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2006年10月30日(月)
『小指の思い出』
〈現実〉と〈妄想〉、〈現在〉と〈過去〉、〈大人〉と〈子供〉という二元論は、野田秀樹の戯曲創作上の基本的な方法意識だ。この二項対立を理解すると、『小指の思い出』の像が浮き上がってくる。
まず劇は、三つの風景で始まる。
@ 当り屋赤木圭一郎の〈現在〉。
A 行方不明の少年と正体不明の男の対話。つまり、〈子供〉と〈大人〉の対話。
B 妄想の少年達と粕羽聖子とのやりとり。
少年期を過ぎてしまった赤木圭一郎は、子供の時間にもどれるという白い実を求めて電話をかける。電話に答えるのが粕羽聖子で、ふたりは商品の受け渡しの時間(日曜日の第10レースが終わったら)と場所(歩行者地獄の入口・アジアのしみついた四ツ辻)を約束する。
約束したと思ったら、すぐに赤木圭一郎の独白に変わり、突如として幻の少年当り屋「カスパー・ハウザー」が告知される。
するとまた、息つく隙もなく時間と場面は変容し、圭一郎が当り屋になろうと修業していた十年前の当り屋専門学院に変わる。
これでわかるように、野田秀樹の演劇はスピードが身上であり、時間と空間はあっという間に変容(0・001秒で反転の指定もある)する。当り屋専門学院では当り屋の授業が展開され、モットー(決意)がわかるが、この場はなんといっても矢継ぎ早に紡ぎ出される言葉遊びの躍動感にある。
やがて、赤木圭一郎は場外馬券売場で粕羽聖子と出会う。粕羽聖子は、口いっぱいに子供が広がる白い実(歯磨き粉)を毎朝なめつづけると、「音が見えて色が聞こえる」という神秘体験を語る。圭一郎は興味津々で、
圭一郎 その先、どうなるんだい。
粕羽の女 私のカコ、がやってくる。
圭一郎 カコ?
粕羽の女 私の体に少年時代がやってくるんだ。
圭一郎 女のあんたに?
粕羽の女 そいつは突然やってきた。八月の朝、今日はクリニカにしようか、デンターにしようか、神聖なる審判のもと、久方にザクトを唇にあてた。カラーン、カラーンと教会の鐘の音が棒をひいて見えてきた。ムラサツキ、、ムラサツキと紫色がスタッカートで時刻をつげた。そこまでは、いつもと同じ朝、突如、燃えたぎる夏を感じた。七千度の竈が、体を包みこむのに気がついた。暑さのあまり、白いブラウスをひきちぎり、ふくよかな乳房に手のひらをあてると心臓がふたつあるのがわかった。鏡を覗いたら頬の肉がそげおちて骨ばかりになり、喉から肩から雙の耳から、ざあざあと血が流れ出してきた。とくっ、とくっと、ゆっくりとしたひとつの心臓は確かに私のものだけれども、もうひとつの心臓は、たったったったった・・・・・・八月の太陽の下を裸足で走っていく少年の音だ。八月の太陽が七千度の竈の中で燃えたぎる少年を、私の体の中に生みつけた。「八月だ、僕は粕羽八月だ、君の少年時代だ!」
粕羽聖子は、少年時代を持った女性であり、ある八月の朝に心臓がふたつあることを体感し、少年粕羽八月に同一化していく。つまり、失われた過去の時間、自分の中の少年時代に遡行していく。「君の少年時代だ!」の「君」とは、観客に向けられていて、こういうところにも野田演劇を理解する糸口がある。野田はここで観客自身の少年性をも呼び覚まそうとしているのである。
さて、場外馬券売場の窓口は、魔女の留守宅のストーブに通底していて、〈現在〉という時間は、〈過去〉の中世にタイムスリップしていく。そこでは妄想の子供たちが無邪気に話し合っている。
六月 僕達の母さんは、本当にこのストーブなのかい?
