THE WORLD OF THE DRAMA 演劇の世界
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深層の劇(戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化。)
深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。
吉本隆明氏との出会い
シェイクスピアの物語とは?
シェイクスピアは言語の劇
観客の心を饒舌にする台詞
幕開きをつくる
アナクロニズムを解決する
言葉の意味を探る
リア王の狂気
道化の知恵
気ちがい乞食
あえて無にして本質を写す
嵐は来ない(16世紀の自然観の差異)
排除の門
リア王の貧乏観
ケントの忠義(忠臣は二君に事えず)
見せしめの身体刑
騎士の生活
中世の〈類似〉という概念
盗み聞きの場
ふたつの劇中劇
『リア王』の演劇表現

嵐は来ない(16世紀と現在との自然観の差異)
 
 「リア王」の悪の狂言回しといえるエドマンドは、自然に向かって、じぶんの境遇の不満をぶちまける。

エドマンド 大自然よ!おまえこそおれの神!おまえの掟には従う。人間の法律なんかくそくらえだ!なぜおれは、財産を相続できない。一歳下というだけで。ばかばかしいしきたりだ。私生児がなんだ?兄貴とどこが違う。変わりゃしない。なぜ私生児だ!なぜ不正の子だ!私生児こそは本能のままに造られた、自然の申し子だ。愛もなくできた兄貴とはできがちがうんだ!エドガーよ(懐から手紙を出して)、財産はいただくぜ。この手紙でおまえを蹴落としてやる!  

 この台詞の冒頭は、原書ではThou,Nature,art my goddess, to thy law My services are boundとなっている。Nature(自然)は、「リア王」にしばしば現れる言葉で、劇のキーワードといえる。  Nature(自然)は、ラテン語のnaturaからきており、中世以後つかわれだした。漢語の自然は、おのずから然りである。だから古代中国のばあい、自然は客観的ななにかではなかった。だからといって主観的というわけでもなかった。古代中国では自然をあつかうときは天といって、自然とは言わなかった。天はさまざまな自然現象を通じてみずからの意志を人間に伝えるので、人間は陰陽五行の原理をわきまえてそれを察知しなければならなかった。  
 それでは、ギリシアでは、自然をどう考えていたのか?  

 存在するもののなかには、自然によって存在するものもあるし、他の原因によって存在するものもある。「自然によって」存在するものとは、動物やその部分、植物、そして土、火、空気、水のような単純物体のことである。というのは、それらの単純物体や、それらに類するもの(単純物体から合成された無機物)も、「自然によって」存在しているとわれわれは言うからである。ところで、これら自然によって存在するものにはすべて、自然によってつくられたのではないものと比較すると、明らかに異なった特徴がみられる。というのは、自然によって存在するものはそれぞれ、みずからの中に運動(変化)と静止の始源をもっているからである。その運動というのは、ある場合には場所におけるそれ(移動)であり、ある場合には増大と減少〔という量的変化〕に関するものであり、またある場合には性質的変化に関するものであるが。これに反して、寝椅子とか上衣とか、その他そういった類いのものは、それらがそれぞれいま言われたような呼び名をもつものである限り、つまり、それらが技術による製品であるという点では、運動変化のなんらの傾向をも、本来、みずからの中にもってはいない。ただし、それらのものがたまたま、石や土から、あるいは石と土との混合物からできたものであるという点では、そしてまさにその限りにおいてのみ、それらのものは運動変化の傾向をみずからの中にもっているのである。ということはつまり、「自然」とは、それが付帯的にではなく、直接にそれ自体においてふくまれているものにおいて、そのものが動かされたり静止したりすることの、ある始源であり原因であることを示しているわけである。(アリストテレス「自然学」加藤彰俊訳)    

 動物や植物や土や火や空気や水、そして人間をも、現在のわたしたちは自然そのものとみなすが、アリストテレスの自然観はちがう。自然はみずからのなかに奥深くひそむ、あるひとつの始源の動因とかんがえられている。だがこの自然は、ふたつの意味にとれる。

