『源氏物語』参考文献
『長恨歌』現代語訳
『古事記』現代語訳
『源氏物語玉の小櫛』現代語訳
『和泉式部日記』現代語訳
『和泉式部集〔正集〕』現代語訳
『和泉式部集〔続集〕』現代語訳
『赤染衛門集』現代語訳
『清少納言集』現代語訳
『藤三位集』現代語訳
『蜻蛉日記』現代語訳
『枕草子』現代語訳
『和泉式部日記』
〔一〕
 夢よりもはかない男女の仲、亡くなった宮さま為尊親王ためたかしんのう)のことを悲しみ、思い悩みながら夜を明かして暮らしているうちに、四月十日過ぎにもなったので、木の下は葉が茂ってしだいに暗くなってゆく。築地(ついじ・土塀)の草が青々としているのも、誰も特に目もとめないけれど、わたしがしみじみと眺めているときに、庭先の垣根ごしに人の気配がしたので、
〈誰だろう〉
 と思っていると、亡くなった宮さまにお仕えしていた小舎人童
こどねりわらわ)だった。  
 しみじみと物思いにふけっていた時に来たので、
「どうして長い間来なかったの。遠ざかってゆく昔のゆかりともあなたを思っているのに」  
 などと取次に言わせると、
「これといった用事もないのに訪問するのは、馴れ馴れしいのではと、遠慮しているうちに、この頃は山寺詣でに出かけていましたから。宮さまがお亡くなりになってとても頼りなく、所在なく思われますので、宮さまのお身代わりにお仕えしようと、帥宮さま
(為尊の同母弟、敦道親王 冷泉院の第四皇子。太宰帥のため帥宮・そちのみやと呼ばれた。二十三歳)のところへ参上してお仕えしています」  
 と語る。
「それはとてもよいことのようね。でも、その宮さまは、 とても上品で気取っていらっしゃるって聞いてるわ。前の宮さまのようではないでしょう」  
 などと言うと、童は、
「そうではいらっしゃいますが、わたしには親しそうになさって、
『いつもあちらへ伺うのか』
 とお尋ねになって、
『伺います』
 と申し上げると、
『これを持って行って、どうごらんになりますか、と言ってさしあげなさい』
 とおっしゃいました」
 と言って、橘の花を取り出したので、
「昔の人の
(五月(さつき)まつ 花橘(はなたちばな)の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする[古今集・読人しらず])」  
 と思わず口から出て、童が、
「では帰ることにしましょう。どうお返事申し上げましょうか」
 と言うので、口づてにお返事するのも失礼な感じがして、
〈まあ、いいわ。宮さまは浮気な評判はまだたっていないのだから、歌くらいさしあげたって〉  
 と思って、

薫る香
(か)に よそふるよりは ほととぎす 聞かばやおなじ 声やしたると
(橘の香りに亡くなった方を偲んでいるよりは あなたのお声を直接お聞きしたい お兄さまと同じお声なのかどうか)  

 とお返事を申しあげさせた。 宮がまだ縁先にいらっしゃったときに、この童が物陰でなにか言いたそうな素振りをしたのを見つけられて、
「どうだった」  
 とお聞きになるので、お返事をさし出すと、宮はごらんになって、

おなじ枝
(え)に 鳴きつつをりし ほととぎす 声は変はらぬ ものと知らずや
(わたしと兄は同じ枝に鳴いていたほととぎすのようなもの 兄と声は変わらないとご存じではないのですか)

 とお書きになって、童に渡されるときに、
「こんなことは、けっして人に言うな。遊び人みたいに思われるからな」  
 とおっしゃって、奥にお入りになった。  
 童が宮の返事を持って来たので、
〈素敵〉
 と見たが、
〈手紙がくるたびに返事を出すのもどうか〉  
 と思って、お返事は出さなかった。 宮は、一度手紙をくださると、また、

うち出ででも ありにしものを なかなかに 苦しきまでも 嘆く今日かな
(わたしの気持ちを告白しなければよかった 打ち明けたばかりに かえって恋しさがつのり 苦しいほど嘆いている今日です)

 と詠んでこられた。もともと思慮深くない女で、なれない寂しさでどうしようもなく辛かったので、こんなちょっとした歌にも目がとまって、お返事を、

今日のまの 心にかへて 思ひやれ ながめつつのみ 過ぐす心を
(そのたった一日の嘆きに比べて想像してください 兄宮さまを失ってから ずっと物思いの日々を送っている わたしの心を)
〔二〕
 こうして、宮からたびたびお手紙があり、お返事も時々はさし上げる。寂しさも少しは慰めらる気がして過ごしている。 また宮からお手紙がある。言葉などいくらか心がこもっていて、

「語らはば なぐさむことも ありやせむ 言ふかひなくは 思はざらなむ
(話し合えたら心が慰められることもあるでしょう わたしでは話相手にもならないと思わないでください)

  しんみりとしたお話を申し上げたいので、今日の夕暮れはいかがですか」
 とおっしゃってきたので、

「なぐさむと 聞けば語らま ほしけれど 身の憂きことぞ 言ふかひもなき
(心が慰められると聞くと 話し合いたいのですが わたしの辛さは 話し合ったところで どうしようもないのです)

『生ひたる蘆
(何事も 言わはれざりけり 身の憂きは生ひたる蘆の ねのみ泣かれて/何事も口では言えないわたしの辛さは ただもう泣くばかりで[古今六帖。赤人])
 のように、ただ泣くばかりで、お話相手になれません」  
 と申し上げた。 宮は、
〈思いがけない時に秘かに・・・〉  
 と思われて、昼から準備をなさり、ふだん手紙を取り次いでいる右近の尉
(うこんのじょう・右近衛府の三等官)をお呼びになって、
「秘かに出かける」  
 とおっしゃると、尉は、
〈あの女の所だな〉  
 と思ってお供をする。 宮は粗末な車でお越しになって、
「このようにやって来ました」  
 と尉を介しておっしゃるので、女はひどく困った気がするが、
「いません」  
 と申し上げるわけにもいかない。
〈昼もお返事をさし上げたのに、家にいながらお帰しするのも思いやりのないこと。お話だけでも〉  
 と思って、西の妻戸に円座
(藁、菅などで渦巻状に編んだ敷物)をさし出してお入れしたのだが、世間の人がそう言うせいか、普通の容姿ではなく優雅で美しい。それに気をとられて、お話など申し上げているうちに月がさし出てきた。
「明るすぎる。わたしは古風で引きこもりがちなので、こんな明るい所にいるのは慣れていない。ひどく落ち着かない気がするので、あなたのいらっしゃる御簾の中に座らせてください。けっして、あなたが今までお逢いになった方のようなことはしませんから」  
 とおっしゃるので、女は、
「変なことを。今晩だけのお話相手と思っています。
『今まで』
 とはいつのことでしょう」
 などと、それとなく話をはぐらかしているうちに、夜もしだいに更けてきた。宮は、
〈話をするだけで夜を明かしてしまうのか〉
 と思われて、

はかもなき 夢をだに見で 明かしては なにをかのちの 世語りにせむ
(はかない夢さえ見ることができないで 夜を明かしてしまったら これから何を思い出話にしたらいいのでしょう)

 とおっしゃるので、

世とともに ぬるとは袖を 思ふ身も のどかに夢を 見る宵ぞなき
(夜になるとずっと涙で袖を濡らすばかり のどかに夢を見る夜なんてありません)  

 まして今夜ご一緒など」  
 と申し上げた。宮は、
「身軽に外出できるわたしではない。思いやりがないように思われても、じぶんでも恐ろしいほどあなたが恋しくてならないのです」  
 とおっしゃって、そっと御簾の中へすべりこまれた。  
 とても無理なことをいろいろ約束なさって、夜が明けると宮はお帰りになった。そしてすぐに、
「今どうしていますか。別れてきたばかりなのに不思議なほど恋しくて」
 とあって、

恋と言へば 世のつねのとや 思ふらむ 今朝の心は たぐひだになし
(恋というと あなたは世間並みのものと思うでしょうが 今朝の恋しさは比べようないくらい熱いのです)  

 女は、お返事を、

世のつねの ことともさらに 思ほえず はじめてものを 思ふ朝は
(世間並みの恋だなんて少しも思えません はじめて恋のせつなさを知った今朝は)  

 と申し上げても、
〈おかしなことになってしまった。亡くなった宮さまがあれほど誓ってくださったのに〉  
 と悲しくなって、思い乱れていると、例の童がやってきた。
〈宮からの手紙かしら〉
 と思っていると、そうではなかったので、それを
〈情けない〉  
 と思ってしまうわたしは、あまりにも好色ではないか。
〔三〕
 童が宮のところへ帰るときに歌を託す。

待たましも かばかりこそは あらましか 思ひもかけぬ けふの夕暮れ
(もしお越しを待つとしたら このように辛いのでしょうか 後朝の今日なのに 夕暮れの訪問を思いもなさらなかったとは)  

 宮は歌をごらんになって、
〈ほんとうにかわいそうだ〉  
 と思われるが、このような外出はまったくなさらない。北の方
(大納言左大将藤原済時・ふじわらのなりときの次女)も、普通の睦まじい夫婦のようではないとはいえ、宮が毎晩お出かけになれば、
〈おかしい〉
 と思われるだろう。
〈兄宮が最後まで非難されたのも、この女のせいだ〉  
 と身を慎まれるのも、女をそれほど大切には思っていらっしゃらないからだろう。暗くなってからお返事がある。

「ひたぶるに 待つとも言はば やすらはで 行くべきものを 君が家路に
(ひたすら待っていると言ってくださったら ためらうことなく行くのに あなたの家へ)  

 わたしの気持ちをいい加減に思っていらっしゃるのが辛いです」  
 と書いてあるので、
「いいえ、いい加減だなんて。わたしのほうは、

かかれども おぼつかなくも 思ほえず これも昔の 縁こそあるらめ
(お越しがなくても不安ではありません これも亡くなった兄宮さまとの宿縁で結ばれているからでしょう)  

 と思ってはみるものの、慰めてくださらないと わたしは露のように消えてしまいそう」
 と申し上げた。宮は、
〈出かけよう〉  
 と思われるが、恋に不慣れのためためらってばかりいらっしゃって、何日か過ぎてしまった。
〔四〕
 四月の三十日に、女は、

ほととぎす 世にかくれたる 忍び音を いつかは聞かむ 今日もすぎなば
(五月に鳴くほととぎす 四月に鳴くのを忍び音といいますが その忍び音をいつ聞くことができるでしょう 四月も終わってしまいます 今日はぜひお越しください)

 と申し上げたが、宮のところには多くの人たちが参上しているときなので、童はお見せすることができない。翌朝、その歌を持って伺うと、宮はごらんになって、

忍び音は 苦しきものを ほととぎす 木高き声を 今日よりは聞け
(ほととぎすの忍び音は苦しい 木高く張り上げる声を今日からは聞いてください わたしもこの五月からは人目を忍ばないで伺います)

 とお返事なさり、二、三日たってから、相変わらず人目を忍んでお越しになった。 女は、お寺に参詣しようと精進しているところで、
〈お越しになるのがひどく遠のいているのも愛情がないからだろう〉
 と思ったので、特にお話などもしないで、仏さまの精進を口実にしてなにもしないで夜を明かした。翌朝、宮から、
「変なふうに夜を明かした」
 とお書きになって、

「いさやまだ かかるみちをば 知らぬかな あひてもあはで 明かすものとは
(いやもう こんな恋の道があるとは知らなかった お逢いしながら なにもなく夜を明かすなんて)

 あきれたね」  
 とある。
〈きっとあきれてしまわれただろう〉  
 と気の毒になって、

「世とともに もの思ふ人は 夜とても うちとけて目の あふときもなし
(今までずっと物思いをしているわたしは 夜だからといって くつろいで眠ることもできません)  

 わたしには変だとは思われません」  
 と申し上げた。  
 次の日、宮から、
「今日お寺に参詣なさるのですか。いつお帰りになるのでしょう。いつにもましてどんなに待ち遠しいことでしょう」  
 とあるので、