八月 なにを今さら。
六月 ストーブは、子供を産まないよ。
正月 じゃあ、リスやカソガルーは、どうして子供を産むんだよ。
六月 動物だからって動物図鑑に書いてあった。
八月 動物じゃなくても子供を産むぞ。
六月 ほんとか?
八月 銀行にお金入れると、子供産むって母さん言ってた。
六月 千円札なんかひげ伸して淡白な顔してるけど。
正月 やることはやってるんだなあ。
六月 そういえばこの前、てんぷらも子供を産んだ。
正月 どこで。
六月 ポケットの中に、てんぷら入れてたんだ。
正月 うん。
六月 しばらくして、手をつっこむと、ふたつになったんだ。
八月 それは、てんぷらが割れたんだ。
六月 でも、そのひとつはコロモなんだ。それで、てんぷらもコロモを産むんだってことがわかった。
八月 お前はまだ子供(コロモ)だから子供(コロモ)のことを子供(コロモ)って言うけれど、てんぷらのコロモと子供とは違うんだぞ。
六月 ・・・・・・
正月 ・・・・・・
八月 ・・・・・・
正月 僕達って無邪気だなあ。
六月 無邪気だなあ。
八月 無邪気って得だなあ。
妄想の子供たちは、無邪気さを利用して、ゲームのような身投げ(実投げ)を行う。メジロムサシ公爵たちが乗った馬車に故意に当って、まんまと慰謝料をせしめて逃げようとすると、破魔矢が行く手をさえぎる。矢を放ったのはアズサ2号男爵で、彼はニュールンベルグは魔女狩りの嵐が吹き荒れ、妄想の子供たちは魔女の手先だと言い張る。
この魔女が粕羽聖子で、中世のニュールンベルグの町では妄想の一族である旧約聖書のアタリヤの末裔であり、現在では当り屋を職業とし、実子の粕羽法蔵(幻の少年カスパー・ハウザーをもじった名前)の背中を突いて車に当て、法蔵を殺したという容疑者である。あずさ2号が「子殺しの容疑で逮捕する」というと、粕羽聖子は、「私、子供おりません」と宣言し、彼女の幻想の中で生きる子供たちの名前(粕羽八月、粕羽正月、粕羽六月、粕羽三月)だけを告げる。つまり、粕羽聖子の心の中では現実の子供の粕羽法蔵は捨て去られており、幻想の子供たちしか生きていないのである。
劇の大団円で、妄想のストーブ二つに割れ、車の急ブレーキの音がして粕羽法蔵が旧約聖書を手に死骸として提示される。
法蔵を殺した粕羽聖子は魔女として十字架に掛けられ、妄想の子供たちが無邪気に運ぶ焚き火の山で焼かれることになる。
粕羽聖子 朝から雪降りつもるニュールンベルグの町の下からどうしようもなく現実の町が湧きでてくる。だから中世の衣を被るのは、そろそろ、よしにしようじゃありませんか。いかにも、この手にかけて子供を殺しました。魔女はね、すべての子供を愛するっていうわけには参りません。心に、ぽっとね、生まれた子供の方を愛するんです。私達の一族は。名前? みんな生まれた月の名前で呼ばれています。八月っていいます。長男は、八月―それが、お前の生まれた月だよ。だから粕羽八月、真夏のように燃えたぎる真実を口にして、世界を焼きつくしなさい。六月―いつも、瞳の濡れた六月、それがお前の生まれた月だ。だから六月、紫色に世界を濡らして雨音で世界中を食べ尽くしてしまいなさい。そして、ひとたび世界を、あじさいの花びらの静寂の中へ返してあげなさい。正月―新しい年を生むおめでたい子供、それがお前の生まれた月だ。だから八月の炎に燃やしつくされた世界が、六月の驟雨で静寂の花びらのもとへ帰ってきたら、再び粕羽正月、お前は世界を甦らせなさい。やがてお前が走る先に、新たな妄想の子供が待っています。それは粕羽三月、復活の季節です。だから、それまで、お前達は、自分の家を焼いて逃げなさい。妄想の子供達。小指にうずまく八月の糸をかみきって、正月の凧糸を天まで伸ばしたら、六月に凧糸の先を大河の河面に垂らして、アルプスを下っていきなさい。母さんが下ることのできなかったアルプスの山を、どこまでもどこまでも下っていきなさい。
