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三澤憲治の演出日記
◇俳優歴13年、演出歴21年の広島で活動する演出家、三澤憲治の演出日記 三澤憲治プロフィール
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2008年3月19日(水)

 『源氏物語』を訳す場合、主語はだれかということが問題になる。
 この問題をわかってもらうためには、原文は欠かせないので、原文と私訳とを交互に紹介して述べていくことにする。
 
〔原文〕
 春宮も、一たびにと思しめしけれど、もの騒がしきにより、日をかへて渡らせたまへり。

 ここの主語はもちろん春宮(東宮)である。だから訳では、

 
東宮も、(帝と)一緒にと思われたが、大変な騒ぎになるので、日を変えて出かけられた。(私訳)

 となる。次の、

 御年のほどよりは、おとなびうつくしき御さまにて、恋しと思ひきこえさせたまひける積もりに、何心もなくうれしと思して見たてまつりたまふ御気色いとあはれなり。

 も、主語は東宮である。だから訳では、

 
(東宮は)実際の年齢(五歳)よりは、大人びた可愛らしい感じで、ふだんから(院に)会いたいと思っていらっしゃったので、嬉しくてたまらず(死期が近づいているのも知らないで)無邪気に(院を)ご覧になっている様子はほんとにいじらしい。(私訳)

 となる。
 さて次の文章が、今日取り上げる問題の箇所である。
 原文はこうなっている。

 中宮は、涙に沈みたまへるを、見たてまつらせたまふも、さまざま御心乱れて思し召さる。

 中宮は、とあるのだから主語は中宮のはずだが、古典学者の訳ではほとんどが主語を院にしている。
 例えばこんなぐあいだ。

 院は、中宮が涙に沈んでいらっしゃるのを拝見あそばすにつけても、あれこれお心も千々(ちぢ)に乱れておいでになる。(小学館訳)

 ほんとうに古典学者が言うように主語は院なのだろうか?
 わたしには、院を主語にした場合の、「さまざま御心乱れて思し召さる」という気持ちがどうしても実感としてわかない。
 古典学者たちはおそらく、「見たてまつらせたまふも」という超敬語表現を安易に受け入れて、主語を院にしたのだろう。
 わたしはちがう。主語はあくまでも中宮である。
 なぜなら、
 藤壺中宮にとって東宮はじぶんと源氏との間にできた、いわゆる不義の子である。この事実は決して院に知られてはならないし、もちろん東宮に明かすわけにもいかない。それに藤壺中宮は今なお源氏との関係に悩まされている。院はこのことをまったく知らないし、東宮にいたってはなにもわからず、ひたすら院を父親だと思って慕っている。
 ここには書かれてはいないが、この席には源氏も同席しているのが後の文章でわかる。
 つまり中宮は、わが子の出生に悩み、院への隠し事に悩み、源氏との関係に悩むばかりか、死が迫っている桐壺院の病状に悩み、院という大きな後ろ盾をなくした後の東宮の将来について悩むので、「さまざま御心乱れて思し召さる」のだと思う。
 わたしの訳では次のようになった。

 
(藤壺の)中宮は(そんな東宮をご覧になって)涙に沈んでいらっしゃるが、(その様子を帝が)ご覧になってると思うと、さまざまに心が乱れてしまわれる。(私訳)

 高校生にもわかるように原文にない言葉を()で補足しているが、論理の整合性はあると思う。

2008年3月14日(金)

 先行の『源氏物語』の現代語訳は、女性が訳したもの、男性が訳したものとさまざまだが、えてして女性が訳すと、物語の女性の苦悩を表現したいあまりに原作から逸脱してしまうことが時としてある。
 そんな例をここに紹介してみる。原文ではこうなっている。
 
 月も入りぬるにや、あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。

 これを瀬戸内寂聴さんはこう訳している。

 月も入ったのでしょうか。物思いをそそる空を眺めながら、源氏の君が切々とかき口説かれるのをお聞きになっていると、御息所は、この年月お胸にたまりにたまっていらっしゃった恨みも、お辛さも、たちまち消えはててしまわれたことでしょう。

 また、与謝野晶子さんはこう訳している。

 もう月が落ちたのか、寂しい色に変わっている空をながめながら、自身の真実の認められないことでく源氏を見ては、御息所の積もり積もった恨めしさも消えていくことであろうと見えた。

 これらに対し、わたしはこう訳した。

 月も(山の端に)入ったのだろうか、(源氏の君は)心に染みる空を眺めながら、(恋の)恨み言をおっしゃっているうちに、これまで胸にたまっていた辛さも消えていくようである。

 二人の女性作家とわたしとが違うのは、二人が御息所の心の内を表現しているのに対し、わたしは源氏の君の心の内を表現しているということだ。
 どちらが原文に忠実な訳かは、原文を考察すればすぐにわかる。
 
 月も入りぬるにや、

 と、紫式部はまず情景描写をしてから、視線を源氏の君に移し

 あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、

 と、源氏の行動や言動を描写し、

 ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。

 と、最後に源氏の心境を表現して文を閉じる。
 わたしはこう理解した。
 『源氏物語』の文章は難解と言われるが、難解にしているのは先行の訳者たちだ。素直に訳せばいいのに、じぶんの思想に引きつけて訳すから、難解になってしまうのだ。
 『源氏物語』の原文はちっとも難しくない。わたしは俳優の経験があるからよくわかるが、『源氏物語』は気持ちいいくらいにスラスラ読める。
 清少納言しかり、吉田兼好しかり、近松門左衛門しかり、名文は思わず声に出して読んでみたくなるものだ。

