしの台本にあたって示してみる。冒頭部分だけ、比較できるように松岡の翻訳を載せておいた。
ハムレット (有名なTo be,or not to be.の独白後)美しいオフィーリア!森の妖精、僕の罪の赦しもその祈りにこめてくれ。
オフィーリア 殿下。このごろはご機嫌いかがでいらっしゃいますか? ハムレット ありがとう、元気だよ元気、元気。
オフィーリア 殿下、頂戴したした品々、いつかお返ししなければと思っておりました。どうかお納めください。
ハムレット いや、駄目だ。何もやった憶えはない。
オフィーリア 殿下、よく憶えておいでのはず。優しいお言葉も添えてくださって頂いた品が一層有難く思えましたのに。その香りも失せました。お返しいたします。品位を尊ぶ者にとってはどんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます。さあ、どうぞ。
ハムレット ははあ!お前は貞淑か? オフィーリア え? ハムレット お前はきれいか?
(松岡和子訳「ハムレット」)
ハムレット 森の妖精、僕の罪も祈ってくれ。
オフィーリア 殿下。最近、お体の調子は?
ハムレット おかげで元気だ。
オフィーリア いただいたもの、ずっとお返ししようと。お受け取りください。
ハムレット 何もやったおぼえはない。
オフィーリア そんな!優しいお言葉をそえてくださったからうれしくて、その香りが消えた今は必要ありません。どうぞ。
ハムレット おまえは貞淑か?
オフィーリア わたしが?
ハムレット 美しいか?
(三澤台本「マイ・ハムレット」)
松岡が違和感を感じた「品位を尊ぶ者にとっては、どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます」は、わたしの台本では削除している。なぜなら、この高尚ぶった、まだるっこしい台詞は当たり前のことを言っているだけだし、ようするにオフィーリアは贈物はもう「必要ありません」と言いたいだけだからだ。
この個所で注目に値するのは、そんな言葉ではなく、ハムレットの「何もやったおぼえはない」である。 オフィーリアから贈物を返された。しかも恋人のオフィーリアからだ。このときのハムレットの気持ちは、実感で考えてみればすぐわかる。つまり失恋したことがあるものなら、じっさいに贈物を返された経験がなくても、だれにだって想像できる。ハムレットは、ショックで気も動転していると。この気持ちは、おそらくだれでも同じだとおもうが、その後の反応となると、人によってちがってくる。ハムレットのように、「何もやったおぼえはない」と言うものもいるだろうし、しかたなく受け取って黙って立ち去るもの、まためそめそ泣くもの、あるいは「思い直して、もう一度愛してくれ」と愛をせがむものもいるだろう。この千差万別にある反応から、シェイクスピアは、ハムレットに「何もやったおぼえはない」と言わせることを選択した。ここに劇的な意味がある。
贈物を返されたハムレットは、あまりのショックに気も動転する。恋人に贈物を返されたという事実を認めたくない。だから贈物はしてないという意味で「何もやったおぼえはない」というが、それでもなおオフィーリアが「そんな!優しいお言葉をそえてくださったからうれしくて、その香りが消えた今は必要ありません。どうぞ」と、贈物を受け取るよう催促するので、傷つけられた心はさらに刺激されて、オフィーリアを憎らしくなる。目の前にいるのは、もはや「天使のごとき、わが魂の偶像 美の化身たる(松岡和子訳)」オフィーリアではない。偶像は地に堕してしまった。だから「おまえは貞淑か?」「美しいか?」と訊くのである。 このように、ここのハムレットは、失恋の痛手があまりに大きいために、オフィーリアのことしか頭になく、真田がいうように「裏におやじがいるな」などとは到底おもえるはずがない。そんな気を回す余裕などまったくないのだ。 火に油を注がれたハムレットの憎悪は、さらに加速度を増していく。
オフィーリア なぜそんなことを?
ハムレット おまえが貞淑で美しいなら、その二つは一緒にさせないほうがいい。
オフィーリア 美しさと貞淑は、よい取り合わせでは?
