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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴19年の広島で活動した演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2006年3月28日(火)

 近松の『碁盤太平記』が竹田出雲らの『仮名手本忠臣蔵』より劇的に優れている点を、〈どんでん返し〉という劇作法から見てみよう。
 『碁盤太平記』では、大星力弥が中間の岡平の挙動を怪んで手討にすると、岡平は斬られた息の下で、敵師直の屋敷にスパイとして入りこみ、油断させるため大星親子の放蕩ぶりを内通していたが、じつは、塩冶判官の家人の息子であると名乗って、大星父子に師直方の屋敷の見取図を教えて死ぬ。この岡平のどんでん返しの仕方は、近松の浄瑠璃概念にとって本質的なものである。すでに斬り殺されてゆく息の下でしか、スパイの二重性を名乗れない岡平の設定には劇的思想性がある。
 ところが、『仮名手本忠臣蔵』では、加古川本蔵は、塩冶判官の刃傷の際に、判官を制止した人物であり、その娘の小浪は、大星カ弥の許婚というように設定されている。母親の戸無瀬と娘とは、身を隠して住んでいる大星の家をたずね、夫掃の式をあげてくれとせがむ。力弥の母のお石は、加古川は敵の家来であり、その娘とは息子を一緒にできないといいはる。虚無僧姿の加古川がこの場面にやってきて、主君の仇も討たないで放蕩三味にその日をくらしている腰抜には、俺は討てまいと、故意に罵しってお石を挑発し、息子の力弥にわざと討たれて死ぬ。おなじみの忠臣蔵の名場面といわれるところだ。しかし、この〈どんでん返し〉は通俗的な悲劇であり、客受けを狙った泣かせ所にしかなっていないのだ。
 近松の『碁盤太平記』においては、中間岡平の些細な行為が人間関係を破壊し、死に至らしめることが、現実的にもありうるし、また理念としても正当であることがふまえられているのに、『仮名手本忠臣蔵』では武家的な倫理のやるせなさにたいする讃美はあっても、近松が劇的理念としてかんがえた思想はない。ただ、観客に喝采を浴びそうな、いわば観客に媚びた通俗的な泣かせ場にしかなっていないのだ。
 近松は2006年の上演にも耐えうる劇的思想性を持っている。だが、 『仮名手本忠臣蔵』は現在の上演に耐えられない。劇的に進化したわたしたちには、これはもはや劇とは言えないからだ。

2006年3月25日(土)

 HASのテキスト古典編もとうとう最終幕になり、今、竹田出雲らの『仮名手本忠臣蔵』のテキスト化に取り組んでいる。この『仮名手本忠臣蔵』は、近松の『碁盤太平記』をはじめ、さまざまな〈忠臣蔵物〉から影響を受けたもので、浄瑠璃だけではなく歌舞伎にもなっている。
 近松の浄瑠璃を読んで、その偉大さを知り、近世の劇概念の頂点を知ったわたしには、『仮名手本忠臣蔵』にどうしようもない劇概念の下降、いわゆる通俗に堕した印象を受けてしまう。なるほど『仮名手本忠臣蔵』は手が込んだ作品だ。だが、この度を越した作為性が、作品の質を台無しにしていることは否めない。『仮名手本忠臣蔵』は人口に膾炙し、現在まで上演され続けている人気狂言だが、作品の価値から見れば、近松の『碁盤太平記』にはるかに及ばない。ベストセラーが必ずしも作品的に価値が高いとはいえないように、竹田出雲らはあまりにも客受けを狙ったために、『仮名手本忠臣蔵』を下世話な通俗作品にしてしまっている。
 では、『仮名手本忠臣蔵』と『碁盤太平記』はどこがどう違うのか?
 その検証は次回に・・・。 

2006年3月22日(水)

 『堀川波鼓』のお種が密通にいたるのは、夫のいないときに熱愛する男ができたからといように通俗的には近松はけっして描かない。夫の相役床右衛門から横恋慕をされ、これを逃れるために、その場のとっさの思いつきで、日を改めて会う約束をしているのを、義子の鼓の師匠源右衛門に聴かれ、源右衛門の口を封ずるために茶碗酒をくみかわすうちに一線を越えてしまうのだ。この些細な言い逃れの積み重ねが〈不義〉〈密通〉に進展し、夫に問いつめられてお種は自害する。だから夫も、お種に憎しみをだくこともできないで妻のお種を自害に追いやり、女敵打にでかけて源右衛門を斬り殺す。
 このように近松は、お種のその場を逃れる行為の偶然性を積み重ねて、お種の自害、女敵打の殺し場までわたしたちをつれていく。「うまい」「流石」という半畳をいれたくなるほどだ。
 お種は侍の女房として設定されているが、描き方は町家的であり、遊女的でもある。近松が意図したのは、この町家的な、遊女的なお種の些細な作為が、自己展開して、武家の倫理や慣行法に触れるとき、無惨な殺し場に到達し、人間関係を破減に追いやるという悲喜劇であり、ここで重要なのは、お種のつまらない作為のつみかさねという一点に近松が着目したということだ。