「折すぎて さてもこそやめ さみだれて 今宵あやめの 根をやかけまし
(今夜参詣しないとせっかくの精進がむだになってしまいます でも 待ち遠しいなどとおっしゃると心乱れて 今夜お逢いしようか・・・)

 とまで思われて、行くのがためらわれます」
 と申し上げて、お寺に参詣して、三日ほどたって帰ってくると、宮から、
「気になってしかたがないから、お訪ねしようと思うのですが、ひどく辛い思いをした先夜のことを思うと、なんとなくおっくうで気おくれがして、とても疎遠になってしまいましたが、この頃は、

過ぐすをも 忘れやすると ほどふれば いと恋しさに 今日はまけなむ
(あなたのことが忘れられるかもしれないと日を過ごしたのですが あまりの恋しさに今日は負けてお訪ねしましょう)

 わたしの深い思いを、いくらあなたでもわかってくださるでしょう」  
 とある。そのお返事を、

まくるとも 見えぬものから 玉かづら 問ふひとすぢも たえまがちにて
(恋しさに負けてお越しになるとは思えません 安否を気づかうお便りさえ途絶えがちなのに)  

 と申し上げた。
〔五〕
 宮は、いつものように忍んでいらっしゃった。女は、
〈まさか今夜はいらっしゃらないだろう〉  
 と思っているうちに、このところのお寺でのお勤めに疲れて、うとうと眠っていたときだったので、門を叩いてもその音に気づく人もいない。宮は女の噂をいろいろ聞いていらっしゃったから、
〈ほかの男が来ているかもしれない〉  
 と思われて、そっとお帰りになり、翌朝、

「あけざりし まきの戸ぐちに 立ちながら つらき心の ためしとぞ見し
(叩いても開けてくれない槇〔檜・杉などの総称〕の戸口に立ちながら これがあなたの薄情な証拠だと思った)  

 恋の辛さとはこういうことなのかと思うと、悲しくてならない」  
 とある。女は、
〈昨夜いらっしゃったようだわ。思いやりもなくうっかり寝てしまった〉  
 と思う。宮へのお返事は、

「いかでかは まきの戸ぐちを さしながら つらき心の ありなしを見む
(槇の戸口は閉ざしたままです どうして外から わたしの心が薄情かどうかおわかりになるのでしょう)  

 変な想像をなさっていらっしゃるようね。
『見せたらば
(人知れぬ 心のうちを 見せたらば 今までつらき 人はあらじな/人知れないわたしの気持ちを見せたのなら 今まで辛くあたる人はいないでしょうに[拾遺集・読人しらず])
 ではないですが、人知れないわたしの気持ちをお見せできたら、わかっていただけるのに」
 とある。宮は、今夜もお出かけになりたかったけれど、
〈こういう忍び歩き人々も止めているうえに、帝
(一条天皇)や大殿(左大臣藤原道長)や東宮さま(居貞親王・いやさだしんのう、後の三条天皇)などがお聞きになったら軽薄に思われるだろう〉
 と外出を控えていらっしゃるうちに、長い日数が経ってゆく。
〔六〕
 雨が降り続いて退屈なこの数日、女は晴れ間のない長雨の鬱陶しさに、
〈あの人との仲はどうなってゆくのだろう〉  
 とずっと思い続けて、
〈言い寄ってくる男たちはたくさんいるけれど、そんな男たちのことは今はなんとも思わないのに、世間の人はいろいろ噂しているらしいが、
『身のあればこそ
(いづ方に 行き隠れなん 世の中に 身のあればこそ 人もつらけれ/どこに行って身を隠そうか 俗世にいるからこそ辛いのだ[拾遺集・読人しらず])
 で、わたしがここにいては〉  
 と思って過ごしている。宮から、
「雨ですることもない日々をどうしていますか」  
 とあって、

おほかたに さみだるるとや 思ふらむ 君恋ひわたる 今日のながめを
(例年のように五月雨が降っていると思っていらっしゃるのでしょうか この雨はあなたを恋し続けるわたしの涙なのです)  

 と書いてあるので、五月雨の季節を見過ごさない宮の思いやりを嬉しく思う。
〈物思いしている時にくださった〉
 と思って、女が、

慕ぶらむ ものとも知らで おのがただ 身を知る雨と 思ひけるかな
(わたしを恋い慕ってくださる涙の雨とも知らないで わたしの悲しい身の上を思い知らされる雨とばかり思っていました)  

 と書いて、その紙の一枚を裏返して、

ふれば世の いとど憂さのみ 知らるるに 今日のながめに 水まさらなむ
(生きていると 辛いことばかりを思い知らされますので 今日の長雨で水かさが増して わたしを流してほしい)  

 わたしを救ってくれる彼岸はあるのでしょうか」  
 と申し上げたのを宮はごらんになって、すぐに、

「なにせむに 身をさへ捨てむと 思ふらむ あめの下には 君のみやふる
(どうして身を捨てようなんて思うのですか この世の中であなただけが辛いのではありません)  

 誰もが辛いのです」  
 とお返事がある。
〔七〕
 五月五日になった。雨はまだやまない。宮は先日の女からのお返事がいつもよりも物思いに沈んでいる様子なのを、
〈かわいそうに〉  
 と思い出されて、ひどく雨が降った翌朝、
「昨夜の雨の音は、恐ろしかったね」  
 などとおっしゃってきたので、

「夜もすがら なにごとをかは 思ひつる 窓うつ雨の音を聞きつつ
(一晩中 なにを思っていたのでしょう ただあなたのことばかり 窓を激しく打つ雨の音を聞きながら ※[白氏文集・上陽白髪人]の蕭々タル暗キ雨ノ窓ヲ打ツ声/もの寂しく暗夜に降る雨が窓を激しく打つ音の引用)

『かげにゐながら
(降る雨に 出ででも濡れぬ わが袖の かげにゐながら ひちまさるかな/雨の中に出ても濡れないわたしの袖が 部屋の中いるのにどんどん濡れていく[拾遺集・紀貫之])
 の歌のように、家の中にいたのに不思議なほど袖が濡れて」  
 と申し上げると、宮は、
〈やはり相手として悪くはない女だな〉  
 と思われて、お返事に、

われもさぞ 思ひやりつる 雨の音を させるつまなき宿はいかにと
(わたしも同じように雨の音を聞きながら あなたのことを思っていた しっかりした夫もいない宿で どうしていらっしゃるのかと)  

 昼頃、大雨で賀茂川が増水したというので、人々は見に行く。宮もごらんになって、
「今、どうしていますか。わたしは大水を見に行きました。

大水の 岸つきたるに くらぶれど 深き心は われぞまされる
(大雨で川の水が岸まであふれていますが その深さに比べても わたしのあなたへの想いのほうが勝っています)  

 それをわかっていらっしゃいますか」  
 とある。そのお返事を、

「今はよも きしもせじかし 大水の 深き心は 川と見せつつ
(今はまさかわたしのところへはいらっしゃらないだろう 深い想いを大水にたとえておっしゃったのに)  

 お言葉だけではなんにもならない」  
 と申し上げた。 宮は、
〈女のところに出かけよう〉
  と思われて、衣服に薫物などをさせていらっしゃるときに、侍従の乳母がやって来て、
「お出かけになるのはどちらです。お忍びのお出かけのことをみなが噂しています。あの女は特に身分が高いわけではありません。お使いになりたいと思われるのでしたら、お呼びになって召人
(愛人)としてお使いになるのがよろしいでしょう。軽々しいお出かけは、とても見苦しいものです。通い所の中でもあの女のところは、男たちが大勢通っています。不都合なことも起きてくるでしょう。すべてよくないことは、右近の尉の某が始めるのです。亡き兄宮さまも、この男が連れまわったのです。(※為尊親王は疫病の流行も顧みず、和泉式部や新中納言のところへ通って亡くなったと『栄花物語』鳥辺野巻に書いてある。このときの案内をしたのも右近の尉だというわけ)夜、夜中までお出かけなさるのでは、よいことのあるはずがありません。こんなお供をするような者は、大殿(道長)にも申し上げましょう。世の中は、今日明日にもどう変わるかわかりませんし、大殿が東宮にとお心にお決めになっていることもありますのに、世の中の情勢をお見届けになるまでは、このようなお忍び歩きはなさらないでください」
 と宮に申し上げるので、宮は、
「どこにも行かないよ。退屈だから、ちょっと気晴らしに出かけるだけだ。そんなおおげさに他人からとやかく言われることではない」  
 とだけおっしゃって、
〈身分が低くそっけない女だが、でも、いいところがないわけでもない。ここへ呼んでそばに置こうか〉  
 と思われるけれど、
〈でもそんなことをしたら、今よりもっと世間の評判が悪くなるだろう〉  
 と思い乱れていらっしゃるうちに、女から遠のいてしまった。
〔八〕
 宮はやっと女のところへお越しになって、
「じぶんでもあきれるほど思いがけなくご無沙汰したのを冷たいとは思わないでください。これもあなたのせいだと思います。このようにお訪ねするのをよくないと思っている男たちが大勢いると聞いたので、わたしも辛くて。それに世間体もあるので遠慮しているうちに、いっそう日数が経ってしまって」
 と真剣にお話なさって、
「さあ、行きましょう、今夜だけは。誰にも知られないところがあります。そこでゆっくりお話でもしましょう」  
 と言って車を寄せて、むりやりお乗せになるので、女は、何が何だかわからないまま車に乗った。
〈人に知られたらどうしよう〉  
 と心配しながら行くが、夜もすっかり更けていたので、気づく人もいない。宮は誰もいない渡り廊下に車をそっと寄せて、お降りになった。女は、月がとても明るいので車から出たくなかったが、宮が、
「降りなさい」
 と強引におっしゃるので、
〈みっともない〉
 と思いながら降りた。
「どうです。誰もいない所でしょう。これからはこんなふうにお逢いしましょう。あなたの家だと、
〈誰か来ているかもしれない〉
 と思うので、気がひけて」
 などと、しみじみとお話をなさり、夜が明けると、車を寄せてわたしをお乗せになり、
「家までお送りしたいけれど、明るくなったら、
〈外泊した〉
 と誰かに思われるのもいやだから」  
 とおっしゃって、その邸にお残りになった。
(※この「お残りになった」という言葉から、宮が連れだしたのは、宮の邸のどこかであることがわかる)  
 女は、帰る道すがら、
〈不思議な外出だった。人はどう思うのだろう〉  
 と思う。明け方の薄明かりの宮のお姿が、ひときわ美しく見えたのも、思い出されて、

「宵ごとに 帰しはすとも いかでなほ あかつき起きを 君にせさせじ
(毎晩 夜遅くお帰しすることはあっても これからはやはり辛い早起きだけはあなたにさせたくありません)  

 辛かったです」  
 と書いたので、宮から、

朝露の おくる思ひに くらぶれば ただに帰らむ 宵はまされり
(朝露の置く朝早く起きて別れる辛さに比べたら お逢いできないで帰る夜のほうがもっと辛い)  

 あなたの言うことは聞かない。今夜はあなたの家が方塞がり(忌む方角)になっているから泊まれない。お迎えに行きます」
 とお返事がある。
〈ああ、みっともない、毎晩の外出は〉  
 と思うけれど、宮は昨夜のように車でいらっしゃった。車を寄せて、
「早く、早く」  
 とおっしゃるので、女は、
〈ほんとうにみっともないことを〉  
 と思いながらも、部屋からにじり出て車に乗ると、宮は昨夜の所へ行ってお話をなさる。宮の北の方
(藤原済時の次女)は、宮が父君の冷泉院のお邸に行かれたものと思っていらっしゃる。  
 夜が明けると、
「鳥の音つらき
(恋ひ恋ひて まれに逢ふ夜の あかつきは 鳥の音つらき ものにざりけり/恋しくて恋しくて たまにあなたと逢った夜明けは 別れを告げる鶏の声がつらい[古今六帖・閑院大臣)」  
 とおっしゃって、ごじぶんもそっと車にお乗りになり送ってこられた。帰る途中、
「こんなふうにお連れするときは、必ず来てください」
 とおっしゃるので、
「そういつもは」  
 と申し上げる。宮は家まで送ってこられて、お帰りになった。しばらくしてお手紙がある。
「今朝は鳥の鳴き声で起こされて、憎らしかったので殺してやりました」  
 とお書きになって、鶏の羽根に手紙をつけて、

