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●外来語は使わない |
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『源氏物語』は一挿話の中でハタと止まってしまい訳すのに苦労する箇所が必ず出現する。そう不思議なことに必ずそういうところがあるのだ。
明石第十段では次のような箇所である。
手のさま書きたるさまなど、やむごとなき人にいたう劣るまじう上衆めきたり。
これは、源氏の君から恋文をもらった明石の君が、あまりの身分の違いのためにからかわれてると思って、じぶんでは返事も書きたくないのだが、まわりから催促されるので、仕方なく香を深くたきしめた紫の紙に墨つきも濃淡をつけて書いた和歌のことを評しているのだが、先行の訳では次のようになっている。
①筆跡や言葉遣いなど、都の高貴な女人に比べてそうひけをとるまいと思われる貴なる女といった感じである。(小学館訳)
②その筆跡のうまさや、歌の出来ばえなどは、都の貴族の姫君にも、それほどひけは取りそうになく、高貴の姫君めいています。(瀬戸内寂聴訳)
③筆跡の具合や歌の出来ばえなど、都の身分の高い女性にもそうひけは取りそうになく、いかにも貴婦人らしい感じだ。(新潮社訳)
三様の訳では、原文の「書きたるさま」を明石の君が詠んだ歌の言葉使いや出来栄えというふうに理解して訳しているが、ほんとうにそうなのだろうか?
三様の訳なら紫式部は「言の葉」などの言葉を使うはずで、わたしにはどうしても深読みのように思われて仕方がない。
そこで明石の君の歌を何度も読んでみた。
思ふらん 心のほどや やよいかに まだ見ぬ人の 聞きかなやまむ
(想ってくださるあなたの気持ちはどの程度でしょう わたしを見たこともない人が噂だけで悩まれるのでしょうか)
この歌は、源氏の君の
いぶせくも 心にものを なやむかな やよやいかにと 問ふ人もなみ
(うっとうしい気持ちで悩んでいます どうしたのかと尋ねてくれる人もいなくて)
という歌の返歌である。二つの歌を比較するとわかるが、明石の君は源氏の君の問いかけに対して、和歌の形式をふまえて忠実に答えたにすぎず、けっして出来栄えのいい歌でもなんでもない。この歌から感じられるのは、明石の君の身分差をわきまえた、けっして源氏には簡単にはなびかないという強い意志だけである。
こんなことを何時間もかけて考えていたら、ハタと思い当たった。それは原文の
浅からずしめたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして、 である。
私訳では、「香を深くたきしめた紫の紙に、墨つきも濃淡をつけて、」となるが、これが訳の決め手になると思った。
つまり「書きたるさま」とは、明石の君が文字に濃淡をつけて書いたように、彼女の美的センスを言っているのだと。
「書きたるさま」を直訳すれば、「書いてある様子」だ。
「書いてある様子」とはなんだ?
わたしは文字の配置の仕方とみた。今流に言えば、明石の君は五七五七七の文字を素晴らしいレイアウトで書いていたのだと思う。だからわたしの訳ではこうなった。
文字の上手さや歌の文字の配置の仕方など、身分の高い人と比べても見劣りがせず上流といった感じである。
「文字の配置の仕方」などとまだるっこしく訳さずに、すんなり「レイアウト」と訳したいところだが、いくら現代語訳といっても外来語を使うのは卑怯だと思うので使わない。先行の訳と比べると美しさに欠ける拙い訳であるが、自己責任を果たしたので満足している。
言うまでもなく、芸術や芸能は自己慰安からはじまり、それが使命に変わり、最終的には自己責任で完結するものだからである。 |
三澤憲治 |
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