 (1) 「自然」とは、みずからのなかに運動と変化の始源をもっている事物のそれぞれにとって、その基体になっている第一の(最も直接の)素材のことだ。

 (2) (1)でいう意味での事実の形態または形相のことを事物の「自然」ということもできる。  アリストテレスのこの二つの「自然」は「内」と「外」に、「小」と「大」に、「微視」と「巨視」に分裂する。また哲学と技術とに分裂する。また、科学と文明に分裂するといってもよい。(吉本隆明「ハイ・イメージ論U」)  

 吉本隆明は、アリストテレスの「質料」と「形相」の二つの原理を根本的な相関原理としてみなすことができ、この二つが分裂をきたすのは避けられない、とのべている。
 アリストテレスをはじめギリシアの自然観は、自然を万物の根本における同一と考えて、連続を説くことだった。つまり自然を固定したなにかととらえ、その自然を眼で〈見る〉ことが重要だった。人間の力ではどうにもならないものを〈見る〉こと。動くもので、その動くものを越えたものを〈見る〉こと。この越えたものが自然(実体)にほかならない。だから人間は、たとえ自然の猛威に出会っても、それを見て、その動かしがたいものを見きわめ、それに従うしかなかった。この場合、ギリシア人にとっては、〈見る〉主観が問題ではなく、なにを見るかの〈なに〉が問題だった。だが近代になると、〈主観〉が見るというところに重点がいく。つまりデカルトのように「わたしは考える」の〈わたし〉であり、そこがギリシアの〈見る〉とはちがうところである。デカルトにとっては、主観こそが原理だった。ギリシアは実体(見られるもの)こそが原理だった。近代と古代のちがいはここにあるといえる。  

 自然の下僕であり解明者である人間は、彼が自然の秩序について、実地により、もしくは精神によって観察しただけを、為しかつ知るのであって、それ以上は知らないし為すこともできない。(中略)人間の知識と力とはひとつに合一する、原因を知らなくては結果を生ぜしめないから。というのは自然とは、これに従うことによらなくては征服されないからである。(ベーコン「ノヴム・オルガヌム」桂寿一訳)  

 シェイクスピアの同時代人フランシス・ベーコン(一五六一年〜一六四二年)でも、自然は実体から主観に移っている。自然はいまや人間の実験の対象になっている。ベーコンは、四つのイドラ(偶像・先入観)、「種のイドラ」「洞窟のイドラ」「市場のイドラ」「劇場のイドラ」をあげて、人間の理性がいかに誤謬におちいりやすいか、見せかけの真理を生みだしやすいかを説いている。ベーコンは経験に真理のよりどころを求め、イドラ(先入観)にとらわれることなく、人間であることに邪魔されることなく、自然を〈あるがまま〉にとらえよといった。だがベーコンがとりだした自然は、じつは〈あるがまま〉ではなかった。それは観察と実験により、知識を道具として征服した自然であり、人間の役に立つ自然であったから、きわめて人間的な自然だった。いわゆる十七世紀の〈わたし〉という独断の、人間化された自然だったといってよい。このことは近代科学の歴史が証明している。  
 キリスト教会は、こうした聖書に書かれた以外の自然と人間を認めようとはしなかった。教会にとって自然と人間は滅びるもので、永遠なるものは神のみだった。教会は教義にはずれる考えを一切認めようとしなかった。たとえば「自然は無限でひとつ」と主張したイタリアの自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548年〜1600年)は、ローマで焚刑に処せられている。教会にとって自然は、神の恩寵であり、人間もその恩寵によってのみ生きられるものだっった。だから自然と人間とは神の庇護のもとにあり、それを離れては滅びるしかなかった。自然の光と恩寵の光との苦闘。これが中世のモチーフだが、近代になるとしだいに神の恩寵は色褪せ、キリスト教徒にとっても神が自然に転化するのは避けられないことだった。たとえばライプニッツ(一六四六年〜一七一六年)の神は、「やがて実験と観察の経験がかさねられてゆくと、自然(現象)とみなされ、自然科学の認識にとってかわられるかもしれない対象が、神として、ライプニッツの哲学の全景のなかに、全景と融けあってあらわれた」と、吉本隆明はのべている。  とにかくデカルトの合理論、ベーコンの経験論は、哲学の対象を認識におき、プラトンやアリストテレスの形而上学的実体をすてた。そして教会権力から自然と人間を解放する土壌をつくったのである。  
 エドマンドは、じぶんのことを「自然の申し子だ」と豪語する。私生児のことを英語で、natural sonというから、シェイクスピアはエドマンドにそう語らせたのだろう。  エドマンドは生まれおちたときから私生児の辛酸をなめてきた。エドマンドの欲求は、ことごとく私生児ということで制圧される。だから、人間のつくりあげた社会通念を否定し、自然に共感するのは、それこそ自然のなりゆきといっていい。ただそれが、善行としてあらわれるか、悪行としてあらわれるかは、ほんの紙一重のちがいといっていいだろう。  エドマンドのように不幸から生みだされた自然への共感は、天空から雷のように落下してくる。社会を否定し、人間を否定すればするほど、エドマンドの自然への共感は加速度を増していく。もはやじぶんを理解してくれるものは自然しかない。エドマンドは「大自然よ!おまえこそおれの神!」と、自然を擬人化し、自然がじぶんを人間の敵としてつかわしたと決めつける。  
 この自然の擬人化は、シェイクスピアの特徴で、リア王も同じように自然を擬人化している。老後のやすらぎを願いながら、それが無残にも裏切られ、娘たちに家を追いだされたリア王は、荒野をさまよう。この哀れな老人に、稲光が走り、雷鳴が轟いて、嵐が容赦なく襲いかかる。リア王は、荒れ狂う自然に向かって、大言壮語な言葉を被虐的(マゾヒック)に叫ぶ。