殺しても なほあかぬかな にはとりの 折ふし知らぬ今朝の一声
(殺してもまだ気が晴れない にわとり〔二羽鳥〕なのに二人の気持ちも察しないで鳴いた今朝の一声は)  

 お返事は、

「いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは
(どんなに辛いかはわたしこそ知っています 毎朝毎朝 あなたのお越しがなく むなしく夜を明かしたときに鳴いて知らせる鶏の声を聞く辛さは)

 と思うにつけても、憎くないことがあるでしょうか」  
 と書いた。
〔九〕
 二、三日ほどして、月のひときわ明るい夜、女が端近くに座って月を見ていると、宮から、
「どうしています。月はごらんになっていますか」  
 とお手紙があり、

わがごとく 思ひは出づや 山の端の 月にかけつつ 嘆く心を
(わたしと同じように先夜のことを思い出していらっしゃいますか わたしは山の端に沈んでゆく月になぞらえて あなたにお逢いできないのを嘆いています)

 いつもより心惹かれるうえに、
〈宮のお邸にいたあの夜も月が明るかったので、誰かに見られただろうか〉
 と思い出されるときだったので、お返事を、

ひと夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして
(あの夜あなたと一緒に見た月だと思って眺めていますが 心は晴れず 目もうつろです あなたがいらっしゃらないから)  

 と申し上げて、なおも一人でぼんやり月を眺めているうちに、宮の訪れはなく虚しく夜が明けた。  
 次の日の夜、宮は女のところへ行かれたが、女はわからなかった。女の家は家族があちこちの部屋に住んでいるので、宮は妹のところへ来た人の車を、
〈車がある。ほかの男が来ている〉  
 と思われる。宮は不愉快だが、それでもさすがに、
〈別れてしまおう〉  
 とは思われなかったので、お手紙を遣わす。
「昨夜お訪ねしたことをお聞きになりましたか。わたしがお訪ねしたことさえもご存じなかったと思うと、ひどく悲しい」
 とあって、

「松山に 波高しとは 見てしかど 今日のながめは ただならぬかな
(あなたが浮気な方とは知っていましたが 昨夜はっきりと見た辛さは 今日の長雨のように並大抵のものではない ※君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ/あなたを忘れて浮気心をわたしが持ったとしたら あの波の越えるはずのない「末の松山」を波も越えてしまうでしょう[古今集・東歌])  

 とある。ちょうど雨が降っている時だった。女は、
〈わけがわからない。誰かがありもしないことを告口したのかしら〉  
 と思って、

君をこそ 末の松とは 聞きわたれ ひとしなみには たれか越ゆべき
(あなたこそ浮気なお方と聞いています あなたと同じように誰が心変わりなどするものですか)  

 と申し上げた。宮は、先夜のことをなんとなく不愉快に思われて、長い間お手紙もくださらなかったが、こんな歌を送ってこられた。

つらしとも また恋しとも さまざまに 思ふことこそひまなかりけれ
(あなたを薄情だとも恋しいともさまざまに思って 心の休まるときがない)

 女は、弁明したいことがないわけではないが、それを宮が言い訳にとられると思うと気が引けて、

あふことは とまれかうまれ 嘆かじを うらみ絶えせぬ 仲となりなば
(お逢いすることはどうなっても嘆きませんが あなたと恨みが絶えないような仲になったら 嘆かないではいられないでしょう)  

 とだけ申し上げた。
〔一〇〕
 こうして、その後も宮の訪れはない。月の明るい夜、横になって、
「うらやましくも
(かくばかり 経がたく見ゆる 世の中に うらやましくも すめる月かな/これほど過ごしにくい世の中で 羨ましいほど澄んでいる月[拾遺集・藤原高光])」  
 などと、月を見ても気がふさぐので、宮に歌を送る。

月を見て 荒れたる宿に ながむとは 見に来ぬまでもたれに告げよと
(月を見て荒れはてた宿で物思いにふけっていることをあなたは見に来ないとしても あなたのほかに誰に知らせたらいいのでしょう)  

 樋洗童
(ひすましわらわ、浴室・便器などをする少女)に、
「右近の尉
(うこんのじょう・宮の側近)に渡してきて」  
 と言って使いにやる。宮は御前に人々を呼んで、お話をしていらっしゃるときだった。人々が退出してから、右近の尉が手紙をさし出すと、
「いつものように。車の準備をさせなさい」  
 とおっしゃって、お越しになった。  
 女は、まだ端近で月を眺めていたところ、誰かが入ってきたので、奥へ行き簾を下ろして座っていると、あのいつお逢いしてもそのたびに見なれることのないお姿の宮で、直衣など着なれて柔らかくなっているのまで、素晴らしく見える。宮はなにもおっしゃらないで、ただ扇に手紙を置いて、
「あなたのお使いが返事を受け取らないで帰ったので」  
 とおっしゃって、扇を差し出された。女は、お話ししようにも離れすぎていて具合が悪いので、扇をさし出して手紙を受け取った。宮も部屋に上がろうと思われる。庭の植え込みの美しい中をお歩きになって、
「人は草葉の露なれや
(わが思ふ 人は草葉の 露なれや かくれば袖の まづそほつらむ/わたしが恋しく思っている人は草葉の露なのだろうか あなたを思うとすぐに涙で袖が濡れる[拾遺集・読人しらず])」  
 などとおっしゃる。とても優雅である。女の近くに寄っていらっしゃって、
「今夜はこれで帰ります。あの車が誰のところに忍んで来たのか、つきとめようと思って来たのです。明日は物忌みと言っているから、家にいないのもおかしいと思うので」  
 とおっしゃってお帰りになろうとするので、

こころみに 雨も降らなむ 宿すぎて 空行く月の 影やとまると
(ためしに雨でも降ってくれればいいのに わたしの家を通り過ぎてゆく月のようなあなたが 雨宿りしてくださるかもしれないから)  

 ほかの人が言うより子供っぽいので、宮は愛しく思われて、
「可愛い人」  
 とおっしゃって、しばらく部屋にお上がりになって、出て行かれるときに、

あぢきなく 雲居の月に さそはれて 影こそ出づれ 心やは行く
(しかたなく空行く月に誘われて出てゆくのですが それは体だけで 心はあなたのところにずっといます)  

 とおっしゃって、お帰りになった後、扇にのせてさし出された手紙を見ると、

われゆゑに 月をながむと 告げつれば まことかと見に 出でて来にけり
(わたしのせいで月を眺めているとお知らせになったので 本当かどうか確かめに来たのです)  

 と書いてある。
〈やはり本当に素晴らしいお方。わたしのことをいけない女だとお聞きになっているのを、なんとかして考え直していただたい〉  
 と思う。 宮も、
〈話し相手として悪くなく、寂しい心を慰めるにはいい〉
 と思われるのに、宮のおそばに仕える女房たちの一人が、
「この頃は、源少将
(源雅通・みなもとままさみち)がお通いのようです。昼間もいらっしゃるとか」
  と言うと、もう一人が、
「治部卿
(源俊賢・みなもとのとしかた)もいらっしゃるとか」
 などと、口々に申し上げるので、宮は、
〈あまりにも軽薄な女だ〉  
 と思われて、長い間お手紙も書かれない。
〔一一〕
 小舎人童がやってきた。樋洗童とはいつも仲良くしているので、話などして、
「宮さまからのお手紙はあるの」
 と聞くと、小舎人童は、
「ないね。先夜お越しになった時に、門に車があったのをごらんになってから、お便りもなさらないようだ。ほかに男がいて通っているように宮は聞かれたらしい」  
 などと言って帰っていった。 樋洗童が、
「小舎人童がこんなことを・・・」  
 と女に申し上げると、
〈ずいぶん長い間、あれこれ煩わしいことを申し上げることもなく、特におすがりすることもなかったけれど、
《時々でも先夜のようにわたしのことを思い出してくださるかぎり、仲が絶えないでいたい》  
 と思っていた。それがよりによって、男が通っているなんてとんでもない噂のせいで、わたしを疑ってしまわれたとは〉  
 と思うと、じぶんまでもいやで、
「なぞもかく
(いく世しも あらじわが身を なぞもかく 海人の刈藻に思ひ乱るる/そう長くは生きられないわたしが どうしてこう思い乱れるのだろう[古今集・読人しらず])」  
 と嘆いていると、宮からお手紙がある。
「この頃は、どういうわけか気分が悪くて。いつかもお訪ねしたのですが、都合の悪い時ばかりで帰るしかなかったので、まったく人並みに扱われていない気がして。

よしやよし 今はうらみじ 磯に出でて 漕ぎはなれ行く 海人の小舟を
(どうでもよい 今はもう恨んだりしない 磯から離れてゆく尼の小舟のように わたしから離れていくのだから)」  

 とあるので、あきれるほどひどい噂を聞いていらっしゃるのに、お返事をするのも気がひけるが、
〈今回だけは〉  
 と思って、

袖のうらに ただわがやくと しほたれて 舟ながしたる 海人とこそなれ
(袖の浦でひたすら塩焼きしているうちに舟を流してしまった海人のように わたしも涙で袖を濡らしているうちにあなたを失ってしまった)  

 と申し上げた。
〔一二〕
 こうしているうちに、七月になった。七日には、色好みな男たちから、織女や彦星などを詠んだ歌がたくさん届くけれど、目にも入らない。
〈こういう時には、宮が機会を逃さないで歌を送ってくださったのに、本当にわたしのを忘れてしまわれたのかしら〉  
 と思っているときに、宮からお手紙がある。見ると、ただこのように、

思ひきや 棚機つ女に 身をなして 天の河原を ながむべしとは
(思いもしなかった じぶんを織女になぞらえて 一人悲しく天の川を眺めることになろうとは 年に一度の逢瀬もままならない)  

 とある。
〈こんな皮肉を言っても、やはり七夕を見過ごされなかったのだ〉  
 と思うと嬉しくて、

ながむらむ 空をだに見ず 棚機に 忌まるばかりのわが身と思へば
(あなたが眺めている空さえ見る気になれないわ 年に一度の七夕なのに あなたから嫌われていると思うと)  

 と書いたのをごらんになるにつけても、宮は、
〈やはり思い切ることはできない〉  
 と思われる。  
 七月の末ごろに、宮から、
「ずいぶんご無沙汰していますが、どうして時々でもお便りをくださらないのです。わたしなど人並みにも思っていただけないようで」  
 とあるので、女は、

寢覚めねば 聞かぬなるらむ 荻風は 吹かざらめやは秋の夜な夜な
(物思いで夜中に目覚めたりなさらないから お聞きにならないのでしょうか あなたをお招きする荻風が 秋の夜ごと吹かないことがあるでしょうか)

 と申し上げると、すぐに、
「可愛いあなた、『寝覚め』だなんて。もの思ふときは
(人しれず もの思ふときは 難波なる 葦の白根の しられやはする/誰にも知られないように物思いをしているときは 難波にある葦の白根ではないけれど 眠られない苦しさを誰が知っているでしょう[古今六帖・紀貫之])、眠ることもできないと言います。わたしの物思いはいい加減ではない。

荻風は 吹かば寝も寢で 今よりぞ おどろかすかと 聞くべかりける
(わたしを招くという荻風がほんとうに吹くのなら 一晩中眠らないで 今吹くか今招いてくださるかと聞けばよかった)  