妄想の子供たちは、指示されるままに、アルプスの山の向こうへと凧に乗って飛翔していき、新しい妄想の子供が生まれる。
圭一郎 たったったったったっ・・・・・・三月だ、僕は粕羽三月。君の少年時代だ。
2006年10月26日(木)
野田秀樹は、現在の日本演劇界をリードする劇作家である。広島ローカルで演劇活動していて、野田の作品は必ず読むことにしている。いわばわたしにとって野田秀樹は、文学者の村上龍的な存在である。小説で村上をおさえておけば現在の文学状況が見えてくるように、野田を読めば現在の演劇状況を把握できる。 さて、野田作品の大きな特徴は、〈言葉遊び〉と〈リメイク〉だ。使い古された言葉、古典と呼ばれる作品に、新しい生命を吹き込み、独創的でスペクタクルな舞台を作り上げている。
野田の作品はよく難解と言われるが、彼の演劇的技法を理解すれば、だいだいの謎は解ける。野田の芝居がわからないのは、ひとえに作家のせいではなく、観客・読者の能力不足、思想のなさのせいでもある。 しかし、全部がわかるかと言えば、それは無理というもので、野田自身のワークショップでも受けるしか手はない。わたしが野田の作品を演出しないのは、かれの個人的な趣向があまりにも強く、最終的にはお互いの〈生まれつき〉で衝突してしまうからだ。野田は優れた劇作家であり、しかも立派な俳優である。だから、かれの作品はかれにまかせておいたほうがいい。外部者が立ち入る領地はほとんどないといっていい。
井上ひさしは野田についてうまいことを言っている。 「現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか。野田は、古今東西さまざまな時間・空間を並べて繋げて結び合わせ、野田自身がそのさまざまな時間・空間を生きながら、現在という時間・空間にどう住み込めばよいのか、魂の底で暴れ狂って、必死に探し求めている」というのである。
また、井上ひさしは、野田の戯曲は「見立て」「吹き寄せ」「名乗り」という三大技法を使っていると言っている。
「見立て」 日常的なごくふつうの物を別の物に見立てる。言葉遊びも、音による見立て。
「吹き寄せ」 連想によって関係のありそうな物をなにからなにまでかき集める。この連想の糸は、さまざまな可能世界を出現させる。
「名乗り」 登場人物は、ある世界ではABCDと名乗るが、その世界が変身すると、「ABCDじつは1234」と、名乗りを変える。
それでは、この劇作上の三大技法「見立て」「吹き寄せ」「名乗り」をベースに、野田作品を読み込んでゆくことにする。
まずは、「現在という時間・空間に住み込むには、「少年」のままでいるのがもっともよい」という初期作品『小指の思い出』で、続いて、「現在という時間・空間に住み込むには、「歴史」を遡行してみるのがよい」という『贋作・罪と罰』である。
2006年10月24日(火)
20代の若いときからずっと気になる劇作家がいる。唐十郎だ。
唐十郎の芝居は、道具立てやモノが多彩だ。モノ自体は、吸引力のある強い象徴性を与えられ、劇のキーワードとなっている。海(血の海)、道(硝子の道)、大衆浴場、焼け跡、母、堕胎児、大陸、満州、少女、子宮・・・・・・。そしてこれらのモノは、いつ、どこで、どこから飛び出してくるのか、予測もつかない。登場人物は、悪家の男と女で、良風美俗、年功序列を建前とする社会の外側か裏側に棲息し、戸籍不明、住所不定、固有名詞のない異様な風体をしている。
とにかく唐の芝居は、ナンセンスの虚脱快感を誘い、視覚に激しく訴え、歌う要素も多いのが特徴だ。これは、唐が登場人物の思想の厚味に頼らず、話の筋で観客を引きつけるのではなく、ただただ俳優の肉体で舞台を昇華させることに演劇のダイナミズムを見ていることを示している。唐の芝居は、極限の猥雑さの中に〈精神の高貴さ〉が光り輝いている。彼は演劇についてつぎのように述べている。