 ではその箇所を原文で・・・。

 月さす縁に人音す・ヤアこれは源右衛門様・お前はどれへお越しと言へば・イヤ女中ばかりは遠慮に存じ・罷り帰ると、立ち出づる。袖を控へて・さては、お前は今の事御耳に入りたるかや・勿体なや、恐ろしや。彦九郎といふ男を持ち・真実にいふべきやうはなし。当座の難を逃れんため・騙して申した分のこと。御沙汰なされてくだされな・ひとへに頼み参らすと、手を合せて泣きければ・源右衛門も為方なく・いや聞いたでもなく、聞かぬでもなく・あまり側から聞きにくゝ、謡をうたひ、紛したり・申しても、易大事。拙者は他言いたすまいが・錐は袋と、外よりの・取沙汰は存ぜぬと、振り切り出づるを、縋り留め・さりとは酷い御言葉、御身様も若い殿・我も若い女の身。実のかうした事聞いても・隠し、隠すは世の情け。この分で往なせては・私心落ち着かず。言ふまいとある固めの杯・取り交してと、銚子を取り・濃茶茶碗にちやうと注ぎ・つゝと干して、また引き受け・半分飲んで、差しければ・こは珍らしいつけざしと、おし戴いて飲んだりけり・
 おたねもよほど酔ひはくる。男の手をしかと取り・コレこな様とても、主ある者のつけざしを・参るからは罪は同罪・何事も沙汰することはなるまいぞと、詰めければ・いやはや、かゝる迷惑と、飛んで出づるを、抱き付き・エヽあんまり恋知らず・さてもしんきな男やと、両手を回して男の帯・ほどけば解くる人心、酒と色とに気も乱れ・互ひに締めつ締められつ、思はずまことの恋となり・

 ※王ジャパンが世界一になった。日本選手の〈魂〉の活躍は素晴らしかったが、なによりも日本の野球が世界に認められたことが大の野球ファンには嬉しい! 今後はこの世界一を機に一刻も早くプロとアマの壁を取りのぞき、小学生の子供にまで裾野を広げてもらいたい。 

2006年3月17日(金)

 近松の優れている点は、人間の些細な行為を普遍性としてとらえ、これが近世の人間関係にとって本質的で重要だということを描ききったところにある。
 『曽根崎心中』でも、徳兵衛が金を主人に返しさえすれば、気にいらない養子縁組をやめて、馴染みの遊女お初と別れなくてもすむのに、その金を友人の九平次に泣きつかれて貸し、踏みたおされるという些細なことが発端で、それがお初との心中にまで発展する。取り返しのきかないことは、ただ友人だとおもって金を貸した相手の九平次が、紛失届をすんだ印で証文をつくり、それをたてにして返済しようとしなかった、という点だけにある。
 この些細なきっかけを心中という頂点まで引っ張ってゆく劇作法は、近松の専売特許で、不義・密通をあつかった『堀川波鼓』のような作品でも変わらない。
 さて、『曽根崎心中』は、遊女お初が天満屋に忍んできた徳兵衛をうちかけの裾に隠し、徳兵衛がお初の足先に死の覚悟を伝えるシーンが圧巻だが、こういう場面を支えているのが官能的な美しさがある語りの名文だ。HASのメンバーには、この近松の名文を無意識の領域にまで取り込む(つまり、近松の言葉を何度も何度も復唱し、この韻律を身体に染み込ませる)ことによって、今後の言語表現の助けにしてもらいたいと思っている。なぜなら、現在を演じる俳優にとって、言語の歴史性を学ぶことは必須の条件だからだ。例えば、ピカソの抽象画は、具象の修練からしか生まれなかったようにだ。
 それでは、近松の名文を・・・。