 こうして二日ほど経って、夕暮れに、突然宮が車を引き入れて降りていらっしゃったので、まだこんな早い時刻にお逢いしたことがないから、とても恥ずかしかったけれど、どうしようもない。宮は、どうということもない話をなさって、お帰りになった。  
 その後、何日も経ったのに、待ち遠しくてたまらないほどお便りもくださらないので、

「くれぐれと 秋の日ごろの ふるままに 思ひ知られぬ あやしかりしも
(悲しみに沈んで 秋の何日かが過ぎてゆくにつれて よくわかりました 歌にあるように秋の夕暮れは不思議なほど人恋しいと ※いつとても 恋しからずは あらねども 秋の夕べは あやしかりけり/いつといって恋しくないときはありませんが 秋の夕暮は不思議と人恋しいのです[古今集・読人しらず])  

 なるほど人というものは」  
 と申し上げた。宮のお返事は、
「このところご無沙汰しています。だが、

人はいさ われは忘れず ほどふれど 秋の夕暮 ありしあふこと
(あなたはどうなのかわからないけれど わたしはどんなに時が経っても忘れたりはしない あの秋の夕暮れにあなたとお逢いしたときのことを)」  

 とある。とりとめもない、頼りにもならないこんな歌のやりとりで、宮さまとの仲を慰めているのも、考えてみれば情けないことで。
〔一三〕
 こうしているうちに八月にもなったので、女は、
〈淋しさが慰められるかも、石山寺
(滋賀県大津市)に参詣して七日間ほど籠っていよう〉  
 と思って、出かけた。宮は、
〈長い間逢ってないな〉  
 と思われて、手紙を遣わそうとなさると、小舎人童が、
「先日お伺いしましたところ、この頃は石山寺にいらっしゃるそうです」  
 と右近の尉を介して申し上げたので、
「なら、今日は日が暮れた。明日の朝早く行け」  
 とおっしゃって手紙をお書きになり、童にお渡しになり、童が石山に行ったところ、女は、都のことばかり恋しくて、
〈こういう参詣にしても宮を知る前とはすっかり変わってしまったわたしだ〉
 と思うと、ひどく悲しいので、仏の御前ではないが、心を込めてお祈りしていたときに、高欄の下のあたりに人の気配がするので、変に思って見下ろすと、いつもの童だった。
 はっとするほど思いがけない所に来たので、
「どうしたの」
 と尋ねさせると、宮のお手紙をさし出したので、いつもより急いで開けて見ると、
「とても深いお心からお籠りになったのに、どうして
『こういうことで』  
 ともおっしゃってくださらなかったのです。わたしを仏道の妨げとまでは思われないでしょうが、後に残して行かれたのが、辛くて」  
 とあって、

「関越えて 今日ぞ問ふとや 人は知る 思ひたえせぬ 心づかひを
(逢坂の関を越えてまで 今日わたしがお便りすると思われましたか わたしの絶えることのないあなたへの想いをわかってください)

 いつ山をお出になるのですか」  
 とある。  
 近くにいても、めったにお便りをくださらず不安にさせられるのに、このような所までわざわざお便りをくださったのが、女は嬉しくて、

「あふみぢは 忘れぬめりと 見しものを 関うち越えて 問ふ人やたれ
(近江にいるわたしをお忘れのようだと思っていましたけれど 逢坂の関を越えてお便りになさったのはどなたでしょう)  

 いつ山を出るのかとおっしゃいましたね。いい加減な気持ちで山に籠ったわけではないので、

山ながら 憂きはたつとも 都へは いつか打出の 浜は見るべき
(山にいて辛いことがあったとしても いつここを出て打出の浜〔琵琶湖畔〕を通って都へ帰ることがあるでしょうか)

 と申し上げると、宮は童に、
「疲れていても、もう一度行け」  
 とおっしゃって、
「『問ふ人やたれ』  
 とは、あきれたことをおっしゃる。

たづね行く あふさか山の かひもなく おぼめくばかり 忘るべしやは
(あなたを尋ねて 男女が逢うという逢坂山を越えてお便りした甲斐もなく 忘れたふりをなさっていいのでしょうか)

 それに
『都へは いつか打出の・・・』
 だなんて、

憂きにより ひたやごもりと 思ふとも あふみのうみは うち出てを見よ
(辛いことがあってひたすら山籠りしようと思われたとしても 打出の浜から近江の湖を見て わたしに逢いに帰ってきてください)  

『憂きたびごとに
(世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ 浅くなりなめ/辛いことがあるたびに身を投げると 深い谷だって浅くなる[古今集・読人しらず])
 と言います」  
 とおっしゃってきたので、ただこのように、

関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ
(あなたとのことを嘆いて堰き止められないわたしの涙が 近江の湖の水となって流れ出ることでしょう)  

 と書いて、紙の端に、

こころみに おのが心も こころみむ いざ都へと 来てさそひみよ
(わたしの山籠りの決意がどのくらいか試してみましょう あなたも本気なら ここへ来て都に帰ろうと誘ってみてください)  

 宮は、
〈あの人が思いもしないときに行ってみたい〉  
 と思われるが、どうしてそんなことができるだろう。身分柄できるわけがない。
 こんなことがあってから、女は石山寺を出て都に帰った。宮から、
「『さそひみよ』  
 と書いてあったのに。急に山から出てしまわれたから、

あさましや 法(のり)の山路に 入りさして 都の方へ たれそひけむ
(あきれてしまった 仏の通の山籠りを途中で止めてしまうなんて 都に帰るようにと誰が誘ったのでしょう)」  

 お返事は、ただこのように、

山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより
(山を出て 悩みの多い俗世に帰ってきました もう一度あなたにお逢いするために)

 八月末頃、風が激しく吹いて、野分らしい雨などが降るときに、女はいつもよりなんとなく心細くて物思いに沈んでいると、宮からお手紙がある。いつものように季節の情趣を知っているかのようにお便りをくださったので、このところお見えにならない罪も許してあげたくなる。

嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき
(お逢いできないのをため息をつきながら秋の空を眺めていると 雲が流れ風が激しく吹くばかり)  

 お返事は、

秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき
(秋風は ほんのわずか吹くだけでも悲しくなるのに 空が一面に曇る日は 心まで閉ざされたようで なんとも言いようがありません)  

 宮は、
〈なるほどそのとおりだろう〉  
 と思われるが、いつものようになにもないまま日が過ぎてゆく。
〔一四〕
九月二十日過ぎの有明の月(夜明けに残っている月)のころ、宮はお目覚めになって、
〈ずいぶんご無沙汰してしまったな。ああ、今頃あの人はこの月を見ているだろう。それとも誰か来ているのかな〉  
 と思われるものの、いつものように小舎人童だけをお供にしてお越しになって、童に門をお叩かせになるが、女は、目を覚ましていて、いろいろなことを思い続けて横になっているところだった。だいたいこの頃は、季節のせいか、なんとなく心細く、いつもより寂しく感じて、物思いにふけっていた。
〈変だわ、誰だろう〉  
 と思って、そばに寝ている侍女を起こして下男に尋ねさせようとしたけれど、侍女はすぐには起きない。やっと起こしても、暗いので、あちこちにぶつかって騒いでいるうちに、門を叩く音がしなくなった。
〈帰ったのだろうか。寝起きが悪いと思われたにちがいないけれど、それではわたしには悩みがないようにとられる。でも、わたしと同じようにまだ寝なかった人がいたとは、誰だろう〉  
 と思う。やっと下男が起きてきて、
「誰もいません。聞き間違いをなさって、夜中にわたしを慌てさせなさるとは、人騒がせなお邸のおもと
(女房の敬称)たちだ」
 と言って、また寝てしまった。
 女は寝ないでそのまま夜を明かした。ひどく霧が立ち込めた空を眺めていたら、明るくなってきたので、この夜明け前に起きた思いなどを、紙に書いていると、いつものように宮からお便りがある。ただ、このように、 

秋の夜の 有明の月の 入るまでに やすらひかねて 帰りにしかな
(秋の夜の有明の月が沈むまで 門の前に立っているわけにもいかないので 帰ってしまいました)

 女は、
〈いやもう、ほんとうに、どんなにつまらない女に思っていらっしゃることか〉
 と思うと同時に、
〈やはり季節の情趣を見過ごされなかった。あのしみじみとした美しい空の様子を確かにごらんになったのだ〉
 と思うと、嬉しくて、さっき手習いのように書いたのを、そのまま結び文にして宮にさし上げた。
〔一五〕
 結び文を宮がごらんになると、
「風の音が強く、木の葉をすっかり散らしてしまうほど吹いているのが、いつもよりもの寂しく感じられる。空はどんよりと曇っているのに、ただほんの少しだけ雨がぱらぱらと降るのは、どうしようもなくわびしく思われて、

秋のうちは 朽ちはてぬべし ことわりの 時雨にたれが 袖はからまし
(こんなに涙を流していたら 秋のうちにわたしの袖は涙でぼろぼろになるだろう 冬になると必ず降る時雨のときは 誰の袖を借りたらいいのだろう)

 悲しいと思ってもわかってくれる人もいない。草の色まで今までと違ってきたので、時雨になるのはまだ先だというのに、早くも時雨を運んできたような風に、草が辛そうになびいているのを見ると、今にも消えそうな露のようなわが身が危うく思われ、草葉になぞらえた悲しい気持ちのまま、奥へも入らないで、そのまま端近の所に横になったが、少しも眠ることができない。人は皆安心して寝ているのに、わたしはこれはこうと決めることもできないで、じっと目を覚まして、ひたすらじぶんの運命を恨めしく思って横になっているうちに、雁がかすかに鳴いたのが、人はこれほどには思わないだろうが、とても悲しく耐え難い気がして、

まどろまで あはれ幾夜に なりぬらむ ただ雁(かり)がねを聞くわざにして
(うとうと眠ることもしないで ああ どれほどの夜が過ぎたのだろう ただ雁の声を聞くだけで)

〈雁の声を聞くだけで夜を明かすよりは〉
 と思って、妻戸を押し開けて外を見ると、大空に西へ傾いた月の光が、遠くまで澄み渡って見えるのに、上空には霧がかかり、そんな中、鐘の音と鳥の鳴き声がひとつに響きあい、それを聞いていると、
〈過去にも未来においても、こんな時はけっしてない〉  
 と思われて、袖を濡らす涙までがしみじみと身にしみていつもとは違う感じがする。

われならぬ 人もさぞ見む 長月の 有明の月に しかじあはれは
(わたし以外の人もきっとこう思って見るでしょう しみじみとした情趣は九月の有明の月に及ぶものはないと)  

 今すぐ、この家の門を叩かせる人がいたら、どんなに嬉しいことだろう。いや、いったい誰がわたしと同じように夜を明かすというのか。

よそにても おなじ心に 有明の 月を見るやと たれに問はまし
(どこかほかの所でも わたしと同じ気持で有明の月を見ていますかと いったいどなたに尋ねたらいいのかしら)

〈宮さまのところへでも送ろうか〉  
 と思ったので、この手習いに書いた文をさし上げたところ、宮はちらっとごらんになって、つまらないとは思われなかったけれど、
〈物思いをしているうちにすぐに返事をしよう〉  
 と思われて、お手紙をお遣わしになる。女は、なお外を眺めて端近の所に座っているときに返事を持って来たので、あまりの早さに期待が外れた気がして開けてみると、

「秋のうちは 朽ちにけるものを 人もさは わが袖とのみ 思ひけるかな
(秋のうちにわたしの袖も涙で朽ちてしまったのに あなたはじぶんの袖だけが朽ちた思っていたのですね)

消えぬべき 露の命と 思はずは 久しき菊に かかりやはせぬ
(消えてしまう露の命なんて思わないで なぜ長寿の菊にあやかろうとしないのですか)

まどろまで 雲居の雁の 音を聞くは 心づからの わざにぞありける
(眠らないで空飛ぶ雁の声を聞くのは あなた自身の心のせいです)

われならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな
(わたし以外の人も この有明の空だけは 同じ心で眺めて物思いふけっていたのですね)

