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深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。 |
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『リア王』の演劇表現
アナクロニズムを解決する
時代設定をとりちがえるアナクロニズム(時代錯誤)は、現代演劇でもときどきみうけられるが、シェイクスピアの場合はとくに顕著だ。『リア王』のつぎの場面をみてみよう。 コーンウォール公爵が作り話とも知らずに、エドマンドの親孝行に感服して家臣として取り立てるところだ。
コーンウォール 伯爵、妙な話を聞いた。
リーガン ほんとうなら大罪です。どうなのです?
グロスター 胸が張り裂けそうです。
リーガン 王の名付けた子が、エドガーが父親の命を?
グロスター 恥ずかしいかぎりです。
リーガン エドガーは、あの乱暴な王の騎士だったの?
グロスター それは存じませんが、ひどすぎます。
エドマンド 兄はあの連中の仲間でした。
リーガン やっぱり。そそのかされて、親の財産を狙ったのね。あの連中のことは、姉から手紙がきて、相手にするなと。
コーンウォール エドマンド、おまえは立派に子の務めをはたしたそうだな。
エドマンド 当然のことを。
グロスター 兄を捕らえようとして、このように傷を。
コーンウォール 追っ手は出したか?
グロスター はい。
コーンウォール 引っ捕らえたら、拷問、打ち首だ。エドマンド、おまえの親思いには感心した。家臣として取り立ててやる。おれは信頼できる若者がほしい。まずはおまえだ。
エドマンド お仕えします、ひたすら忠実に。(リーガンを見て)いつまでも。
このようにシェイクスピアは、古代の物語を逸脱して、中世の騎士叙任を描いている。王が騎士の名づけ親になったり、騎士の洗礼に代父として立ちあうのは中世キリスト教の慣習だし、騎士そのものも中世の産物にほかならない。
このシェイクスピアのアナクロニズム(時代錯誤)を徹底的に批判したのは、トルストイである。
『リヤ王』の事件は紀元前800年のことであるにもかかわらず、登場人物たちは中世紀にしかありえぬような条件のなかにおかれている。すなわち、ドラマの中で活躍するのは王であり、公爵であり、軍隊であり、私生児であり、紳士であり、家来であり、農場経営者であり、将校、兵卒であり、さては兜をかぶった騎士であったりする。シェイクスピアのどのドラマにも横溢しているかような時代錯誤(アナクロニズム)は、16世紀、17世紀の初頭では、幻想の可能をそこなわなかったのかもしれない。だが、現代ではすでに事件の推移を興味をもって追うことは不可能である。それは作者が詳細に描いているような情況のなかではそのような事件は生じるはずがないことを承知しているからである。
(トルストイ全集第十七巻「シェイクスピア論および演劇論」中村融訳)
トルストイの指摘するとおりであるが、だからと言って、たとえば『リア王』の時代設定を古代にすると、かなりの分量の台詞を削除することになり、劇自体が破綻する。逆に中世やエリザベス朝に設定しても、同じ結果をまねく。どちらか一方を選ぶかぎり、劇自体が成立しなくなってしまうのだ。 かつてピーター・ブルックは、このアナクロニズムを「リア王は不条理劇だ」ということで解決したが、わたしは錯誤は錯誤として、そのまま表現する。つまり現在の視点からルネサンス、中世、古代を、それぞれ遠近法で照射する。そうすれば、劇自体はシェイクスピア劇の多様な時代性を失うことはないし、観客は、貴種流離譚という古代の物語のほかに、作者が描きたかった中世やエリザベス朝の現実(歴史性)も観ることができ、たえず現在と比較してシェイクスピア劇を楽しむことができる。つまり、それらの時代性が表現しているものが現在有効なのか、無効なのか、劇の進行に応じて観客は判断を迫られることになるのだ。
だからこの場面なら、わたしは中世の騎士叙任であることを観客にはっきり示すために、「首打ち」の儀式をつぎのように視覚化する。
@ コーンウォールの「家臣として取り立ててやる。おれは信頼できる若者がほしい。まずはおまえだ」を受けて、エドマンドはコーンウォールのまえに跪く。
A 手をさしだして托身儀礼をおこなう。(本来ならここでエドマンドは騎士道の誓いを長々しく唱えるはずだが、それをすると劇的緊張が緩むのでしない)
B コーンウォールは拳骨または平手でエドマンドの首のつけ根を強くたたく。
C エドマンドはリーガンのところへ行き、その手を取ってキスをする。
このように、わたしたちのシェイクスピア劇は、アナクロニズムを明確に提示することにあるが、これまでのシェイクスピア劇は時代設定を日本の安土桃山時代やアメリカの南北戦争の時代にしたり、あるいは登場人物をずばり日本人にしたりして、シェイクスピアのアナクロニズムを解決してきた。だがこれでは、シェイクスピア劇の歴史的な段階も見えてこなければ、イギリスやヨーロッパの地域性や習俗の特性も見えてこない。トルストイが言うような「そのような事件は生じるはずがない」異様な作り事の世界に、観客はただただ翻弄されるだけである。
だからわたしたちは、
@ シェイクスピアのアナクロニズムは、現在の視点から遠近法でそれぞれの時代を照射することによって解決する。
A それによって、それぞれの時代の特性や、イギリスやヨーロッパの地域性と習俗の特性をも表現する。
つまり、わたしたちのシェイクスピア劇は、シェイクスピアの演劇は16世紀後半から17世紀初頭にかけての産物であるというスタンスに立って、その歴史的な段階性を明示することにあるといっていい。
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