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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴19年の広島で活動した演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2006年4月28日(金)

 きのうのHASの講義は、伝統芸能の謡曲や狂言、一中節、河東節、常磐津節からはじまって歌舞伎の白浪五人男や仮名手本忠臣蔵などの実際の音声を聴くことにしたが、ゆうに2時間もかかってしまった。講義の終わりにひとりずつ謡曲の『清経』の数行を読んでもらったが、狂言の『昆布柿』を読んでもらったようには上手く読めない。いわゆる作品の固いガードを突き破ることができないのだ。もちろんHASのメンバーは伝統芸能の役者になるわけではないから、能の音声表現を求めているわけではない。能の特色を理解して、それを現代的に演じればよいのだが。
 能の特色とはなにか?
 それは、現在の視点から考えると、『清経』は劇の出だしからいきなりワキ(粟津三郎)がある歴史性を背負って登場するということだ(今流にいえば、とてつもなくテンションが高い)。『清経』にかぎらず能はすべてそうだ。だから講師としては、HASの演者がその歴史性を理解しているかいないかが音声表現の上手下手の判断になる。まるで話にならないほど幼稚な読み方をするのだ。
 これはどういうことかと言うと、例えば児童がはじめて文章を書くとき「朝オキテ顔ヲ洗イ学校ヘ行キマシタ、学校カラカエッテ友ダチト遊ビ、夕御飯ヲタベテ寝マシタと」いう時間の継続をはじめは逃れられないのとおなじように、現実の空間から劇的空間への移行、つまり幻想の世界に飛び込む表現としての高度な飛躍ができないからである。
 『清経』に描いてあるような内容は、2006年の現実でもウヨウヨある。例えばJR福知山線の列車事故なんて、何千人もの清経や清経の妻を生み出したことであろう。
 伝統芸能の歴史性には、現在の実存性をぶっつける。これしか伝統芸能以外の領域で活動する俳優には道はない。この確かな実存性で幻想の世界に突き進む。出来上がったものが能とはまったくかけ離れたものでもかまやしない。一子相伝の芸を受けつがないわたしたちにはそれしか方法はないのだ。
 そして、この『清経』をはじめ近松の『曽根崎心中』や『出世景清』などのさまざまな伝統芸能を学ぶことによって、演劇の新しいフォルムを創造する。これこそがわたしたちの急務であり、それをしなかったら、HASのメンバーが貴重な時間を使ってわざわざ古典芸能を勉強するなんてことは、まったく意味をなさない。

2006年4月27日(木)

 きょうは朝から日本の音を聴き続けた。O社の日本伝統音楽芸能研究会編の『日本の音』だ。木下順二さんの「おんにょろ盛衰記」を上演したときに購入したものだから、カセットテープだ。CDやMDのようにリモコン操作というわけにはいかず、いちいち手動で操作しなければならず、何度も巻き戻しや早送りをさせられたのには参った。
 だがこんな手間をかけて聴くほど、この全集は素晴らしい。狂言や能、浄瑠璃、歌舞伎の音が収録されているばかりか、説経節やごぜ唄やオラショーやユーカラまで聴くことができるのだ。例えば優れた文学作品を読み終わったときに、主人公の一生を体験したような気持ちになるものだが、この全5巻の音楽全集を聴き終えたとき、日本の音の歴史を体感でき、つくづくじぶんの無意識の中に日本人の血が連綿と流れていることを再発見した。
 さて、注文していた2008年に上演する芝居の関連本が届いた。いよいよ生活を想像のリズムに合わせなければならない。わたしは怠け者だから、いつも芝居の台本を書くときは、上演する題名を先に決め、それに関連する書物を購入して、じぶんをその路線に無理矢理追い込む。つまり台本制作から決して逃げられないようにする。思えば、今回の芝居はわたしにとって最大の難物だ。いったいどんな作品になるのか書く本人がまったくわかっていないからだ。
 芝居の題名は照明家の木谷幸江さんにだけは話した。言うまでもなくじぶん自身を絶体絶命に追い込むために・・・・・・。

2006年4月21日(金)

 きのうのHASの講義から劇編に入り、万葉集や古今集の和歌や蜻蛉日記や源氏物語の物語では受講者の目は精彩がなかったが、「ガラスの家族」や「十二夜」の芝居を体験した受講者には少しずつ輝きがもどってきたような感じがした。
 きのうの講義は演劇の定義づけに始まって、世阿弥の「風姿花伝」の歴史的意味を解説し、狂言の「昆布柿」までたどり着いた。HASのメンバーはローカルに住んでいるのでほとんどが狂言を実際の舞台で観たことがないので、わたしが素読みをして講義を終えた。
 ところがこの後、毎回のことだがHASのメンバーは有志が集まって講義後もじぶんたちで勉強会を開いているが、帰り際におかしな質問を受けた。それは、狂言「昆布柿」で、淡路の百姓と丹波の百姓が荘園の領主に貢物をした後に名前を問われ、淡路の百姓が「問うて何せう」丹波の百姓が「栗の木のぐぜんに、もりうたにたりうた、たりうたにもりうたに、ばいばいにぎんばばい、ぎんばばいにばいやれ」が名前だと答えるが、受講者の中にこんな名前はあり得ないと言い張るものがいるので、「これは名前ですよね」と念を押された。もちろんわたしは「そうだ」と答えたが、 不審に思った受講者の気持ちもわからないではない。
 かれらは「問うて何せう」や「栗の木のぐぜんに・・・」という名前が現実にはあり得ないと思うから、この狂言作者がどうしてこんな妙な名前にしたのだろうという想像の翼を広げることができないのだ。
 狂言とはなんだ?