よそにても 君ばかりこそ 月見めと 思ひて行(ゆ)きし 今朝ぞくやしき
(離れていても あなただけは月を見ているはずと思って訪ねて行ったのに 逢えなかった今朝が悔しくてならない)  

 門を開けてもらえなかったのが残念です」  
 とあるので、やはり手習いの文を送っただけのことはある。
〔一六〕
 こんなことがあって、九月末ごろに宮からお手紙がある。このところご無沙汰しているお詫びなどが書いてあって、
「変なお願いですが、ふだん親しくしていた人が遠くへ旅立つので、その人が感動するにちがいない歌を一首送ろうと思うのですが、あなたがくださる歌だけがわたしを感動させるので、わたしの代りに一首詠んでください」  
 とある。女は、
〈まあ、自慢して、いい気なこと〉
 と思うが、
「代作などとてもできません」
 と申し上げるのも、生意気なようなので、
「おっしゃるような歌がどうしてわたしに・・・」
 とだけ書いて、

「惜しまるる 涙にかげは とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも
(別れが惜しまれるわたしの涙に あなたの面影が残ってほしい 秋が去るようにあなたがわたしから去っていっても)  

 おっしゃるままに代作をするなんて、気恥ずかしいことで」  
 と書いて、紙の端に、
「それにしても、

君をおきて いづち行くらむ われだにも 憂き世の中に しひてこそふれ
(あなたを残して その方はどこへ行くのでしょう わたしでさえ あなたとの辛い仲をやっと生きていますのに)」  

 と書いて送ると。宮から、
「『望み通りの歌だった』  
 と申し上げるのも、わたしが歌に通じているようで気が引けます。でも、あまりに気をまわし過ぎです。『憂き世の中』とあるのは。

うち捨てて たび行く人は さもあらば あれまたなきものと 君し思はば
(わたしを捨てて旅に出る人なんてどうでもいい あなたさえわたしを二人といないと思ってくださるなら)  

 生きていけるでしょう」  
 とお返事があった。
〔一七〕
 こんなやりとりをしているうちに十月にもなった。十月十日頃に宮はやって来られた。奥は暗くて恐いので、端近の所で横になられて、しみじみと心にしみる言葉をいろいろとおっしゃるので、心に響かないことはない。月は時々曇り、時雨の降るときである。特別に二人のために作り出したようなしみじみとした情景なので、女の思い乱れている心にはぞくぞく寒気がするほど素晴らしいが、宮もそんな女の様子をごらんになって、
〈人は浮気な女だと悪くばかり言うが、おかしなことだ、ここに、こうして、わたしといるではないか〉  
 などと思われる。宮は女を愛しく思われて、女が眠ったように思い乱れて横になっているのを揺り起こして、

時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を あやしく濡るる 手枕の袖
(時雨にも夜露にもあてないように寝ている夜なのに 不思議にもわたしの手枕の袖が濡れる)  

 とおっしゃるが、女はどんなこともどうしようもなく辛く思われて、お返事する気もなれないので、なにも言わないで、ただ月の光の中で涙が落ちるばかりだが、宮はそれを愛しくごらんになって、
「どうしてお返事もなさらないのです。変な歌なんか申し上げたので、不愉快に思われたのですね。かわいそうに」  
 とおっしゃるので、
「どうしたのでしょうか、ただもうたまらなく心が乱れる気がして。お言葉が耳に入らなかったわけではないのです。まあ、見ていてください。『手枕の袖』のお言葉を忘れる時があるかどうかを」  
 と冗談ごとに言い紛らわして、しみじみとした夜の風情も、こんなことを言っているうちに明けたのだろう。  
 宮は邸に帰って、
〈頼りにする男もいないようだ〉  
 と気の毒に思われて、
「今、どうしていらっしゃいますか」  
 と言ってこられたので、そのお返事に、

今朝の間に いまは消ぬらむ 夢ばかり ぬると見えつる 手枕の袖
(今朝のうちにもう乾いてしまったでしょう ほんのわずか濡れたように見えたあなたの手枕の袖は)  

 と申し上げた。
「手枕の袖は忘れません」  
 と言ったとおりで。おもしろいと思われて、

夢ばかり 涙にぬると 見つらめど 臥しぞわづらふ 手枕の袖
(ほんの少し涙に濡れたと思っていらっしゃるようですが 手枕の袖が涙で濡れて寝られないで困っています)
〔一八〕
 先夜の空の風情が身にしみて見えたせいで、宮のお気持ちが動いたのか、あれ以後は女のことを気がかりに思われて、頻繁に女の所へ行かれて、女の様子などをごらんになっていくうちに、男馴れした女ではなく、ただただ頼りなさそうに見えるのも、とても気の毒に思われて、しみじみとお話をなさるうちに、
「いつもこんなふうに物思いに沈んでいらっしゃるのだね。はっきり決めていたわけではないけれど、いっそのことわたしの所へいらっしゃい。世間の人もわたしがあなたのところへ通うのを悪く言っているそうです。時々伺うので、人に見られることもないけれど、それでも人は聞きづらいことを言うし、また何度もあなたに逢えないで帰るしかなかったときの辛さは、人並みに扱わていないように思われたので、
〈どうしようか〉  
 と思ったときも何度かあるけれど、古風な心のせいか、あなたとの仲を絶ってしまうのがとても悲しく思われて。だからといって、こんなふうにいつも伺うことはできないし、本当のことを誰かに聞かれてとめられたりしたら、
『空行く月
(忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空行く月の めぐりあふまで/わたしを忘れないで あなたとの距離が空遠く離れていても 空行く月がふたたびもどってくるように いつか再びめぐり逢うまで[拾遺集・橘忠基/伊勢物語十一段])
 のようになかなか逢えなくなるでしょう。もしおっしゃるような寂しい暮らしなら、わたしの邸にいらっしゃいませんか。北の方などもいますが、不都合なことはないでしょう。わたしはもともとこういう外出が似合わないせいか、誰もいない所で女性と逢うこともしない。仏のお勤めをするのさえ、一人っきりなので、同じ心であなたとお話ができたら、心も癒やされるのではないかと考えたのです」  
 とおっしゃるので、女は、
〈実際、今さらそんな上流社会の暮らしなんてできるわけがない〉  
 などと思って、
〈一の宮さま
(師貞親王・花山院)にお仕えするのもはっきりお断りしたけれど、だからといって、
『山のあなた
(み吉野の 山のあなたに 宿もがな 世の憂き時の かくれがにせむ/吉野山の彼方に住まいががあったらいいのに そうしたら世の中が厭になった時の隠れ家にするのに[古今集・読人しらず])
 に導いてくれる人もいないし、このまま過ごすのも明けることのない闇夜にいる気持ちばかりするし、つまらない冗談を言ってくる男が多くいたから、世間ではわたしを悪い女だと言っているようだ。なんと言われても、宮さまのほかに頼れる人もいない。ともかく、宮さまのおっしゃるようにしてみよう。北の方はいらっしゃるが、別々に住んでいらっしゃって、宮さまのお世話はすべて乳母が取り仕切っているそうだ。人目に立つように振る舞ったらよくないだろうが、それなりの目立たない所にいるなら、別になんということもないだろう。ほかに男がいるという宮さまのお疑いはきっと晴れるだろう〉  
 と思って、
「〈どんなこともじぶんの思い通りにいかない〉  
 とばかり過ごしています慰めには、今夜のように、あなたがたまにいらっしゃるのをお待ちしてお迎えするしかありませんから、
〈ただもう、あなたがおっしゃるようにしたい〉  
 とは思いますが、今のように別々に暮らしていても見苦しいことと世間では噂しているようです。ましてわたしがお邸に移ったら、
『やはり噂は本当だった』  
 と人は見るでしょうから、それが気になって・・・」  
 と申し上げると、宮は、
「そのことは、わたしのほうこそとやかく非難されるでしょうが、あなたのことを見苦しいなどと誰が見るでしょう。まったく見立たない所を用意してお知らせしましょう」  
 などと頼もしくおっしゃって、まだ暗いうちにお帰りになった。  
 女は、格子を上げたままでいたので、ただ一人端近にいても、
〈どうしよう〉  
 とか、
〈笑われるのではないか〉  
 と、さまざまに思い乱れて横になっているときに、宮から手紙があった。

露むすぶ 道のまにまに 朝ぼらけ 濡れてぞ来つる 手枕の袖
(露が降りた道を歩くうちに夜が明けて 露と別れの涙ですっかり濡れてしまった手枕の袖)

 この手枕の袖のことは、どうということもないが、お忘れにならないで詠んでいらっしゃるのも嬉しい。

道芝の 露におきゐる 人により わが手枕の 袖もかはかず
(道の芝草の露に濡れて起きているあなたのせいで わたしの手枕の袖も涙で乾かない)
〔一九〕
 その夜の月がとても明るく澄んで、女も宮も月を眺めて物思いにふけって夜を明かし、翌朝、宮はいつものようにお手紙を遣わそうとして、
「童は来ているか」  
 とお尋ねになっているとき、女も霜がとても白いのに目が覚まされたのか、

手枕の 袖にも霜は おきてけり 今朝うち見れば 白妙にして
(寝ないで起きていたからわたしの手枕の袖にも涙が凍って霜になったよう 今朝よく見ると真っ白なんです)

 と申し上げた。宮は、
〈悔しい、先を越された〉  
 と思われて、

つま恋ふと おき明かしつる 霜なれば
(妻と思うあなたが恋しくて 起きていて明かしたわたしの涙の霜だから)

 とお詠みになったときに、やっと童が参上したので、宮はご機嫌が悪く童のことをお聞きになるので、取次の者は童に、
「早く参上しないから、ひどく怒っていらっしゃるようだ」  
 と言って、お手紙を渡したので、童は女のところへ持って行って、
「まだこちら様からお手紙をくださらない前に、宮さまはわたしをお呼びになったのですが、今まで参上しなかったとわたしをお責めになります」
 と言って、お手紙を取り出した。
「昨夜の月は素晴らしかったね」  
 とあって、

寝ぬる夜の 月は見るやと 今朝はしも おきゐて待てど 問ふ人もなし
(あなたが寝てしまって見なかった月をごらんになったかと 今朝までずっと起きて待っていたが 便りをくれる人もいない)

〈なるほど童の言うように、宮さまのほうが先に歌を送ろうとなさったらしい〉
 と思うと、嬉しい。

まどろまで 一夜ながめし 月見ると おきながらしも明かし顔なる
(わたしが一睡もしないで眺めていた月を あなたは今朝まで起きて見ていたようにおっしゃるのですね 本当でしょうか)  

 と申し上げて、この童が、
「ひどくお責めになります」  
 と言うのが面白いので、紙の端に、

「霜の上に 朝日さすめり 今ははや うちとけにたる気色見せなむ
(霜の上に朝日が射しているようです 今はもう霜もとけるように 童に打ち解けた様子を見せてください)  

 ひどくしょげているそうです」  
 と書いた。宮から、
「今朝あなたが歌を先に送って得意そうだったのが、憎らしくてたまらない。この童を殺したいと思っているほどで。

朝日影 さして消ゆべき 霜なれど うちとけがたき 空の気色ぞ
(朝日がさせば消える霜なのに なかなか霜が消えそうにない空模様 わたしの機嫌もなおりそうにない)」    

 とあるので、
「殺したいだなんて」  
 と書いて、

君は来ず たまたま見ゆる 童をば いけとも今は 言はじと思ふか
(あなたは来ないばかりか たまに姿を見せる童を生かしておいて 「手紙を届けに行け」ともおっしゃらないつもりですか)  

 と申し上げると、宮はお笑いになって、

「ことわりや 今は殺さじ この童 忍びのつまの 言ふことにより
(もっともです もう童は殺さない 隠し妻のあなたがおっしゃるのだから)

 『手枕の袖』は忘れてしまったようですね」  
 とあるので、女が、

人知れず 心にかけて しのぶるを 忘るとや思ふ 手枕の袖
(誰にもわからないようにあなたのことを想っているのに そんなわたしが手枕の袖を忘れたと思っていらっしゃるのですか)  