 この世のなごり・夜もなごり・死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜・一足づゝに消えてゆく・夢の夢こそあはれなれ・あれ数ふれば、暁の・七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の・鐘の響きの聞き納め・寂滅為楽と響くなり・鐘ばかりかは・草も木も・空もなごりと見上ぐれば・雲心なき、水の音、北斗は冴えて影映る、星の妹背の天の川・梅田の橋を鵠の橋と契りて、いつまでも・我とそなたは女夫星・かならずさうと縋り寄り・二人がなかに降る涙、川の水嵩も増さるべし・
 (中略)
 いつまで言うて詮もなし・はやはや、殺して殺してと、最期を急げば、心得たりと・脇差するりと抜き放し・サアたゞ今ぞ・南無阿弥陀 南無阿弥陀と・言へども、さすがこの年月、いとし、かはいと締めて寝し・肌に刃が当てられうかと・眼もくらみ、手も震ひ、弱る心を引き直し・取り直してもなほ震ひ、突くとはすれど、切先は・あなたへはづれ、こなたへそれ・二、三度ひらめく剣の刃・あつとばかりに喉笛に・ぐつと通るが、南無阿弥陀・南無阿弥陀、南無阿弥陀仏と・刳り通し、刳り通す腕先も・弱るを見れば、両手を伸ベ・断末魔の四苦八苦・あはれと 言ふもあまりあり・

2006年3月16日(木)

 朝刊で王ジャパンの韓国戦が昼からと確かめると、市立図書館に直行した。『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃本を借りるためだが、開館までにまだ10分ある。携帯に今月のスケジュールを打ち込んでいると、ほどなく開館。図書館は5冊しか借りれないので、2冊返し、3階に向かうと、わたしが探していた本があったと言われる。名前と顔を覚えていらっしゃったのも嬉しいが、手間隙かけて利用者の知識の習得を助けてくださったのには涙がこぼれるほど嬉しい。目的の『吉原はやり小歌総まくり』は、先日この人と一緒に探したが、江戸語の原本しか見つからず、活字本は東京出張のときにでも国立国会図書館で探そうと思っていた本で、高野辰之編『日本歌謡集成』の中にあった。
  だからきょうは雨なのに朝から清々しい。清々しいといえば、図書館ほど気持ちのいいところはない。利用者は無料で借りるのに、本を借りたときには必ず、「ありがとうございます」と返答がかえってきて、いつも恐縮してしまう。
 「夢見るためには、本を読まなければいけない」と言ったのは、ミシェル・フーコーだが、図書館は夢を見させてくれるばかりでなく、効率主義が介入しない、とても清々しい安息の場所だ。

2006年3月15日(水)

 世阿弥の謡曲から近松の浄瑠璃を読み進めてゆくと、ある変化に気づく。それは世阿弥の謡曲にくらべ近松の浄瑠璃がずいぶん読みやすくなったということだ。近松の浄瑠璃は、演じられる姿や、謡い、俗謡、鳴り物の音曲を想定しないでも、劇としてちゃんと読めるのだ。
 例えば最終場面の景清が自らの眼をえぐって盲目となるところなど、登場人物たちの息づかいまでが伝わってくる。
 
 かくて我が君御座を立たせ給ひければ・大名小名続いて座をぞ立ち給ふ・景清君の御後ろ姿をつくづくと見て・腰の刀するりと抜き、一文字に飛びかゝる・各々これはと気色を変へ、太刀の柄に手をかくれば・景清しさつて刀を捨て・五体を投げうち、涙を流し・ハツア南無三宝、あさましや・いづれも聞いて給はれ・かくありがたき御恩賞を受けながら・凡夫心の悲しさは昔に返る恨みの一念・御姿を見申せば、主君の敵なるものをと・当座の御恩ははや忘れ、尾籠の振舞、面目なや・まつぴら御免を蒙らん・まことに人の習ひにて心にまかせぬ人心・今より後も我と我が身をいさむるとも・君を拝む度毎に、よもこの所存は止み申さず・かへつて仇とやなり申さん・とかくこの両眼のある故なれば、今より君を見ぬやうにと・言ひもあへず差し添へ抜き、両の目玉をくり出だし・御前に差し上げて、スヱテ頭をうなたれゐたりけり・

 これを現在の台本形式にしてみると・・・・・・

 源頼朝席を立つ。大名小名も続いて席を立つ。景清深々と下げていた頭を上げ、頼朝の後姿をつくづくと見る。突然、景清は刀を抜き、頼朝に飛びかかる。一同は顔色を変え、太刀の柄をつかんで身構える。間。景清は刀を捨て、体を投げ出す。景清は涙ながらに

景清 おお、なんというあさましさ、過分の恩賞を受けながら、悲しいのは・・・消しても消しても・・・消えない昔の恨み・・・お姿を見れば主君の敵と思い出し・・・さっきのご恩を忘れて・・・無礼なことを・・・お許しください・・・まことにままならないのが人の心・・・今後も頼朝様を見るたび、恨みの気持おさまらず、かえって仇となってしまう・・・それもこの目があるため・・・なら、二度と見えないように・・・
 