 狂言は生々しい民衆の生活の象徴でもなければ、荘園の領主とその支配民の関係を写実したものでもない。あるがままに放任された生活民の、自己自身や他人との関係の仕方をあるがままに投げだしたというにすぎない。この昆布柿は、<ちぐはぐ>の面白さだ。領主は百姓の生活をしらず、百姓は領主の生活をしらない。そこに喰いちがいが生まれる。そして、この喰いちがいは、憎悪でもなければ、憧れや蔑みでもなく、じつに面白さ、滑稽さとしてあらわれる。この支配と被支配のあいだの関係の仕方としての面白さ、滑稽さは、被支配者が自己を、あるいは自己と他の被支配者との関係を、面白さ、滑稽さとして疎外していることを意味している。
 領主は
百姓に名前を問う。もし二人の百姓が「太郎」とか「次郎」とかの当たり前の名前、つまり生(なま)で答えたら、この狂言はたちどころに瓦解してしまう。狂言作者としては、劇の本質である<ちぐはぐ>を極限まで引き伸ばさなければならない。それには、質問自体の極限の答えである「問うて何せう」と、名前自体の極限の答えである「栗の木のぐぜんに・・・」という名前を二人の百姓に答えさせたのである。
 二人の百姓の名前がわかって、領主が例えばさっきの不審に思ったHASのメンバーのように、「ふざけんな!そんな名前があるものか」と怒っては芝居はそれで終わってしまうが、「昆布柿」の領主は名前に感じ入ってめっぽう面白がり、三人の掛け合いは永遠に続く。つまり、この「昆布柿」という芝居自体を永遠に終わらせない。
 この永遠性から狂言は民衆のフォルム(形式)を獲得したのではないかと、わたしは思っている。
 
2006年4月18日(火)

 HASのレッスンも今日で「源氏物語」を終えて早急に劇編に入らなければならない。
 「源氏物語」といえば、源氏が明石の流謫地で、夢に亡くなった帝が現れて流謫を解かれる夢告をうけるところがある。この箇所を読んでわたしはシェイクスピアの「ハムレット」の亡霊の場を想いだした。まるでそっくりなのだ。「ハムレット」では、ハムレットが友人のホレイショーから亡くなった父の亡霊が出現すると聞いて、真夜中に城壁を見張っていると、案の定、亡霊が現れて、じぶんは弟に毒殺されたと告げ復讐を命じる。「源氏物語」でも、夢ではあるが、亡き父院が現れて、源氏が流浪の身に気が弱り「死んでしまいたい」というと、「おまえが不運なのはなにかの報いだ。父がいいようにしてやるから、早くこの明石の地を立ち去れ」と告げる。以後ハムレットは事件の真相を突き止めるために奔走するし、源氏は流謫の身をとかれ栄達の道を歩く。
 「源氏物語」も「ハムレット」も、<貴種>が天上からの託宣によって、それを解かれるという説話系の典型的なパターンを物語っている。そして、これは東西を問わず、人間が作り出す物語が要のところでは同一であることを示している。 

2006年4月14日(金)

 わが愛する土井洋輝くんが、中村玉緒さん主演の「新いのちの現場から2」に出演した。中村玉緒さんも共演者の近藤正臣さんも、わたしも若かりし頃競演したことがあるが、二人はとても素晴らしい俳優だ。そんな素晴らしい俳優の中でドラマを体験できたことは、土井くんにとってとても有意義なことであったろう。
 中村玉緒さんで想いだすのは、NHKのある番組で競演したとき、当時のNHKの名物ディレクターWさんから内面にまで肉薄する演技指導をされながら、持ち前の素敵な笑顔で受け答えされていたのが印象的だった。当時でも中村玉緒さんは有名な俳優だったが、そのドラマに取り組む真摯な姿勢にはほんとうに頭が下がる思いがした。この真摯さこそが、中村玉緒さんが息の長い俳優として活躍できる原動力ではないかと思う。土井くん、ほんとうにいい俳優さんと競演できて良かったね。
 さて、土井くんは今、広島と大阪を行ったり来たりして大忙しだ。今日も大阪でオーディションで、あの温和な顔とちっちゃい体からは考えられないくらい超パワフルだ。そんな土井くんがHASの第2期生募集を見て、受けたがっているとか。
 藍より青く! 土井くんにはわたしが果たせなかった世界の俳優になってもらいたいな。きみなら、今の気持ちを持ち続けるなら絶対にできるよ! 