 と申し上げると、宮から、

もの言はで やみなましかば かけてだに 思ひ出でましや 手枕の袖
(わたしが手枕の袖と言わなかったら あなたはけっして思い出されなかったでしょう)
〔二〇〕
 こうしてその後二、三日、宮からなんのお便りもくださらない。
〈頼りにできそうにおっしゃったことも、どうなってしまったのか〉  
 と思い続けると、眠ることもできない。目を覚まして横になり、
〈夜もしだいに更けたようだ〉  
 と思う頃、門を叩く音がする。
〈誰だろう、心当たりがないけれど〉  
 と思うが、取次に尋ねさせると、宮からのお手紙だった。思いもしない時刻なので、
〈心が通じたのか〉  
 と嬉しくなって、妻戸を押し開けて手紙を見ると、

見るや君 さ夜うちふけて 山の端に くまなくすめる 秋の夜の月
(見ているだろうかあなたは 夜が更けて山の端に曇りなく澄んでいる秋の夜の月を)  

 思わず歌が口ずさまれて、いつもより身にしみて感じられる。
〈門も開けないで待たせているから、お使いが待ち遠しく思っているだろう〉
 と思って、すぐに返歌を、

ふけぬらむと 思ふものから 寝られねど なかなかなれば 月はしも見ず
(夜が更けただろうと思うものの眠れませんが だからといって月を見れば物思いが増すばかりなので見ません)  

 と詠んだのを、宮は女も月を眺めている歌を返してくると思っていたので意表をつかれた気がして、
〈やはりつまらない相手ではない。なんとか近くにおいて、こういうちょっとした歌を詠ませて聞きたいな〉  
 と、女を邸に移らせることを決心なさった。  
 二日ほど経って、宮は女車のように見せかけてそっとお越しになった。昼などにまだお目にかけたことがないので、恥ずかしいけれど、みっともなく恥じらって隠れているわけにもいかない。
〈それに宮さまがおっしゃるようにお邸に移ることになったら、いつまでも恥ずかしがっていられない〉
 と思って、にじり出た。宮はこの数日ご無沙汰していたことなどをお話しになって、しばらく横になられて、
「わたしが申し上げたとおりに、早く決心なさい。こういう外出はいつも気恥ずかしく、だからといってお伺いしないと気がかりだし、こんな頼りない関係では苦しくてならない」
 とおっしゃるので、
「とにかくお言葉通りにと思っているのですが、
『見ても嘆く
(見てもなほ またも見まくの ほしければ 馴るるを人は 厭ふべらなり/逢えば逢うほど逢いたくなるので 親しくなると人は嫌がるだろう[古今集・読人しらず])』  
 ということがありますから、思い悩んでいるのです」  
 と申し上げると、
「まあ、見ていなさい。
『塩焼き衣
(伊勢のあまの 塩焼き衣 馴れてこそ 人の恋しき ことも知らるれ/伊勢の海人が塩を焼く時に着る衣のように 馴れ親しんでこそ人は恋しくなるでしょう[古今六帖・柿本人麻呂])』  
 ですからね」  
 とおっしゃって、部屋を出て行かれた。 庭先の透垣
(すいがい・垣根)のところに、美しい檀(まゆみ)が少しだけ紅葉したのを、宮はお折りになって、欄干に寄りかかって、
「檀の葉が色づくように、わたしたちの言葉も深くなったね」
 とおっしゃるので、
「白露がほんの少し置くのを見ていた間に・・・」
 と申し上げる女の様子を、宮は、
〈情趣があって素晴らしい〉
 と思われる。宮のご様子もとても心ひかれる。直衣をお召しになり、その下になんとも言えないほど美しい袿を、それも出し袿 にしていらっしゃるのが、理想的に見える。女は、
〈わたしの目まで色っぽいせいかしら〉  
 とさえ思われた。  
 翌日、宮から、
「昨日昼間に伺って、あなたがあきれていらっしゃった様子が辛かったものの、愛しくてならなかった」  
 と言ってこられたので、

「葛城の 神もさこそは 思ふらめ 久米路にわたす はしたなきまで
(葛城の神もわたしのように思ったことでしょう 昼間に久米路に橋を架けるのはみっともないことだと)※役(えん)の行者(ぎょうじゃ)が葛城山と金峰山との間の久米路に橋を架けるよう葛城神に命じたが、容姿が醜いために夜だけ仕事をして、昼はしなかったので橋が完成しなかったという故事をふまえている。  

 恥ずかしくてならなかったです」  
 と申し上げると、折り返し宮から、

おこなひの しるしもあらば 葛城の はしたなしとて さてややみなむ
(わたしに役の行者のような法力があったなら 葛城の神のように あなたが昼間に逢うのを恥ずかしがっているからといって やめてしまうでしょうか)

 などと言って、今までよりしばしばお越しになったりするので、日々の心細さも格段に慰められる気がする。
〔二一〕
 このようにしているうちに、またよくない男たちが手紙を寄越したり、本人たちも家の周りをうろついたりして、悪い噂が立つので、女は、
〈宮さまのところへ行こうかしら〉  
 と思うが、やはり気おくれがしてきっぱりと決心ができない。霜がたいそう白く降りた早朝、女が、

わが上は 千鳥も告げじ 大鳥の はねにも霜は さやはおきける
(わたしの袖に涙の霜が降りたのを千鳥も告げないでしょう 大鳥の羽〔宮さまの袖〕にも霜は降りたでしょうか)※大鳥の羽に、やれな霜降れり やれな 誰かさ言ふ 千鳥ぞさ言ふ 鷃(かやぐき)ぞさ言ふ 蒼(みと)鷺(さぎ)ぞ 京より来てさ言ふ[風俗歌・おほとり]をふまえている。  

 と申し上げると、宮は、

月も見で 寝にきと言ひし 人の上に おきしもせじを大鳥のごと
(月も見ないで寝たとおっしゃったあなたの袖には霜は降りないでしょう 起き明かした大鳥の羽〔わたしの袖〕のようには)  

 とおっしゃって、すぐに夕暮れにお越しになった。
「この頃の山の紅葉はきっと美しいでしょう。さあ、いらっしゃい。見に行きましょう」  
 とおっしゃるので、
「とてもよいことのようです」  
 と申し上げて、約束したその日になって、
「今日は物忌です」  
 と申し上げて家にとどまっていると、宮から、
「ああ、残念だ。物忌が終わったら必ず」  
 と返事があったが、その夜の時雨は、いつもより強い雨音が木々の木の葉が残りそうもないほどに聞こえるので、女は目を覚まして、
「風の前なる・・・
(寿命ハナホ風前ノ灯燭ノ如シ/仏典からの引用)」  
 などと独り言を言って、
〈紅葉はみな散ってしまうだろう。昨日見に行かなかったから〉  
 と残念に思いながら夜を明かしたその早朝、宮から、

「神無月 世にふりにたる 時雨とや 今日のながめは わかずふるらむ
(十月には振るといわれる時雨 あなたも今日の長雨をわたしの物思いの涙雨とは思わないでしょう)

 そうだとすると残念です」
 とおっしゃってきた。女は、

時雨かも なににぬれたる 袂ぞと 定めかねてぞ われもながむる
(時雨に濡れたのか 何に濡れた袂なのかと決めかねてわたしも物思いに沈んでいます)  

 と詠んで、
「それから、

もみぢ葉は 夜半の時雨に あらじかし 昨日山べを 見たらましかば
(紅葉の葉は昨夜の時雨で散って残っていないでしょう 昨日山に行って見ていたら・・・)  

 とお返事したのを、宮はごらんなって、

そよやそよ などて山べを 見ざりけむ 今朝はくゆれど なにのかひなし
(そうですよ どうして山へ行かなかったのでしょう 今朝になって悔やんでもなんにもなりません)  

 と書かれて、紙の端に、

あらじとは 思ふものから もみぢ葉の 散りや残れる いざ行きて見む
(紅葉はもうないとは思いますが 散り残ってるのがあるかもしれません さあ行って見ましょう)  

 とおっしゃってきたので、

「うつろはぬ 常磐の山も もみぢせば いざかし行きて とふとふも見む
(色の変わらない常磐の山が紅葉するなら 急いで行って見るでしょうが)

  今行っても無駄でしょう」
 先日宮がいらっしゃったときに、
「差し障りがあってお逢いできません」
 と申し上げたのを思い出していらっしゃって、その後で、

高瀬舟 はやこぎ出でよ さはること さしかへりにし 蘆間わけたり
(高瀬舟〔宮さま〕早く漕ぎだしていらっしゃってください 障りがあってお帰りになった蘆の障害は取り除きましたから)※蘆は舟の進行の障害  

 と申し上げたのを、お忘れになったのか、

山べにも 車に乗りて 行くべきに 高瀬の舟は いかがよすべき
(山の紅葉は車に乗って行くはずなのに 高瀬舟でどうして行くことができるでしょう)  

 とあるので、

もみぢ葉の 見にくるまでも 散らざらば 高瀬の舟の なにかこがれむ
(紅葉が車で見にくるまで散らないでいたら どうして高瀬舟〔宮さま〕を恋い焦がれたりするでしょう)  

 とお返事すると、その日も暮れてから宮はいらっしゃって、女の家が方塞がりなので、そっと女を連れだされた。
〔二二〕
 この頃、宮は四十五日の方違えをなさるというので、いとこの三位(藤原兼隆)の家にいらっしゃる。いつもとは違う所でさえあるので、女は、
「みっともないことを」  
 と申し上げるが、宮は無理に連れていらっしゃって、女を車に乗せたまま誰もいない車宿りに車を引き入れて、ごじぶんは邸の中へお入りになったので、女は恐ろしく思う。  
 人が寝静まってから宮はいらっしゃって、車にお乗りになって、さまざまなことをお話しになって約束なさる。事情を知らない宿直の男たちがあたりをめぐり歩いている。いつものように右近の尉と小舎人童が車の近くに控えている。宮は女を身にしみて愛しく思われるにつれて、女に対していい加減に過ごしてきた今までの態度を悔やまれるのも、身勝手といえる。  
 夜が明けると、宮はすぐに女の家まで送っていらっしゃって、
「邸の人が起きないうちに」  
 と急いでお帰りになり、早朝に、   

寝ぬる夜の 寢覚めの夢に ならひてぞ ふしみの里を 今朝は起きける
(あなたと一緒に寝た夜以来 夜目が覚めてしまって 伏見の里なのに 今朝は臥さないで起きていました)

 お返事は、 

その夜より わが身の上は 知られねば すずろにあらぬ 旅寝をぞする
(宮さまに初めてお逢いした夜から わたしの身の上がどうなるのかわからないので 車宿りという思いもしない所で旅寝をしてしまいました)  

