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2010年10月5日(火)
京都で女郎花を撮影していた時、中年の二人ずれの女性がこんなことを言って通り過ぎた。
「薫って源氏の子ではないでしょ、『源氏物語』って人間関係が複雑すぎるのよ」
わたしはこの言葉を聞いて唖然とした。すぐに、
「源氏の人間関係なんて単純だよ」
と言ってあげたかったが、言葉を飲んだ。なぜなら、彼女たちは女郎花の隣に咲いている満開の萩の花を観賞することもなく通り過ぎたからだ。旬の花を愛でる気持ちがない者に、『源氏物語』の話をしたってしょうがない。
言うまでもなく『源氏物語』の人間関係は単純である。複雑なのは登場人物の心理である。おそらく成金のおばさまたちは、この複雑な心理についていけないのだろう。
昨夜、NHKのクローズアッブ現代「男、ひとり残されて」を見た。妻に先立たれた男たちのドキュメントだった。俳優の仲代さんもその一人で、
「(妻に先立たれた)悲しみとともに呆然と立ちすくみ、手足をもがれたような、どうやって生きていったらいいのか、後追いもあるかなと考えた時期もある」
と語っていた。
わたしはすぐに『源氏物語』の幻の巻を思い浮かべた。
幻の巻で紫式部は、最愛の人紫の上に先立たれた光源氏の孤独と悲哀、そして無力さを徹底的に描いている。権勢を極めた美しき光源氏の姿はもはやここにはない。まるで痴呆者のように孤独と悲哀に押しつぶされている無残な姿しかない。
「ここまで書かなくてもいいのに」
と思っていたが、「クローズアップ現代」を見て紫式部の真意がわかった。
ここまで書いたからこそ現在にも通じる普遍的な作品になりえたのだ。
紫式部の凄まじいまでの先見の明には、ただただ驚くばかりである。
2010年10月1日(金)
キルケゴールの「反復」を持ち出すまでもなく、人生は反復だ。
50数年前昆虫採集に夢中だった少年は、還暦を過ぎた今、捕虫網をカメラにかえて「源氏物語の花木」を撮っている。
「こどもの頃とひとつも変わってないな」
と、つくづく思う。
わたしの気持ちは変わっていなくても、世の中の環境はおおいに変わった。
「源氏物語」の花は、わたしの少年時代には近所のあちこちで咲いていたのに、今はほとんど見かけない。もちろん花屋に行けば見ることはできるが、キキョウでもナデシコでもほとんどが品種改良されたものだから、少年時代に見たあの素朴な美しさはない。わたしにはどうしても「作り物」に見えてしまう。
だからどうしても山や野を歩いて探すしかないのだ。
ところが先日、紙屋町の交差点の近くで露草が群生していた。
〈こんな街のど真ん中に露草が生えているのか〉
と感動し、さっそく撮影した。
ところが、しょせんは街中の露草。
わたしが以前宇品自然公園で撮った露草と比べると、その緑の色艶で劣ってしまう。このサイトにアップするわけにはいかず、仕方なくすべてのデータを削除した。
このように悲喜こもごも「源氏物語」の花を撮影しているが、先日の京都での撮影では満開の萩の花が撮れた。
萩の花といえば、画家の岡本太郎の母である岡本かの子が好んだ花だ。彼女の言うように、慎ましく上品な、運命に従順な萩は、どことなく『源氏物語』の紫の上に通じるものがある。
◇萩の花のムービーはこちら
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