2006年4月10日(月)

 きのうN・A・Cタレントセンターの基礎科の連中に島崎藤村の「千曲川のスケッチ」を朗読させたが、これがみんななかなか上手い。朗読はイメージを転換させていく技術が必要だが、そのことを少し指導しただけでかなり読みこなせるようになった。
 芸術でもスポーツでもなんでもそうだが、指導者を燃えさせるのは、学ぶの人の心意気だ。この心意気を感じれば指導者はかれらをそれぞれの専門分野の未踏の領域にまで連れて行きたいと思うようになる。
 未踏の領域とはどういうことかと言うと・・・・・・
 ここに俳優を目指すが人がいるとする。発声や発音、アクセントをはじめ身体訓練や演技の関係性を教えれば、ある程度のレベルには達する。だがこれは野球に例えるなら、地区大会を勝ち抜き、県大会へ出場できる程度のものだろう。県大会を勝ち抜き、全国大会へ出場するにはある壁を越えなければならない。その壁を超えたものだけがいわゆる全国大会という未踏の領域を体感できるのだ。わたしはこの壁とは、指導者と学ぶ人の絶大なる信頼関係だと思っている。両者がいかに健全な信頼関係を築けるか?この師弟を超えた信頼関係を築き上げたものこそが勝利を手に入れる。
 基礎科の連中は、将来が楽しみな逸材揃いだ。いわゆる身体感覚が優れているばかりか不屈の心意気がある。心意気はひと目見ればすぐわかる。現在レッスンに精が出ないで怠惰な生活に溺れてしまっているなんてことはすぐわかってしまう。きっと基礎科の連中は学校や家庭でも真摯な生活を送っているのだろう。あとはわたしとしては演じる楽しさを教え、絶大なる信頼関係を築き、かれらを俳優の未踏の領域に連れていくだけだ。
 蛇足になるが、「誉めると停滞する」というのが世の常だ。わたしは良くも悪くも喜怒哀楽の激しい性格だから、これまでたくさんの人を包み隠さず誉めてきた。しかし、誉めたとたんにみんな努力をしなくなってしまった。これまでOさんもKさんもIくんも充分メジャーで通用する逸材だったが、わたしが誉めたとたんに失墜してしまった。今N・A・C広島にはこの基礎科をはじめ優秀な人材が揃っている。だからわたしの誉め言葉なんか、〈悪魔の囁き〉ぐらいに思って、弛まぬ努力を続けてほしい! 

2006年4月5日(水)

 2日の日曜にN・A・C広島在籍者全員の写真撮影、翌日から画像取込と処理に追われ、昨夜、やっと完全アップロードできたので、日記がご無沙汰になってしまった。
 早いもので今年も4月、HASを開講してから早一ヶ月が経過した。これで9回講義をしたことになる。昨日の講義は、俳優のスタンスの話をしてから、『蜻蛉日記』の音読をしたが、受講者が妙な読み方をするのには驚いた。『蜻蛉日記』を朗読する場合、いきなり原文となれば受講者が戸惑うと思って、原文の下に現代語訳を付け加えておいた。ところが、この現代文が読めないのだ。例えば、こんな文章だ。

 父は出て行くことができず、かたわらにあった硯箱に手紙を巻いて入れて、またほろほろと涙をこぼしながら出て行ってしまった。しばらくは、それを開けて見る気にもなれない。姿が見えなくなってしまうまで外を跳めていたが、気をとりなおして、にじり寄り、何が書いてあるのかと思って、開けて見ると、

 おそらくだれもが、なんだこんなの簡単!と思うかもしれない。だがこれを芸術表現として音声化するのはそう容易いことではない。音声化する技術に加え、読解力と歴史性が必要とされるからだ。それを以下に示すと、
 
 技術―句読点の意味を考える。句読点まで息を続けて読まなければならない。日本語は変なところで切ると途端に意味不明になる。いわゆる言葉を束にして読むのが日本語の朗読のコツ。
 読解力―ここは作者の父が陸奥国に赴任することになり、父娘の別れの辛さをつづりながら、父が書き残した手紙に作者が興味を持つ、というところである。この短い文章でも、、父の行動や作者の心情や行動がつぎつぎに転換されていっている。この転換を上手く音声化するには、素早いイメージの切り替えが必要になる。
 歴史性―受講生に読ませるとだいたいが早く読んでしまう。平安と現在とは生活速度が違う。それを考慮して読まないと、朗読によって平安のリアリティは表現されない。

 この現代語訳はS社刊行のもので、原文の句読点をなるべく変えないようにして忠実に訳している。だから、この現代語訳を理解すれば、原文を読めるようになるというのがわたしの狙いだ。原文はこうだ。

 え出でやらず、かたへなる硯に、文をおし巻きてうち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。見出ではてぬるに、ためらひて、寄りて、なにごとぞと見れば、

 『蜻蛉日記』をはじめ古典を上手く朗読できるようになるには、まず現代語訳で書かれてある内容や構成を理解してから原文にあたるのが早道である。そして、常に聞き手を想定して音読することが大切だ。野球選手が練習の練習では効果がなく、絶えず実践に即した練習をするように、俳優もレッスン中を本番だと思って朗読すれば、進歩は格段と早くなる。
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