 と申し上げた。
〔二三〕
 女は、
〈こんなに親身にもったいないほどのお気持ちを、知らないふりをして強情をはっていていいのだろうか。ほかのことはたいしたことない〉  
 などと思うので、
〈宮さまのお邸に行こう〉  
 と決心した。邸に行った場合、実際に起こる問題などを言う人たちもいるが、聞く気もしない。
〈辛い身の上だから、ご縁のあるままにお邸に行こう〉  
 と思う一方で、
〈この宮仕えはもともとわたしの望みではなく、巌の中に住みたい(出家したい)けれど、そこでまた辛いことがあったらどうしよう。出家しても本心からではないように、人は思ったり言ったりするだろう。やはりこのまま過ごそうか。近くにいて親(大江雅致や姉妹のご様子も見てあげたいし、また昔の人
(橘道貞)の形見である子(小式部内侍)の将来も見届けたい〉  
 と決心したので、
〈宮さまに疑われたらつまらない。邸に行くまでは、嫌な噂はなんとかして聞かれないようにしよう。おそばにいればいくらなんでもわたしのことをわかってくださるだろう〉  
 と思って、言い寄ってきた男たちの手紙にも、
「いません」  
 などと侍女に言わせて、まったく返事もしない。 
 宮からお手紙がある。見ると、
「〈まさかそんなことはない〉
 と思ってあなたを信じていたのがばかだった」
 などと、多くのことはお書きにならないで、
「いさ知らず
(人はいさ 我はなき名の をしければ 昔も今も 知らずとを言はむ/あなたはともかく わたしは浮名の立つのは嫌だから あなたのことを昔も今も知らないと言おう[古今集・在原元方(ありわらのもとたか)])」  
 とだけ書いてあるので、胸がしめつけられ、驚きあきれるばかり。とんでもない作り話が今までにもたくさん出てきたが、
〈どう噂されようと、事実でないことはどうしようもない〉  
 と思って過ごしてきたのに、この手紙は本気でおっしゃっているので、
〈お邸に行くのを決心したことさえかすかに聞いた人もいるだろうに、これではみっともない目にあいそうだ〉  
 と思うと悲しく、お返事を申し上げる気にもなれない。また、
〈どういう噂を聞かれたのかしら〉  
 と思うと恥ずかしくて、お返事も申し上げなかったので、宮は、
〈わたしが出した手紙を恥ずかしいと思っているようだ〉  
 と思われて、
「どうしてお返事もくださらないのです。やはり噂は本当だったと思ってしまう。ずいぶん早い心変わりですね。人があなたのことを噂していたので、まさかとは思いながら、
『思はましかば
(人言は あまの刈る藻に しげくとも 思はましかば よしや世の中/人の噂が海人の刈る藻のように多くても 二人の間に愛があればそれでいい[古今六帖・伊勢])』  
 という気持ちで申し上げただけです」  
 と書いてあるので、女は少しほっとして、宮のご様子も知りたく、どんな噂を聞かれたのかも聞きたくて、

今の間に 君来まさなむ 恋しとて 名もあるものを われ行かむやは
(今すぐに来てください 恋しいからといって 世間の噂もありますから 女のわたしのほうから行けるでしょうか)  

 と申し上げると、

「君はさは 名のたつことを 思ひけり 人からかかる 心とぞ見る
(あなたはわたしとのことで噂になるのを心配しているのですね 相手次第でそんな気持ちになるのがわかりました)

 噂が立つどころか腹が立ちます」
 とある。女は、
〈わたしがこんなふうに困っているのをわかっていて、からかっていらっしゃるのだろう〉  
 とは思うが、やはり辛くて、
「やはりとても苦しくて。なんとかしてわたしの気持ちをわかっていただきたいのです」  
 と申し上げると、宮から、

「うたがはじ なほ恨みじと 思ふとも 心に心 かなはざりけり
(疑わない もう恨んだりしないと思っても じぶんの心ながら思うようにはいかない)

 お返事は、

恨むらむ 心はたゆな かぎりなく 頼む君をぞ われもうたがふ
(わたしをお恨みになっている心は絶やさないでください 限りなく信頼しているあなたをわたしも疑っているのですから)  

 と申し上げているうちに、日が暮れたので宮がいらっしゃった。宮は、
「まだ人があなたの噂をしているので、まさかとは思いながらあのような手紙を書いたのですが、こんなことを言われたくないと思われるなら、さあ、わたしのところへいらっしゃい」  
 などとおっしゃって、夜が明けるとお帰りになった。
〔二四〕
 邸へ移ることばかりいつもおっしゃってくるが、お越しになることは難しい。雨がひどく降り風が激しく吹く日にも手紙をくださらないので、
〈人が少ない家の風の音を思いやってもくださらないようだ〉  
 と思って、日暮れにお手紙をさしあげる。

霜がれは わびしかりけり 秋風の 吹くには荻の 音づれもしき
(霜枯れはわびしいものです 秋風の吹くころは荻の葉音がして あなたの訪れもありましたのに)  

 と申し上げると、宮からお返事があったが、その手紙を見ると、
「とても恐ろしそうな風の音をどう聞いていらっしゃるのかと、かわいそうで。

かれはてて われよりほかに 問ふ人も あらしの風を いかが聞くらむ
(枯れ果てた わたしよりほかに訪ねる人もいない家で あなたは嵐の音をどんな気持ちで聞いているでしょう)  

 思っているだけで伺えないのが辛いです」  
 とある。
〈やはり返事があった〉  
 と思うと嬉しくて、宮は方違えの物忌で、人目につかない所にいらっしゃるというので、この前のようにお迎えの車が来たので、
〈今はもうおっしゃるままに〉  
 と思うので、宮のところへ行った。 のんびりと昼も夜もお話しして、いつもの侘びしさも紛れるので、
〈このまま邸にあがりたい〉  
 と思うが、宮の物忌も終わったので、いつものじぶんの家に帰って、今日はいつもより別れたのが名残惜しく恋しく思い出されて、どうしようもなく苦しく思われるので、お手紙を送る。

つれづれと 今日数ふれば 年月の 昨日ぞものは 思はざりける
(今までのことを振り返ってみると 昨日だけが思い悩むこともありませんでした)  

 宮はごらんになって、女を愛しく思われて、
「わたしも同じです」
 とあって、

思ふこと なくて過ぎにし 一昨日と 昨日と今日に なるよしもがな
(思い悩むこともなく過ごした一昨日と昨日とが 今日になってくれる方法はないだろうか)  

 と思うけれど、このままではどうしようもない。やはりわたしのところへ来る決心をしてください」  
 とあるが、女はひどく気が引けて、きっぱりと決心がつかないまま、ただぼんやりと物思いにふけって日々を過ごしている。
〔二五〕  
 さまざまに色づいていた木の葉もすっかり散って、空も明るく晴れていたのに、しだいに沈んでゆく夕日の光が心細く見えたので、いつものように宮に手紙を送る。

なぐさむる 君もありとは 思へども なほ夕暮は ものぞかなしき
(慰めてくださるあなたがいらっしゃると思っても やはり夕暮れはもの悲しいです)

 とあるので、宮は、

「夕暮は たれもさのみぞ 思ほゆる まづ言ふ君ぞ 人にまされる
(夕暮れは誰もそのようにもの悲しく思われます まずそれを口になさったあなたは 誰よりももの悲しいのでしょう)  

 と思うと愛しくてならない。今すぐお伺いしたい」  
 とある。  
 翌日のまだ朝早く、霜がとても白く降りているときに、
「今、どうしていますか」  
 と宮から手紙があったので、

起きながら 明かせる霜の 朝こそ まされるものは 世になかりけれ
(あなたのお越しを待って夜を明かした霜が降りている朝ほど世の中で悲しいことはありません)  

 などとお手紙を交わす。宮はいつものように心にしみることをお書きになって、

われひとり 思ふ思ひは かひもなし おなじ心に 君もあらなむ
(わたし一人であなたを恋しく想っていても甲斐がない わたしと同じ心であなたもわたしを想ってください)  

 お返事は、

君は君 われはわれとも へだてねば 心々に あらむものかは
(あなたはあなた わたしはわたしというように分け隔てはしませんから 二人の心が別々なはずがありません)  

 こうしているうちに、女は風邪をひいたのか、ひどく重いわけではないが気分が悪いので、宮はお見舞いの手紙をくださる。
「気分はどうですか」  
 とお尋ねになったので、
「いくらかよくなりました。もうしばらく生きていたいと思うのも罪深いことで。それにしても、

絶えしころ 絶えねと思ひし 玉の緒の 君によりまた 惜しまるるかな
(訪れが途絶えた頃 絶えてしまえと思った命ですが 宮さまが優しいお見舞いをくださるので また命が惜しくなりました)

 と申し上げたところ、宮のお返事は、
「よかった、ほんとうによかった」  
 と書いてあって、

玉の緒の 絶えむものかは ちぎりおきし なかに心は 結びこめてき
(あなたの命が絶えることなんてない 二人が契った誓いのなかに 心はしっかり結びつけておいたから)
〔二六〕
 こんなことを言っているうちに、今年も残り少なくなったので、
〈邸に行くのは春になってから〉  
 と思う。十一月のはじめ頃、雪のひどく降る日に、宮から、

神代より ふりはてにける 雪なれば 今日はことにも めづらしきかな
(神代から降っている珍しくもない雪だけれど 今日は格別新鮮に感られます)

 お返事は、

初雪と いづれの冬も 見るままに めづらしげなき 身のみふりつつ
(初雪が降った と毎年冬のたびに珍しく見るうちに 珍しくもないわたしだけが古くなっていきます)  

 などととりとめない歌をやりとりして日々を過ごす。  
 宮からお手紙がある。
「ご無沙汰しているので、お伺いしてと思ったのですが、人々が漢詩を作るようなので」
 とおっしゃってきたので、

いとまなみ 君来まさずは われ行かむ ふみつくるらむ 道を知らばや
暇がなくてあなたがいらっしゃれないなら わたしが行きましょう 漢詩の道とお邸へ行く道を知りたいです)  

 宮はおもしろく思われて、

わが宿に たづねて来ませ ふみつくる 道も数へむ あひも見るべく
(わたしの家に訪ねてきてください 漢詩の道も家まで来る道も教えましょう お逢いできるように)

  いつもより霜が真っ白に降りている朝に、宮から、
「この霜をどうごらんになりますか」  
 とおっしゃってきたので、

冴ゆる夜の かずかく鴫は われなれや いく朝霜を おきて見つらむ
(冷えこむ夜に何度も羽を掻いている鴫はわたしなのでしょうか 何度あなたの訪れを待って起きていて朝の霜を見たことでしょう)※暁の 鴫の羽がき 百羽がき 君が来ぬ夜は 我ぞ数かく/夜明け前に鴫が何度も嘴で羽根を掻いているように あなたがいらっしゃらない夜 わたしは何度も手足を動かして眠れないでいる[古今集・読人しらず]を前提にしている。

 その頃雨が激しく降っていたので、

雨も降り 雪も降るめる このころを 朝霜とのみ おきゐては見る
(雨が降り雪も降るこの頃は お越しがないのは愛情が浅いのだと起き明かして朝の霜を見ています)  

 その夜、宮はお越しになって、いつものようにとりとめもないお話をなさりながらも、
「わたしの邸にあなたをお連れした後で、わたしがよそへ行ったり、法師になったりして、お逢いできなくなったら、がっかりなさるでしょうね」  
 と心細くおっしゃるので、
〈どういうお気持になられたのだろう。ほんとうに出家などということが起きるのかしら〉  
 と思うと、とても悲しく思わず泣いてしまった。みぞれ混じりの雨が、静かに降っているときである。少しも眠らないで、この世だけでなく来世のことまでしみじみとおっしゃってお約束になる。
〈情が深く、どんなことも嫌がらないで聞いてくださる方だから、わたしの心の中もごらんにいれようとお邸にあがる決心をしたのに、宮さまが出家なさるのなら、わたしも前から思っていたように尼になるしかない〉  
 と思うと悲しくて、なにも言わないで、しんみり泣いている様子を宮はごらんになって、

なほざりの あらましごとに 夜もすがら
(いい加減に将来を予想しただけなのに あなたは一晩中)  

 とおっしゃるので、

落つる涙は 雨とこそ降れ
(わたしは今夜の雨のようにずっと涙を流しています)  

 宮のご様子も、いつもより心細い頼りにならないことをいろいろおっしゃって、夜が明けたのでお帰りになった。女は、
〈お邸にあがったところで特別頼もしいことがあるわけではなく、日々の淋しさを慰めることができると思って決心したのに、今さらどうしたらいいのだろう〉  
 などと思い乱れて、宮に手紙を送る。

「うつつにて 思へば言はむ 方もなし 今宵のことを 夢になさばや
(現実のことだと思うと悲しくてならない 昨夜のことは夢にしてしまいたい)

 と思うのですが、夢にはできないことで」  
 と書いて、紙の端に、

「しかばかり 契りしものを さだめなき さは世の常に 思ひなせとや
(あれほど約束なさったのに 出家なさるのは定めない世の常と思えということでしょうか)  