「もし演劇が、あらゆる芸術の中でダイナミズムを特徴とするならば、劇は、壁の中の華ではけっしてない。それは、外界へ、市場へと空間を切り裂き、君の魂を政治における物理的力とすれすれのところまで煽動してゆくものだ。そんな奇蹟が、かって遊行民族の、あの「劇による襲撃」ともいえるような瞬間に確にあった。(『腰巻おせん』の後記)
この襲撃は、視覚に訴える行動だけではなく、聴覚に訴える台詞によっても果たされる。つまり、唐の台詞は観客への絶え間のない襲撃なのである。ふつうの日常的な会話が交わされていても、それを口にする俳優の存在感が、台詞よりも物をいっている。台詞の意味内容よりも、
○掛け合い万才的な会話者同志の意気投合のリズム。
○即興的な飛躍による緊迫の更新。
○言葉のあやとり的遊び。
○絶えざる官能への回帰を裏づける性的言語の刺激。
○逆に、抽象観念語への変身。
これらが俳優のあらゆる劇的行動の火力源なのである。そして、唐は、これらを優れた語感と豊かな語彙を使って操っている。
ここでは、唐の戯曲のなかでは、最も古典的な初期の作品『少女仮面』を取り上げてみる。
『少女仮面』
場末の地下喫茶店《肉体》。 そこは、宝塚歌劇の偶像的なスター「春日野八千代」が経営し、暴力的なボーイ主任は彼女に献身的に仕えている。
店の名前「肉体」が示すように、この戯曲で展開する物語は、俳優の肉体論である。唐はこの俳優の肉体論を説くために、さまざまな関係性の網の目を張っている。
○エミリ・ブロンテの小説「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの関係を肉体を求めつづける亡霊の関係にしている。
○俳優と観客の関係を、肉体を与え続けながら、むしり取られる関係にしている。
○俳優が俳優の肉体を求め、その奪還を切望する関係を、自己と他者という関係にしている。
○腹話術師と人形の主従関係を逆転させ、肉体の実質を逆転させた関係にしている。
○老婆と少女と春日野という三者の関係を、そのまま時間、身体の問題、永遠性の問題としてとらえている。
このような関係性を理解すると、この戯曲は論理的でないようでいて、明確な論理性をもった作品であることがわかる。
偶像のスター「春日野」は、いまや自分の肉体を求めてさすらう肉体の乞食だ。スターのすべてをむさぼろうとする少女ファンたちに、数十年間自分のすべてを投げ与え続けた結果、彼女には自分で所有するどのような肉体も残ってはいない。奪われ続けの歳月はいつしか「春日野」を極度の疎外に追いこみ、今では「どんどんふけてゆく、かわいそうな幽霊」、「自分自身にはぐれた」一人の「醜女」でしかない。
これと同時に進行する腹話術師と人形のエピソードも明らかに「春日野」と観客、あるいは少女「貝」との物語とパラレルな関係にあり、いわば異質のシチュエーションを使った同質の物語である。
いいかえれば、この戯曲においては、根本的には二つの同じストーリーが展開される。
さらに「肉体論」とは一応別に、この作品には二つの流れが合流している。
一つは、唐作品おなじみの焼け跡願望、つまり第二次大戦直後の広大な焼け跡、その至福のユートピアに回帰しようとする志向であり、それはいまなお焼け跡の水道飲みの儀式を続ける「男」によって体現される。
もう一つの流れは、「甘粕大尉」である。甘粕大尉は、社会主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻を殺害し、のちに満州で活動した人物である。作者は、甘粕大尉の登場によって場の時間からの乗り越え、つまり芝居ラストへの突破口を図り、最終的に肉体の存在した場所を求め続けるというロマンチシズムに転化させているのだ。 |
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