 景清はそういうやいなや、脇差を抜いて両の目玉をえぐる。一同、景清の挙動を唖然として見る。景清は両眼を頼朝に差し出す。

 近松の浄瑠璃は人形劇だ。今ここでわたしが試みた台本は、人間が演じることを想定している。近松の浄瑠璃にはこういう「人間の劇にしたい」という意欲をそそるところがある。例えば、近松の『碁盤太平記』を下敷きにして竹田出雲らが改作し、それを人間の劇として完成したものが、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』である。

2006年3月11日(土)

 シェイクスピアと近松門左衛門。それぞれイギリスのルネサンスと日本の近世を代表する作家だ。シェイクスピアは、1564〜1616年、近松は1653〜1725年に活躍した。時代的には近松がシェイクスピアより後になるが、両者の劇作法はよく似ている。それは〈貴種流離譚〉を下敷きにし、それが近世的に変形しているということだ。例えば、シェイクスピアの『リア王』、近松の『出世景清』はまさしくそれだ。『リア王』は、すでにこのウェブサイト「演劇の世界」で紹介ずみなので省くが・・・・・・。
 日本の物語には、『竹取物語』以来、ひとつの典型的なパターンとして〈貴種流離譚〉というのがある。それは身分の高い天上的な主人公がどこからかやってきて、その土地でさまざまな事件や物語がおこって、最後にはそこを立ち去ってしまう、というものだ。
 『出世景清』では、平家の遺臣である景清は、源氏の支配下になっても、なんとか源頼朝を討とうと、追手を逃れながら機をうかがう。景清が熱田神宮の宮司のところへかくまわれているときに、そこの娘の小野姫と恋仲になる。だが、景清にはもともと阿古屋という子までもうけた女性がいて、その阿古屋が小野姫と景清との仲を嫉妬するあまり、兄と一緒に景清を源氏の追手に訴人してしまう。それがもとで景清は捕らえられる。
 この場合、奈良・平安以来の〈貴種流離譚〉だと、貴種が数々の流浪の地でそれぞれの女性と関係を結んでもタブーではない。『源氏物語』がいい例で、光源氏はいろいろな土地でいろいろな女性と関係を結ぶことによって物語は進行してゆく。
 ところがそういう〈貴種流離譚〉のパターンが、『出世景清』では、小野姫と阿古屋とのあいだで嫉妬感情がおこって、阿古屋が訴人して景清は捕らえられてしまう、というように変形してしまうのだ。
 この近世的変形こそ、近松の時代物浄瑠璃のひとつの本質であり、この本質を起点として近松はドラマをぐんぐんぐんぐんとクライマックスへ向けてゆくのだ。


2006年3月10日(金)

 近松門左衛門にとって劇的な概念とは、〈世話的〉なものだ。つまりそれは遊廓倫理であり、下層町民の現実と観念の分裂がもっとも集中的に現れる特殊な世界にほかならない。
 
例えば『世継曾我』では、「虎」「少将」が五郎・十郎の夜討の様子を語ってきかせる「虎少将十番斬」のような殺戮の場面を見せられたと思うと、それから話は一転して「虎」「少将」の賢女ぶりに場面は費やされ、頼朝の御台までが「まことに傾城白拍子は頼みすくなく偽り多しと聞きつるが。かれらが振舞ひ貞女とやいはん 賢女とやいふべき。かくとは知らで今までは。遊女はさもしき者と思ひ ゆかしきこともなかりしが。今さらかれらが有様を見て 傾城の恋路のいとなつかしく見まほしし」と「虎」「少将」を絶賛してしまうほどだ。そして最後には、「かくておいとまたまはりて 親子ともなひ立ち帰り。富貴の家となりにけり げにありがたき忠孝の。威徳は千秋万々歳 めでたかりともなかなか申すばかりはなかりけり」と、忠孝の栄華をたたえて終わる。

 『世継曾我』をはじめから読んできた者にとっては、「おいおい、こんな結末にしていいのか?」ということになり、何ともいえない奇妙奇天烈な世界を感じてしまうが、近世の近松の劇的な概念である〈世話的〉を考慮したら、当然の帰結かもしれない。

2006年3月8日(水)