リア王 風よ吹け!雨よ降れ!雷よ、思う存分にとどろけ!雨も、風も、雷も、稲妻も、わしの娘ではない。酷いおまえたちを親不孝と責めたりはせぬ。わしはおまえたちに財産を与えはしなかった。わが子と呼びはしなかった。だから好きなだけわしをさいなむがいい。だが、おまえたちは卑劣だぞ。恩知らずの娘らに味方して、このような無力な老人に、天の軍勢をさし向けるとは。ああ、ひどいではないか。  

 リア王が自然の風、雨、稲妻、雷を擬人化しているのは、リア王にとって自然は神の手先であり、じぶんはその奴隷だからである。だがこれは、これまで自然観の推移をみてきたように、神は人間の姿をしているとおもっていた未開の神人同性に起源をもち、自然との距離を救済としてみてしまう十六世紀の自然観である。現在のわたしたちも、自然を擬人化したり、人間の内面性の暗喩とみなすことはあるが、風や雨や稲妻や雷がおこったのは、自然の必然であって、べつに失意の老人を懲らしめるために発生したのではないことは知っている。偶然の結果として、リア王がさらにうちひしがれることになっただけのはずである。  
 ところがシェイクスピアは、この場面で嵐を設定した。これによって、人生末期においてはじめて知る孤独感と、娘たちにたいする怨恨の情念に、自然の猛威がさらにリア王の被害感を駆りたてることになる。わたしは、この〈失意の老人をさらに不幸のどん底に陥れる嵐〉という設定に、シェイクスピアの過激な物語性を見てしまう。ロブ=グリエの言葉をかりるなら、嵐は、リア王の魂の反映、苦悶の表象、欲望の影のために必要不可欠なものだからである。   

 悲劇とは人間の不幸を集約し、それを包摂し、したがって必然性とか、叡知とか、浄化とかのかたちでそれを正当化する手段にほかならない。この収拾策を拒絶し、それに屈服するという卑怯な真似をしないための(悲劇以上に油断のならないものはないのだ)技術的手段を探求することこそ、今日必要な企てである。(ロブ=グリエ「新しい小説のために」平岡篤頼訳ロラン・バルトのことばより)  

 リア王が自然を神人同性的にみるのは、16世紀の歴史的段階を示すことになるから、そのまま表現すればいいが、嵐でリア王の不幸を助長し、観客の情緒を煽りたてるのは、ロラン・バルトがいうように、現在のわたしたちが16世紀のシェイクスピアに屈服することになる。だからわたしたちの「リア王」では、嵐はやってこない。リア王は穏やかな自然のなかで、「風よ吹け!雨よ降れ!」と叫ぶだけである。わたしたちの台本では、つぎのように俳優がリア王の台詞を語ることにしている。

