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深層の劇 戯曲に内在する真の意味を理解し、それを飛躍的なイメージに転化する。 |
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『リア王』の演劇表現
中世の〈類似〉という概念
フーコーは、『言葉と物』で、中世では〈類似〉という概念が知を構築する役割を演じてきたという。書物の解釈を方向づけたのも〈類似〉なら、目に見えるもの、目に見えないものはすべて〈類似〉という視点からとらえられていた。「大地は空を写し、人の顔が星に反映し、草はその茎のなかに人間に役だつ秘密を宿していた」のだ。人間が思いうかべたものは、つねになにかの模写であり、言語は「人生の劇場、世界の鏡」であった。
フーコーは、16世紀の〈類似〉には4つの主要な形態があるとしている。
@適合
異なったものもたがいに接近し、接触して〈適合〉する。世界は万物の普遍的な〈適合〉である。植物は成長作用において動物と適合し、動物は感覚作用において人間と適合し、人間は知性において星と適合する。
A競合
遠くはなれた二つのものが、たがいに反映し、競いあう。それはまるで双子のようだし、鏡にうつった像のようでもある。草木が空を見あげる地上の星であるように、星は天上の植物だ。人間は天空とおなじくじぶんの内部に星をいだき、けっして天空に支配されることなく、すべての感応力を宿している。人間の内面は天を反映する。
B類比
類似は、ごくわずかな類似でも類似とみなすから、無数の近縁関係をつくりだす。星と天空との関係は、草と大地との関係に、生物と地球の関係になぞらえることができる。ただし、この〈類似〉をつかさどるのは人間である。人間は世界から受けとったさまざまな類似を、周囲の世界にふたたび伝播する。人間こそ類似関係の支点、世界の中心にほかならない。
C共感
類似は、世界のさまざまな物の運動を誘発し、もっとも離れたものを近づける。それは物同士をたがいに同一化し、物の個別性を消滅させるから、それを防ごうとする反感を生みだす。世界は共感と反感とのたえざる均衡運動である。火は水に、空気は大地に反感をいだく。だからそれを和合させるために、空気が火と水のあいだに、水が大地と空気のあいだにおかれる。空気は熱いものとして火と隣接し、空気の湿気は水の湿気と適合する。さらに空気の湿気は火の熱さをやわらげ、同じように空気の熱さは水の湿気をなまあたたかいものに変える。水の湿気は空気の熱さによってあたためられ、大地の冷たい乾きをやわらげる。
このように16世紀の世界は、〈適合〉〈競合〉〈類比〉が〈共感と反感〉によって支えられ、維持される。つまり〈共感と反感〉とが、さまざまな物の自己同一性を形成するということにある。とはいっても、この〈類似〉が世界の秩序として自覚されるには、物自体になにかのしるしがなければならない。物に隠された目に見えない類似の、目に見える標識が必要である。フーコーはルネサンスの哲学者バラケルススの「神はある種の物を隠したもうたとはいえ、特別の標識をもったそとに見えるしるしなしには何ひとつ残されはしなかった」を引用して、類似のしるしが神のサインであることを確認している。たとえばトリカブトが眼病に効くとされたのは、この植物の種子をおおう薄い白い膜に人間のまぶたを見て、神の〈しるし〉(記号)を知ったからである。
このように16世紀の人間の〈知〉は、ひとえに類似の〈しるし〉を解読することにあった。世界のすべてのものは秘密を宿し、「見えないもの」も「見えるもの」としてとりだされる。だから16世紀は、記号の意味をさぐる解釈学や、記号同士のつながりや連鎖の法則を求める記号学がさかんになり、世界の相貌は、記号、紋章、文字、暗号がひしめきあう大きな書物のようなものとなる。自然は、「記号学と解釈学を上下に重ねつつへだてる、わずかな厚みのなかにとらえられている」。自然が神秘的であったり、認識の対象であったりするのも、「この重なりあいのうちに類似関係のわずかなずれがあるからにほかならない」。
だがこうした〈知〉は、過剰であるとともに、絶対的な貧困といえる。類似はひとつの類似にとどまらず、べつの物と関係することによって新しい類似を無限に生んでいくという意味では過剰であるが、つねに同じものしか認識できず、際限のないけっして到達できないところでしか認識できないという立場に追いやったという意味では、貧困というわけだ。
