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●紫式部の相対描写 |
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先行の『源氏物語』の現代語訳は、女性が訳したもの、男性が訳したものとさまざまだが、えてして女性が訳すと、物語の女性の苦悩を表現したいあまりに原作から逸脱してしまうことが時としてある。
そんな例をここに紹介してみる。
原文ではこうなっている。
月も入りぬるにや、あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。
これを瀬戸内寂聴さんはこう訳している。
月も入ったのでしょうか。物思いをそそる空を眺めながら、源氏の君が切々とかき口説かれるのをお聞きになっていると、御息所は、この年月お胸にたまりにたまっていらっしゃった恨みも、お辛さも、たちまち消えはててしまわれたことでしょう。
また、与謝野晶子さんはこう訳している。
もう月が落ちたのか、寂しい色に変わっている空をながめながら、自身の真実の認められないことで歎く源氏を見ては、御息所の積もり積もった恨めしさも消えていくことであろうと見えた。
これらに対し、わたしはこう訳した。
月も(山の端に)入ったのだろうか、(源氏の君は)心に染みる空を眺めながら、(恋の)恨み言をおっしゃっているうちに、これまで胸にたまっていた辛さも消えていくようである。
二人の女性作家とわたしとが違うのは、二人が御息所の心の内を表現しているのに対し、わたしは源氏の君の心の内を表現しているということだ。
どちらが原文に忠実な訳かは、原文を考察すればすぐにわかる。
月も入りぬるにや、
と、紫式部はまず情景描写をしてから、視線を源氏の君に移し
あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、
と、源氏の行動や言動を描写し、
ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。
と、最後に源氏の心境を表現して文を閉じる。
わたしはこう理解した。
『源氏物語』の文章は難解と言われるが、難解にしているのは先行の訳者たちだ。素直に訳せばいいのに、じぶんの思想に引きつけて訳すから、難解になってしまうのだ。『源氏物語』の原文はちっとも難しくない。わたしは俳優の経験があるからよくわかるが、『源氏物語』は気持ちいいくらいにスラスラ読める。
清少納言しかり、吉田兼好しかり、近松門左衛門しかり、名文は思わず声に出して読んでみたくなるものだ。
紫式部はこの源氏の感情描写の後に、御息所の感情を描写する。原文は、
やうやう、今はと思ひ離れたまへるに、 さればよと、なかなか心動きて思し乱る。
わたしの訳ではこうなる。
(一方御息所は)
〈今度こそは〉
と(源氏の君から)離れる決心をされていたのに、
〈やはり(心配していたとおりだ)〉
と、(逢ったがために)かえって心が動揺して(恋の想いに)悩まれる。
つまり紫式部は、この二つの文章で源氏の気持ちと御息所の気持ちとを公平に表現している。どちらかに重点を置いて書いているのではない。
これは紫式部の描写の特徴で、
Aさんはこう思う。
しかし
Bさんはこう思う。
と必ず相対するものを書くことを忘れない。これが『源氏物語』の深さの一つでもある。
作者は書いていないが、この後源氏と御息所の不協和音は消え、つかの間のエクスタシーを合奏する。
その伏線がこの箇所である。 |
三澤憲治 |
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