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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴19年の広島で活動した演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2006年8月24日(木)

 寺山修司は、優れた歌人であるが、演劇において様々な実験を試みた稀有な演劇人である。彼の劇は、社会からはみ出されたような人物で占められている。それを風俗としてとらえる点では通俗的で、メロドラマ的だ。
 ここでは、寺山の初期の作品で、反体制、反道徳をかかげ、反演劇を実験していたころの『毛皮のマリー』を取上げることにする。

 『毛皮のマリー』

 物語はいたって単純だ。箇条書きにすると、

●「花咲ける四十歳の男娼」毛皮のマリーは、美少年の欣也と暮らしている。
美少年の欣也は、マリーによって屋敷の中に放たれた蝶を収集するのが日課。
毛皮のマリーは夜ごと男を屋敷に誘い、下男は忠実にマリーに仕える。
美少年の欣也は美少女の紋白と出会い、家を出ようとする。
だが、最終的には出られず、マリーによって美少女に仕立てられる。

 このように物語は単純で、登場人物たちは風俗的で類型的である。しかし、この単純で類型的、場面も単一で、場景の変化もわずかに五つしかないからこそ、劇の分裂分散を抑制することができ、倒錯した官能美を重厚に盛り上げることができ、現代幻想詩を鮮明に浮き上がらせることができたといえる。そして、この詩劇的世界を支えたのは、会話ではない。それが詩の形であろうと、散文の形であろうと、登場人物たちの独白的な物語なのである。
 作者は高校二年のときに「毛皮のマリー」というシャンソンを聞き、そのさびしい娼婦の話がとても気に入っていたところ、作者の住んでいた青森県の下宿近くにも街娼がいて、その中でタメ子と呼ばれる五十代の毛皮の娼婦が、実は男だと聞いたときにびっくりし、人生の「詩と真実」に触れることができたと言っている。

刺青の男 それにしても、マリーさん。あんたは、どうして女に変装したりするんだね?ちゃんとした男つうものがありながら。
マリー それはあんたが刺青をしてるのと同じことよ。どうしてそんなものを彫るの? きれいな肌がありながら。 (刺青の男、こたえない) ちゃんとした男でありながら、男であるだけじゃあきたらず、警察官を演じたり、船乗りを演じたり、思想家を演じたり、フットボール選手を演じたりする人がいっぱいいるのに、おかしいじゃありませんか。女を演じるのだけを、好奇の目で見るなんて。
刺青の男 しかし、マリーさん、船乗りや警察官つうのは、あれは職業だ。実業つうもんだべ。
マリー あたしだって実業家よ。 (と肩をそびやかして) でもおかねになるかどうかは、二の次の問題ね。人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの。芝居の装置は世の中全部、テーマはたとえ、祖国だろうと革命だろうとそんなことは知っちゃあ、いないの。役者はただ、じぶんの役柄に化けるだけ。これはお化け。化けて化けてとことんまで化けぬいて、お墓の中で一人で拍手喝采をきくんだ・・・・・・

 寺山修司らしい現実と虚構を分離させたり融合させたりする台詞だ。作者はこのことについてつぎのように述べている。

 たしかにわれわれは日常生活の中で、つねに何かを演じつづけている。人生というものは数十年におよぶ一慕劇であり、その中での虚像と実像との葛藤というのは、そのまま生きるための条理の略奪戦を思わせる何かかあるようである。私は、現代人か精神の荒地にあって、「演技」による救済を思いつくことに意味をおぼえてきた。アランやヒルテイのうす汚れた幸福論が、つまるところはすべて「演技論」に終始しているのは一体なぜなのだろうか?

 寺山の言う「人生は一幕のお芝居」は、すでに16世紀にシェイクスピアが言っている。わたしがミヒャエル・エンデの『モモ』以来、久しぶりに脚色した『劇変・十二夜』も現実と虚構を分離・融合したメタシアトリカルなドラマで、主人公の兄妹(セバスチャンとヴァイオラ)を一人の役者が演じる。もちろん兄妹の再会も一人で演じる。なぜなら、寺山が言うように、「役者はただ、じぶんの役柄に化けるだけ」で、この化けるエネルギーをこの秋に向原高校の高校生に伝えたいからだ。この役者の化けるエネルギーが爆発しなければ、演劇は到底スポーツに及ばない。嗚呼、あの甲子園の決勝戦(早実VS駒大苫小牧)のような・・・・・・壮絶な魂のドラマが創れたらいいな・・・・・・・。
人生の隘路にいる高校生には、演劇人の魂をぶつけるしかない!真剣勝負だ!