まさにこの点において、あの有名な小宇宙(ミクロコスモス)という観念が、十六世紀の〈知〉における基本的な役割を演ずるようになる。それは二重化された類似のはたらきを自然のあらゆる領域に適用し、じぶんを映す鏡とじぶんを保証してくれる大宇宙(マクロコスモス)とを見いだす。高い天球の可視的な秩序が、暗い大地の深層に反映していると断言する。だがこの小宇宙と大宇宙との距離は無限ではない。計測可能であり、その結果さまざまな相似関係はたがいにささえあい強めあうために、完全に閉ざされた領域となる。記号と類似とのたわむれの自然は、宇宙の二重化された形象にしたがって、みずから閉じてしまうのだ。
このように小宇宙の観念は16世紀において疑いもなく重要だが、これは当時の人々がそれを信じていたからではなく、類似の無限の豊かさと単調さを調整しなければならなかったからだ、とフーコーは指摘する。つまり小宇宙と大宇宙の関係に、この知にたいする保証と、知がわきでる限界とが思考されなければならなかったというわけである。この同じ必然性によって、この〈知〉は博識と魔術を同一のものとみなすことになる。
十六世紀の認識は、合理的な知と、魔術の使用から派生した概念と、古代のテクストの再発見によって権威をました一連の文化的遺産との、不安定な混淆によって構成されていたように思われる。このように考えると、この時代の学問は、脆弱な構造をもったもののように見え、〈古代人〉への忠誠と、超自然的なものへの嗜好と、われわれ近代人が自己の特性と見なしているあの至上の合理性にたいするすでに目ざめつつあった注意力とが対置される、自由な場にすぎなかったと思われるかもしれない。そしてこの三つの花弁をもつ時代が、三分された個々の作品や個々の精神という鏡に、反映しているのだと思われるかもしれない・・・・・・。だが実際には、十六世紀の知は構造の不備に苦しんだわけではない。反対に、この知の空間を規定する布置がいかに精緻なものであったかは、すでにわれわれの見たところである。そしてまさにこの厳密さこそが、魔術および博識、受容された内容ではなく要求された形式としてのとの関係を強制するのだ。世界は解読せねばならぬ記号でおおわれ、類似と類縁関係を啓示するこれらの記号は、それ自体相似関係の形式にほかならない。それゆえ、認識することは解釈することである。すなわち、目に見える標識から、それをつうじて語られているものへ、それなしには物のなかで眠る無言の言葉にとどまるにちがいないものへと、赴くことなのだ。(フーコー「言葉と物」渡辺一民・佐々木明訳)
「博識」と「魔術」の共存は、十六世紀の〈書かれたもの〉の優位性を象徴している。つまりこの時代は、話される言葉より、〈書かれたもの〉が重要であり、それこそが真理だと思われていたからだ。そこでは「見られるもの」と「読まれるもの」とが、「観察されたもの」と「人づてに聞いたもの」とが区別されず、その結果視線と言語が無限に交錯するなめらかな連続面が構成される。たとえば博物学者アルドロヴァンディの『蛇と龍の話』では、蛇類一般についての博物学的な正確な記述と、怪蛇、神秘譚、奇蹟、謎など、神話や魔術に関することが同列に並べられる。これはわたしたちから見れば、愚かな混同としか思えないが、アルドロヴァンディにとっては〈書かれたもの〉である自然を細心に熟視して収録したにすぎない。それはけっして錯誤ではなく、絶対的な〈知〉であったからだ。
海の深みにも、天空の高みにも、人間が発見できないものはなにひとつない。自然は言語であり、それは書かれるものであり、はてしなく行われる解釈の対象であった。つまり言語すなわち自然であり、言葉すなわち物であった豊かで画一的な時代、それが16世紀だったのだ。だが、この〈自然としての言語〉という存在の記憶は、わたしたちの〈知〉のなかにはなにひとつ残っていない、それはただ「文学」に見いだされるだけだ、とフーコーはいう。
十九世紀全般にわたって、さらには今日のわれわれにいたるまで、すなわち、ヘルダーリーンからマラルメ、アントナン・アルトーにいたるまで、文学がその自律性において実在し、他のいっさいの言語からふかい断絶をもって切り離されているのは、それが一種の「反=言説」を形成し、そうすることによって、言語の表象的機能 あるいは記号をなす機能から、十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在へとさかのぼったからにほかならない。(フーコー「言葉と物」渡辺一民・佐々木明訳)
〈生のままの存在〉に惹かれるのは、フーコーがあげた文学者だけではない。わたしをシェイクスピア上演に駆り立てるのは、こうした〈自然としての言語〉へ遡行しようとする無意識の欲求があるからかもしれない。
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