 情けないことで」  
 と書き添えたところ、宮はそれをごらんになって、
「まずわたしのほうから先にお手紙をと思っていました。

うつつとも 思はざらなむ 寝ぬる夜の 夢に見えつる 憂きことぞそは
(現実のこととは思わないで 出家のことは二人で寝た夜に見た悪い夢なのです)

 世の常と思えだなんて、気が短いね、  

ほど知らぬ いのちばかりぞ さだめなき 契りてかはす 住吉の松
(いつまで生きられるかわからない命だけが定めないもの 契り交わしたわたしたちの仲は 住吉の松のようにいつまでも変わらない)  

 愛しい人、仮の話などもうけっしてしない。じぶんで言い出したこととはいえ、辛くてならない」  
 とお返事があった。
〔二七〕
 女はその後、なにもかも悲しく思われ、嘆いてばかりいる。
〈早くお邸にあがる準備をしておけばよかった〉  
 と思う。昼頃、宮から手紙がある。見ると、

あな恋し 今も見てしが 山がつの 垣ほに咲ける やまとなでしこ
(ああ恋しい 今すぐに逢いたい 山里に住む人の垣根に咲く大和(やまと)撫子(なでしこ)のようなあなたに)※[古今集・読人しらず]をそのまま引用。

 女は、
「まあ、狂おしいほどね」  
 と思わず声が出て、

恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに
(恋しいのなら来てごらんなさい 恋の道は神様が禁止なさるものではないのですから)※[伊勢物語・七十一段]をそのまま引用。  

 と申し上げると、宮は思わず笑ってごらんになる。この頃は、お経を習っていらっしゃるので、

あふみちは 神のいさめに さはらねど 法のむしろに をればたたぬぞ
(あなたと逢うのは神様は禁止なさってはいないけれど わたしは今 仏法の席にいるので出て行かれないのです)

 お返事を、

われさらば 進みてゆかむ 君はただ 法のむしろに ひろむばかりぞ
(それならわたしのほうから行きましょう あなたはそこで仏法の道を広めていらっしゃればいいのです)  

 なとど申し上げて過ごすうちに、雪がたくさん降って、降りかかった木の枝にお手紙を結びつけて、

雪降れば 木々の木の葉も 春ならで おしなべ梅の 花ぞ咲きける
(雪が降ったので 木々の木の葉もまだ春ではないのに みな真っ白に梅の花が咲きました)  

 とおっしゃってきたので、

梅ははや 咲きにけりとて 折れば散る 花とぞ雪の 降れば見えける
(梅がもう咲いたのかと思って折ったら散ってしまいました 雪が降ったのが梅の花のように見えたのですね)  

 翌日朝早く、宮から、

冬の夜の 恋しきことに 目もあはで 衣かたしき 明けぞしにける
(冬の夜にあなたが恋しくて眠れなく 独り寝の淋しさのまま夜が明けてしまった)

 お返事に、
「いやもう、わたしのほうは、

冬の夜の 目さへ氷に とぢられて 明かしがたきを 明かしつるかな
(冬の夜に目まで涙で凍ってしまって 明かしにくい夜を明かしました)」  

 などと詠み交わすことによって、いつもの淋しさを慰めて過ごすというのも、なんともはかないことである。
〔二八〕
 宮はなにをお考えなのだろう、心細いことをおっしゃって、
「やはりわたしはいつまでも生きてはいられないのだろうか」  
 と書いてあるので、

呉竹の 世々のふるごと 思ほゆる 昔がたりは われのみやせむ
(代々語り継がれてきた古い物語を思わせるようなわたしたちの思い出話を わたし一人でするというのでしょうか)  

 と申し上げると、

呉竹の 憂きふししげき 世の中に あらじとぞ思ふ しばしばかりも
(嫌なことばかり多い世の中に生きていたくないのです ほんのしばらくでも)  

 などとおっしゃってきて、その一方で宮は、女を人目につかないで住まわせておける所などを決めて、
〈慣れない所だからきまり悪く思うだろう。邸の者も聞きづらいことを言うだろう。今はもう、わたしが行って連れてこよう〉
 と思われて、十二月十八日、月がとても明るいときに、女の家にいらっしゃった。 いつものように、
「さあ、いらっしゃい」
 とおっしゃるので、女は、
〈今夜だけの外泊だろう〉  
 と思って一人車に乗ると、宮が、
「誰か連れていらっしゃい。できることならゆっくりお話ししましょう」  
 とおっしゃるので、
〈いつもはこんなことはおっしゃらないのに、もしかしてこのまま邸にと思っていらっしゃるのかしら〉  
 と思って、侍女を一人連れて行く。  
 いつもの所ではなく、目立たないように侍女なども置いて住みなさいというようにしつらえてある。
〈やはりそうだったのか〉  
 と思って、
〈なにも大げさにしてお邸にあがることもない。かえって、いつの間にやって来たのだろう、と人も思ってくれたほうがいい〉  
 などと思って、夜が明けると、櫛の箱などを家に取りに行かせた。  
 宮がいらっしゃるというので、しばらく女の部屋の格子は上げない。暗いのが恐ろしいわけではないが鬱陶しいので、宮が、
「すぐにあの北の方に移してあげよう。ここでは人気が近いから趣がない」
 とおっしゃるのを、格子を全部下ろしてひそかに聞いていると、
「昼は女房たちや、院の殿上人などが集まってくるので、このままではいられないでしょう。近くに来たばかりに失望されるだろうと思うと辛いのです」
 とおっしゃるので、
「それをわたしも心配していました」
 と申し上げると、宮はお笑いになって、
「まじめな話ですが、夜などわたしがあちらにいるときは用心してください。よくない者たちが覗いたりします。もう少ししたら、あの宣旨の部屋にでも行ってごらんなさい。だいたいがあちらには人も寄ってこない。そこにでもいてください」  
 などとおっしゃって、二日ほどして宮の北の方の住む北の対に女を連れて行こうとなさったので、女房たちは驚いて北の方に申し上げると、北の方は、
「こういうことがなくてもとんでもないことなのに。あれはたいした女でもない。それなのにこんなひどいことを」  
 とおっしゃって、
〈特別に愛していらっしゃるから秘かに連れていらっしゃったのだろう〉  
 と思うと、不愉快で、いつもより不機嫌にしていらっしゃるので、宮は困ってしまって、しばらくは北の方の部屋に入らないで、女房たちの言うことも聞きづらく、女の様子も気がかりなので、女の部屋にいらっしゃる。  
 北の方が宮に、
「これこれのことが
(省略文)あったそうですが、どうして話してくださらないのです。妻のわたしが止めることができることでもありません。でも、これほど人並でない扱いをされて世間の物笑いになるのは恥ずかしくてなりません」
 と泣く泣くおっしゃると、宮は、
「人を使うからには、あなただって愛さないことはないでしょう。ところが、あなたのご機嫌が悪くなるに従って、中将
(北の方付きの女房)などがわたしを憎らしく思っているのが面倒だから、髪などもとかせようと思って呼んだのです。ここでもお使いになったらいい」  
 などとおっしゃるので、北の方は不愉快でならないが、なにもおっしゃらない。
〔二九〕
 こうして何日か経ったので、女はお仕えするのに慣れて、昼間も宮のおそばに仕えて、御髪などもお漉きして、宮もいろいろとお使いになる。女を少しもそばから離されない。北の方のお部屋に行かれるのもだんだん稀になっていく。北の方がお嘆きになること限りない。  
 年が改まって正月一日、冷泉院の拝賀の式に、廷臣たちが大勢参上なさる。宮もいらっしゃってるのを拝見すると、とても若々しく美しく、多くの人々の中で優れていらっしゃる。宮が若々しく美しいにつけても、女はじぶんが恥ずかしく思われる
(宮は二十四歳、女は二十七歳くらい)。北の方の女房たちが端に出て見物しているが、廷臣たちを見ないで、まず宮の女を見ようと、障子に穴を開けて騒いでいるのは、なんとも見苦しい。  
 日が暮れると、儀式は終わって宮はお帰りになった。宮の見送りに上達部が大勢お越しになって、管弦の遊びをなさる。とても華やかで趣があるにつけても、わびしかったじぶんの家がまず思い出される。  
 こうしてお仕えしているうちに、下仕えの者たちの中にも嫌なことを言うのを宮はお聞きになって、
〈こんなふうに下仕えが噂するほど北の方はあの人を悪く思ったり言ったりすべきではない。不愉快だ〉  
 と気に入らないので、北の方のお部屋にお入りになることもめったにない。女はこのように宮が北の方に疎遠なのもいたたまれない気がするが、
〈どうしようか、どうしようもない、今はもうどうなろうと宮さまのなされるままに〉
 と思ってお仕えしている。
〔三〇〕
北の方の姉君(藤原済時の長女、娍子・せいし)で、東宮の女御としてお仕えしていらっしゃる方が、里帰りしていらっしゃるときに、北の方にお手紙がある。
「どうしたというのです。近頃人が噂していることは本当ですか。わたしまで人並みに扱われていない気がします。夜にでもここへいらっしゃい」  
 と書いてあるので、
〈これほどでもないことでも、人は噂するのに、まして今度のことは〉  
 と思われると、とても情けない気がして、お返事に、
「お手紙拝見しました。いつもうまくいっていなかった夫婦の仲が、この頃は見苦しいことまで起きまして。ほんのわずかな間でもお伺いして、若宮さまたちを拝見し、気持ちを慰めたいと思います。迎えに車を寄こしてください。わたしも宮がなにをおっしゃっても聞かないで出ようと思っていましたから」
 などと申し上げて、里帰りに必要な品々を取り揃えていらっしゃる。  
 汚い所などの掃除をさせられて、
「しばらく里にいましょう。このままここにいてもおもしろくないし、宮さまにしても、わたしの部屋にお越しにならないのを心苦しく思っていらっしゃるでしょうから」
 とおっしゃると、女房たちは、
「ほんとうにあきれたことです。世間の人は宮さまを軽蔑して悪く言っています」
「女がお邸にあがったときも、宮さまがわざわざ出かけて迎えられたのです」
「まったく見てはいられない待遇です」
「あのお部屋にいます。宮さまは昼でも三度も四度も通われるそうです」
「しばらくの間、宮さまをしっかりと懲らしめておあげなさい。あまりにも北の方さまに無関心ですから」  
 などと宮を憎んで言い合っているので、北の方はひどく辛く思われる。
〈もうどうなってもいい。近くにいて会ったり話したりしたくない〉  
 と思って、
「お迎えに来てください」  
 とおっしゃっていたので、兄弟たちがいらっしゃって、
「女御さまからのお迎えです」  
 と申し上げると、北の方は、
〈いよいよ迎えの車が来たな〉  
 と思われた。  
 北の方の乳母がお部屋の汚れ物などを片づけさせているのを聞いて、宣旨が、
「これこれのことで
(省略文)北の方さまはお里にお帰りになるそうです。東宮さま(兄)がお聞きになると困ることになります。お部屋に行かれて北の方さまをお止めください」  
 と慌てて宮に申し上げているのを見ると、女は心苦しく辛いけれど、じぶんからとやかく言えることではないので、ただ黙って聞いていた。
〈聞きづらいことを言われる間は、しばらく退出していたい〉  
 と思うが、退出しても嫌なことを言われそうだから、そのままお仕えしているが、
〈やはり物思いの絶えない身の上だ〉
 と思う。
 宮が北の方のお部屋に入ると、北の方はなにげないふうにしていらっしゃる。宮が、
「本当ですか、女御さまの所へ行かれると聞いたのですが。どうして車の用意などもわたしにおっしゃらないのです」  
 とおっしゃると、北の方は、
「いえ、別に。あちらからお迎えが来たものですから」  
 と言って、後はなにもおっしゃらない。  
 宮の北の方のお手紙や、女御さまのお言葉は、実際はこんなものではない、それらしく作って書いたようだ、とわたしが書き写した元の本には書いてある。
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