2006年8月21日(月)

 秋浜悟史は、早稲田大学で学生劇団「早大自由舞台」に参加。「劇団三十人会」を主宰し、後に「兵庫県立ピッコロ劇団」の代表をした、東北方言を自在に使いこなした作家で、田中千禾夫先生は〈心やさしき歌詠み〉と評価している。ここで取り上げる『ほらんばか』は、1969年に第一回紀伊国屋演劇賞を受賞した作品である。

『ほらんばか』

 主人公の充年は、十年前、大学の知識をよりどころに、故郷に帰って集団農場で酪農を指導した。陰口もさんざん浴びせられたが、酪農は一応成功していた。しかし、出張中に伝染病で牛が全滅して失敗し、挫折した。今では、春になると発病する「白痴」の病でぶらぶらしている。そんな充年を村の娘のさちは愛している・・・・・・。
 秋浜悟史の出身である岩手県中部には、戦後、開拓農場が推進されたが、昔からの在地農家としっくりせず、脱落者も出て、中には自衛隊の演習地に買収されたりして、理想どおりにはいかなかったようである。『ほらんばか』の内容としての発想は、この問題が中心だ。しかし、『ほらんばか』の素晴らしさは、官能の極みにある。官能のどろりとした濃い情念、カオスの混沌を歌い上げるのに人口方言がうまく使われている。

なち それがええ、それがええ、体中花飾りの色男にすべえ、あげくに下の部落さ楽隊入りでねりこむべ。「今年も春がやってきた」と、「ようやく工藤充年様もほらんばか本来さたちかえった」と、一軒一軒ふれてまわるべえ。 (花を、ぼろの穴や、つぎあてのあいだに、さしこんだり、まきこんだりして飾りはじめる)
充年 (なすにまかせたまま) どうせだら、この面も、花でうずめてたもれ。両の眼さも、鼻の穴さも、口さも、花さしてたもれ。この面を、人前からかくしてたもれ。・・・・・・どうせだら、このシャッポにも、花一本さしてたもれ。工藤充年、気位いだけはあるのだと、花高くかざしてたもれ。

 官能の昇華は、カオスの混沌にまで高められる。

2006年8月17日(木)

矢代静一は、それぞれの作品で文体を書き分け、洗練された台詞まわしを持ち味とする、、変幻自在で多彩な劇作家である。ここでは一幕物の傑作『宮城野』を読んでみよう。

 『宮城野』

 登場はしないが宮城野と矢太郎とで取りざたされる東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師で、1974年にデビューし、およそ10か月の間に約140点の錦絵を描いて、その後消息を絶った謎の人物である。写楽が描いた歌舞伎役者の大首絵は、役者を美しく描くのではなく、その欠点をわざと強調するような個性的な描写に特徴がある。
 
ここからはわたしの推測だが、

 ・・・・・・東洲斎写楽は役者を描いた。
 役者といえば幻想と現実を行き来する。
 役者にとっては幻想が〈表〉の世界、現実が〈裏〉の世界だ。
 写楽はこの役者の〈表〉〈裏〉の二重性を描きたかった。
 だが写楽は、
 作品〈表〉は残っているが、
 素性〈裏〉ははっきりしない謎の人物だ。

 矢代静一はこうしたことに興味を持ち、伝説の謎に拮抗するために、登場人物に謎を持たせた。つまり、〈表〉と〈裏〉が交錯する芝居を書いた・・・・・・
 これはあくまでも私の想像だが、『宮城野』が、二人の登場人物の〈表〉と〈裏〉、つまり宮城野と矢太郎の建て前と本音が交錯する、逆転また逆転の筋立ての戯曲であることには間違いない。まずこの巧妙な劇作術がこの作品の注目すべきところである。

宮城野 ちょっとちょっと、そこの粋なおにいさん、あ、いま、こっちむいた、痩せっぽちの旦那でもいいや。あのね、暇な人、ちょっと、そこの番所まで、御注進にいっとくれよ。天下の浮世絵師東洲斎写楽をしめ殺したおっそろしい女が、ここにいるってね。ほれ、ほれ、ほれ、この絵が証拠だ。写楽の絵は、いい値になるんでね、盗みに入ったんだよ。そしたら、みつかっちゃってね、みつかっただけなら、まだいいんだけど、とんだ助平じいさんでね。許してやるから、帯ほどけっていうのさ。ま、七十近いお歳で、それだけ元気なのはなによりだけど、やっぱりねえ。そんなこんなで、組んずほぐれつ、からみあってるうちに・・・・・・お年のせいか、ふうっとあの世へ、行っちゃった・・・・・・。

 遊女の宮城野が、女郎屋の二階から通りをゆく人々に、呼びかけている台詞だ。つまり彼女は、写楽を殺した真犯人の若い男女を救ってやるため、自らその罪を背負おうとしているである。といっても、その若い男女が救うに足るほど純粋でもなければ、彼女にそうしなければならない義理があるわけでもない。従って彼女はここで、とりたてて感傷的になっているのでもなく、深刻なのでもなく、ましてや捨てばちになっているのでもない。言ってみれば、いかにも軽やかである。そして、この軽やかさの中に、この台詞の生命がある。
 彼女は、いわば「善意の人」である。しかし、無知なのではない。人々の嘘もたくらみも的確に見抜きながら、それに怒るより前に、そうせざるを得なかった人々の気持ちを、素朴に受け入れてしまうのである。それは、使命感でもなければ、深刻な原罪意識に基づくものでもなく、まるで条件反射のような軽やかな「善意」が、あらゆるグロテスクなものをろ過して、純粋にすくいとられている。そしてそこに、この「善意」の哀しさもある。