 紫式部はこの源氏の感情描写の後に、御息所の感情を描写する。
 原文は、

 やうやう、今はと思ひ離れたまへるに、 さればよと、なかなか心動きて思し乱る。

 わたしの訳ではこうなる。

 (一方御息所は)
〈今度こそは〉  
 と(源氏の君から)離れる決心をされていたのに、
〈やはり(心配していたとおりだ)〉  
 と、(逢ったがために)かえって心が動揺して(恋の想いに)悩まれる。

 つまり紫式部は、この二つの文章で源氏の気持ちと御息所の気持ちとを公平に表現している。どちらかに重点を置いて書いているのではない。
 これは紫式部の描写の特徴で、
 Aさんはこう思う。
 しかし
 Bさんはこう思う。
 と必ず相対するものを書くことを忘れない。これが『源氏物語』の深さの一つでもある。
 作者は書いていないが、この後源氏と御息所の不協和音は消え、つかの間のエクスタシーを合奏する。
 その伏線がこの箇所である。

※わたしの訳で〈〉で表現しているのは、登場人物の心の中です。こういう手法を用いたのは、長文の苦手な若い方にも読んでもらいたいからなのです。高校生の皆様、食わず嫌いをせずに、ぜひこの古典の名作に親しんでみてください。

2008年3月10日(月)

 『源氏物語』をこのペースで訳し続けたら、いったいいつ、わたしの現代語訳は完成するのだろう?
 そう思ったので、以下のような計画表を作ってみた。

2008年 3月 9 葵   10 賢木 
4月 10 賢木  11 花散里 
5月 12 須磨 13 明石
6月 14 澪標 15 蓬生 
7月 16 関屋  17 絵合
8月 18 松風 19 薄雲 
9月 20 朝顔  21 少女 
10月 22 玉鬘 23 初音 
11月 24 胡蝶  25 蛍 
12月 26 常夏 27 篝火 
2009年 1月 28 野分 29 行幸
2月 30 藤袴  31 真木柱 
3月 32 梅枝  33 藤裏葉
4月 34 若菜上 35 若菜下 
5月 36 柏木  37 横笛 
6月 38 鈴虫  39 夕霧
7月 40 御法 41 幻 
8月 42 匂兵部卿 43 紅梅 
9月 44 竹河  45 橋姫 
10月 46 椎本 47 総角
11月 48 早蕨 49 宿木
12月 50 東屋 51 浮舟 
2010年 1月 52 蜻蛉 53 手習 
2月 54 夢浮橋

 月に2巻ずつ訳していくと、2010年の2月に完成することになる。
 有言実行しなければならないのは当然だが、
まさしく、「死にに行くぞ!」と、42.195キロメートルを走るマラソンランナーの心境である。
 思えば、昨日の名古屋国際マラソンでの高橋尚子選手の奮闘にはほんとうに頭が下がった。半月板の除去手術をしながらあそこまで走るのだから、彼女はやはり只者ではない。
 「涙の数だけ強くなる」とは同じマラソンランナーの土佐礼子さんのキャッチフレーズだが、『源氏物語』は光源氏の涙の数だけ深くなる。『源氏物語』54帖を訳し終えたら、きっと別天地が見えてくることだろう。

2008年3月1日(土)

 NHKのドキュメンタリーは、演劇を考える上でとても参考になるので、時間の許すかぎりは観ることにしているが、昨夜のNHKのプレミアム10「挫折と栄光・世界を変えたアスリートたち」は、出色の出来だった。
 コマネチの10点満点達成の秘話、有森裕子の高地トレーニング、塚原の月面宙返り、鈴木大地のバサロ泳法、そしてアメリカの陸上選手の史上初の走り高跳びの背面跳びなどの内容の素晴らしさは言うまでもないが、わたしが関心したのは、二人のキャスターだ。
 森末慎二さんと益子尚美さんが担当していたが、この二人がじつにうまい。二人は元スポーツ選手なので、二人の話す言葉には存在感がある。しかしその存在感を二人は程よくオブラートに包み、歴史に燦然と輝くアスリートたちを讃えることに終始する。
 これがいい! 
 最近、スポーツ番組でスポーツのわからないアナウンサー・キャスター・俳優・グラビアアイドルなどがしゃしゃり出て、スポーツ選手の苦悩や感動を、つまらないじぶんたちの日常のレベルに引きずり下ろして、スポーツ選手の偉大さを台無しにしてしまう場面をたびたび味わってきたわたしには、まさに溜飲が下がる思いだった。
 わたしがこんなに気持ちよくドキュメンタリーを見れたのはなぜか?
 それはドキュメンタリーの進行をスポーツ体験者にまかせていたからである。ナレーションはNHKの局アナがやっていたが、現在の場面に登場するのはこの二人と、ゲストの有森裕子さんだけ。つまり、スポーツの苦悩や挫折や感動を実際に体験している者しか現在の場面にはいなかったからである。
 まさに番組のコンセプト同様、〈常識をくつがえした〉内容に感動した。
 それから、もうひとつ驚いたのは、益子尚美さんの話し方や表情である。本人はきっと無意識でやっていると思うが、テレビという媒体の理にかなった表現をされていた。いやそればかりか言い知れぬ色気まであって画面がパッと華やいでしまうのだ。
 これにはほんとうに驚いた。
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