ハムレット いや、美しさが貞淑な女を不倫に陥れる。
オフィーリア ・・・
ハムレット ・・・おまえを愛してた。
オフィーリア わたしも・・・そう信じてました。
ハムレットはオフィーリアにキスをしようとする。オフィーリアは目を閉じる。その顔にハムレットは言葉を吐きつける。
ハムレット 残念だな。愛してなんかいなかった。
オフィーリア そんな。
ハムレットが「愛していた」と言って、すぐに「愛してなんかいなかった」と否定するのは、オフィーリアに贈物を返されたことへの報復だが、こういうところにわたしはハムレットの幼さを見てしまう。ハムレットは大人になれない少年である。この少年の潔癖性は、オフィーリアを否定するばかりか、女そのものを否定し、オフィーリアを不倫の母にダブらせる。オフィーリアはじぶんを裏切った。もう孤独のじぶんを助けても、励ましても、むろん愛をささやいてもくれない。やっぱり、おまえは母と同じように、父が死んだらその弟と結婚するような女だ。その美しさの中には邪淫が隠れている。お
お、反吐が出る。
ハムレット 女なんかやめてしまえ!なぜ罪深い人間を生みたがる?おれはこれでもまっとうなつもりだが、それでも母が産んでくれなければよかったと思うほど罪深い人間だ。 傲慢で、執念深く、野心満々、想像だけでまだ実行できない罪を抱えている。そんな男が天地を這いずり回って、いったい何ができる?おれたちはみんな悪党だ。だれも信じるな! 女なんかやめてしまえ!親父はどこにいる?
オフィーリア (秘密がばれるのではないかとおどおどして)家に。
ハムレット じゃあ、閉じこめておけ!外でバカな真似をしないようにな。
オフィーリア ・・・
ハムレット もし結婚するなら、持参金代わりに呪いの言葉をくれてやる。おまえが氷のように貞淑で、雪のように清純でも、世間はなにかと非難する。女なんかつまらんもんだ!どうしても結婚したいなら、バカとしろ。利口なやつは結婚なんかしないからな。おまえたち女は、顔を塗りたくり、神からさずかった顔を作り変える。尻を振り、甘ったれて、「知らなかったわ」などとぬかす。(キレて)もうがまんできん!おかげで気が狂った!ええい、結婚など、この世から消えてなくなれ!すでに結婚してる者は許す!生かしておいてやる。あのひと組以外はな。他の者は生涯独身でいろ!
ハムレットは贈り物を投げつけて退場する。オフィーリアは、ハムレットが投げ捨てた贈り物を見るだけ、ショックで言葉にならない。 (三澤台本「マイ・ハムレット」)
ハムレットが、オフィーリアの父の居場所をたずねたり、結婚を否定したり、母と国王を抹殺したいと叫ぶのは、いうまでもなく、盗み聞きしているポロニアスと国王にあてつけているのではなく、オフィーリアから贈物を返されて傷ついた恋心が、激しい憎悪となって噴出するからだ。これは、ハムレットが母に対して抱いている嫌悪が、オフィーリアを含めて女性への憎悪となることを示しているが、ハムレットの憎悪が凄まじいのは、あくまでも恋人に贈物を返されたショックの反作用であり、ショックが大きければ大きいほど、憎悪が凄まじくなるのは当然のことである。
このように、ここはハムレットのオフィーリアに対する愛がいかに強かったかを、逆説的に示す場である。この逆説によるハムレットの愛を表現しなかったら、観客はハムレットが独白で言う「かなわない恋の苦しみ」も、オフィーリアの死を知って涙ながらにいう「おれは愛してた、愛してた、オフィーリアを愛してた」も、劇的実感を持って聞くことはできない。シェイクスピアは、松岡が言うように、「台詞の中に役者へのきっかけを埋め込んでいる」のではなく、台詞の中に〈劇中人物〉のきっかけを埋め込んでいるのだ。
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