幕間・現在 休憩中も幕は開いている。 2幕がはじまる5分前になると、またぞろ俳優たちが登場してきて、本を読みだす。この状態が続いて物語の開始の時間になると、客電が消えていく。俳優たちはなおも本を読んでいるが、リアを演ずる俳優はその林立する俳優たちの間を駆けまわる。道化役の俳優が後を追う。娘たちに蔑まれ、家を追いだされた老人の不幸ははかりしれない。おそらく夜を徹して荒野を駆けまわったのだろう。老人の無念と怨恨の情念が、自滅と世界の終末を期待する。俳優たちはそれぞれ所定の姿勢をして、いっせいに声をあわせて本を読みだす。大言壮語なシェイクスピアの、ことば、ことば、ことばを連発する。俳優たちが、自然の風、雨、稲妻、雷を擬人化して語るのは、それが未開の神人同性に起源をもち、自然との距離を救済としてみてしまう十六世紀の現実を表現したいからだ。これはあとになってわかるが、リアの幻覚の像を表現していることを示している。

第2幕 第10場・物語(荒野/早朝)

俳優たち 風よ吹け!おまえの頬が破れるまで吹きまくれ!雨よ降れ!瀧となり、そびえ立つ塔もひたってしまうほど降りまくれ!稲妻よ、その電光でわしの白髪頭を焼き焦がせ!天地を揺るがす雷よ、丸い地球をたいらにしてしまえ!生命の母胎をたたきつぶし、恩知らずな人間を作り出す種を打ち砕け!    

 リアは俳優たちの声にあわせて自然に向かって叫ぶ。だが自然は老人の思うようにはならない。日の出の太陽が照りつける穏やかな自然のままだ。道化はリアの異常に気づき、狂気の境界線を越えさせまいと、娘たちとの和解をすすめる。

道化 おじさん、いやな家でも帰ったほうがいいぜ・・・・・・娘と仲直りしてよ・・・・・・これでは、ばかも、利口もない。  

 だがリアの無念と怨恨の情念はとどまることがなく、妄想が妄想を生み、リアの幻覚の像には嵐が実在しているのだ。

俳優たち 風よ吹け! 雨よ降れ! 雷よ、思う存分にとどろけ! 雨も、風も、雷も、稲妻も、わしの娘ではない。酷いおまえたちを親不孝と責めたりはせぬ。わしはおまえたちに財産を与えはしなかった。わが子と呼びはしなかった。だから好きなだけわしをさいなむがいい。だが、おまえたちは卑劣だぞ。恩知らずの娘らに味方して、このような無力な老人に、天の軍勢をさし向けるとは。ああ、ひどいではないか。
道化 おじさん、知恵のないやつは、これが運命とあきらめたほうがいいぜ。そうすれば、狂わなく てすむ。のんきに暮らせるよ。
ケント さあ陛下、小屋へお入りください。
リア かまわないでくれ。
ケント お疲れです。ひとまず中へ。
リア 嵐がなんだ?こんな嵐など、わしの不幸にくらべたら、かよわいものだ。

 ME(錯乱)

ケント どうされたのです、陛下! 嵐など吹いてはいません。  

 このケントの台詞と同時に、俳優たちは一斉に背を向ける。

リア なんだと、わしの胸を引き裂く気か。
ケント 引き裂きたいのは、この胸です。さあ、お入りを。
リア ええい、離せ! 親不孝な子どもらよ! おまえらも赤ん坊のときは可愛かった。この手で何度も食べさせてやったものだ。それをなんだ? 恩も忘れ、親に噛みつくのか! いや、もう泣くものか。無惨にも親を追い出したのだ。風よ吹け! 雨よ降れ! わしは耐えてみせるぞ。ええい、リーガン、ゴネリル、老いた父を、すべてを与えた娘思いの父をこんな目に・・・
ケント 陛下、どうかお入りください。
リア わしはいい。わしは嵐のおかげで気が紛れる。
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