宮城野 つまるところあたい、あれが好きな女なんだと思うんです。あらら、あれっていっても、いやらしい意味じゃないわ、そんなしかめっつらしちゃいや。あれって、男の人に抱かれることじゃないのよ。あたいのいうあれというのはね・・・・・・むずかしいんだ、とっても。だって、自分でもよく説明できないほどだもん。

 矢代静一は女心の機微をとてもうまく表現する作家だ。
 宮城野は、男につくし、男の歓びの代償になる善意の人であり、可愛い女だ。ここでも宮城野は、言葉ではうまく表現できない〈生の歓び〉を軽妙に語っている。
 宮城野は江戸中期の岡場所の安女郎だが、矢代静一のカトリシズムを具現した聖女なのである。 

2006年8月1日(月)

 今秋上演する向原高校用の台本を完成させた。
 名づけて、『劇変・十二夜』。
 思えば、このシェイクスピアの『十二夜』という作品は、これで二回のお色直しをして上演することになる。初演が『12th Night』、再演が『中・高生たちの十二夜』、そして今回が『劇変・十二夜』である。
 主に高校生に見せるということで、今回は大幅にシェイクスピアの言葉遊びを取り入れ、それを現代的に書き直した。シェイクスピアといえば、語呂合わせ、言葉遊びの達人だが、残念ながら、翻訳ではそのほんとうの面白さが伝わらず、東京のどんな上手い俳優が演じても失笑をかうようなことが多々ある。そこで今回はだれにもわかるようにすべての語呂合わせを日本的にした。道化とマルヴォーリオのやりとりがじぶんでは一番うまくいったと思うが・・・・・・。ちなみにその箇所を抜粋すると、

道化 マルヴォリオの旦那か? どうして狂ったんだい?
マルヴォーリオ おれは正気だ。狂ってるのはあいつらだ。あいつらはこんなところにおれを監禁し、ばか神父を連れてきた挙句、おれを気違いあつかいにした。
道化 おいおい、そんなこと言っていいのかい。神父さん、この中のやつが神父さんの悪口を言ってますよ。 (神父に扮して) マルヴォーリオ、天がおまえを正気にもどしてくださるまで、ゆっくり静養しなさい。
マルヴォーリオ ・・・・・・神父様。
道化 (作り声で) この人と話したり、ラーメンを食べてはいけませんよ。 (地声で) ラーメン? どうしてですか?(作り声で) マルヴォーリオは面食いですから。 (地声で) わかりました。おいらは面食いじゃない。ラーメンもソーメンもニュウメンも食べません。 (作り声で) きっとですよ。 (地声で) はい。じゃあ、神父さん、さようなら。 (作り声で) おまえもな、アーメン!
マルヴォーリオ (怒鳴る) 道化、おい、道化!
道化 なんだい旦那、おれはあんたと話しちゃいけないことになってるんだ。
マルヴォーリオ 頼む。紙と明かりとペンとインクを持ってきてくれ。お嬢様に手紙を書く。
道化 手紙? 携帯持ってるだろ?
マルヴォーリオ 使えない・・・・・・
道化 どうして?
マルヴォーリオ 
(泣いて) トービーが水浸しにした。だから手紙を書く。持ってきてくれ!
道化 いいけどさ、あんたほんとに正気かい?
マルヴォーリオ 信じてくれ、ほんとに正気だ、嘘じゃない。
道化 でもなあ、正気か正気でないかは、頭割って脳みそでも見ないかぎり信じられんよ。カミとアー、カリとペー、ンとイー、ンクゥゥゥゥゥは持ってきてやるがね。
マリヴォーリオ 明かりとペンとインクと紙だ! 間違えるな!
道化 なんだその横柄な態度は! 人にものを頼んどいてそんな言い草ってあるか。「笑いの神様、道化のフェステ様、どうか手紙を書く道具を持ってきてください」と言え!
マルヴォーリオ わ、わらはのかみさん、ど、童貞のファスナー様、ど、どうか、手をみがいて、道具を持ってきてください。 
道化 こいつの頭の中はスラングしかない。やっぱり狂ってる・・・・・・(観客に)・・・・・・面食いとはさよならだ。


 さて、初演の時からそうだったが、『十二夜』を読んで気づくことは、そのメタシアトリカル(劇についての劇)な演劇性だ。そこで今回は、このメタシアトリカルな面を全面的に打ち出し、現実と芝居が錯綜するドラマに仕立て直した。幕開きは俳優たちの楽屋から始まり、大団円は夢とも現とも思えぬよう錯綜させて幕を閉めることにした。
 初演、再演とも、原作の持っている〈愛の激情〉を表現したくてしょうがなかったが、3度目にしてはじめて満足できるような表現ができたのではないかと思う。
 シェイクスピアさん、『劇変・十二夜』はあなたの書かれたものとは、似ても似つかない作品になりました。だが、いちばんシェイクスピアさんらしい作品になったのではないかと思っています。悪しからずご了承ください!
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