「劇とはなにか。―古典編―」も佳境に入った。日本近世演劇の生みの親、近松門左衛門にたどり着いたからだ。きょうは朝から近松の処女作『世継曾我』を文字認識ソフトでコピー&ペーストをくりかえしながら読み込んだ。この『世継曾我』は、謡曲『夜討曾我』の浄瑠璃的改作で、HASのメンバーに、「劇とはなにか?」をわかってもらうためには、きってもきれない教材である。
 出色は、やはり曾我兄弟が馴染んだ、それぞれの白拍子「虎」と「少将」の変身のくだりだ。五郎、十郎を待ちわびて病み臥っている母に、「虎」と「少将」が十郎、五郎の夜討の出立ちをして、五郎、十郎が只今本懐をとげてもどったと嘘をついて、二人して夜討の模様を語ってきかせる。この変身の場こそ、浄瑠璃の浄瑠璃たるゆえんであり、近松の限りない想像力が飛躍しているところだ。
 では、能書きはこれくらいにして、近世演劇の金字塔の箇所を原文で。
 
 「まことにおのおのの御事も かねがね聞きは及びしが。聞きしにまさる人々の心中。返す返すも頼もしけれ。もつとも母君に逢はせたう候へども。兄弟を恋ひわびて 今をかぎりに候に。かくと知らせしものならば なかなか命も候まじ。さりながら おのおの望言むげになしがたし。さていかがせん 何とか」と。しばし思案したまひしが。「オオ思ひつきたり」ありし世の。形見の烏帽子直垂を。虎少将に打ち着せて「しばらくこれにましませ」と。中門にたたずませ 
ヲクリやがて 奥に。走り入り「なう兄弟こそ敵を討ち 祐成帰りて候は。時宗帰りて候」とまことしやかにのたまへば。重き枕をかろがろあげ「なに兄弟が帰りしとや。さてもさてもうれしやな とくとくこれへこれへ」とて。身のいたはりも打ち忘れ 勇みたまふぞあはれなる。

 ※原文は歴史的仮名遣いの繰り返し文字が使われています。

2006年3月6日(月)

HASのテキストは、文字認識ソフトを活用して作成しているが、『夜討曾我』は文庫本だったので文字化けが多く、ほとんどが手打ちになってしまった。
 『夜討曾我』の劇的な意味は、〈間〉の変化にある。例えば、修羅物の『清経』や鬘物の『東北』では〈間〉が由来譚として語られるが、『夜討曾我』では曾我兄弟の夜討に出会った工藤祐経の護身役である大藤内と、それを追って逃げてくる侍との掛け合いで劇がすすめられてゆく。つまり、そこはもはや由来譚ではなく、夜討の様子が現在形で、「某もよもやこれほどの事はあるまいと思うたれば、何者が手引をしたやら、今夜彼の兄弟の者が狩場へ忍び入つての」というように語られる。これは劇的表現の飛躍を意味していて、<間>も劇的構成のひとつの必然的な要素になっている。
 
『夜討曾我』で面白いのは、やはりこの〈間〉の大藤内と侍の掛け合いだ。大藤内が女の小袖を引っ掛けて登場するというのも劇的なふくみがあるし、一連の恐怖の中に、人間の弱さや騙しやずるさが盛られていて、笑いを誘われる。
 嗚呼、こういう笑いを演じられるようになると、俳優もひと皮向けるんだがなあ・・・・・・。

2006年3月2日(木)

 月が変わった。きょう32日という日を記念の日にできたらいいと思う。なぜならHASの開講初日だったからだ。定員20名の半分しか集まらなかったが、この広島の地なら10名も集まったのを喜ぶのが自然かもしれない。                               
 HASの入講条件のひとつに「俳優になりたい理由」を原稿用紙に書くということがあったが、講師としてはその問いに答える義務がある。きょうの講義はそこから始った。  
 およそ演劇とか、文学とか、美術とか、芸術というものは自己慰安からはじまる。もちろん俳優もそうだ。つまり、なぜ俳優をするのか? と問われたら、「じぶんを慰めるため」と答えるだろう。はじめは、それはそれでいい。ところが、そうして自己慰安からはじまったものが、あるとき「じぶんでじぶんを慰めているだけにすぎないじゃないか」ということに気づき、自己慰安から少し離れて、形式的にも、内容的にも、じぶんでじぶんから離すことができるようになってくる。それと同時に、他人がそれを見て、どう判断するか、どうわかってくれるかという形式とか様式をだんだん持つようになってくる。そうなればしめたもので、それからは俳優を志向する者は、じぶんが確固とした俳優の形式や内容を獲得するために、ひたすら修練していくことになる。
 きょうから2年間はあっという間に過ぎてゆくだろう。講師が〈内容と形式〉をさらに深めてゆくのか。それとも受講者が講師の上をゆく〈内容と形式〉を獲得するのか。これはまったく平等な闘争である。ただし、「天は修練を積んだものにしか微笑まない」ということは勝負の前からわかっているが・・・・・・。
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