『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場 三澤憲治訳『真訳 源氏物語』 『真訳 源氏物語』現代語訳キーポイント 『源氏物語』ここが素晴らしい!
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『紫式部日記』
上巻
〔一〕土御門邸の秋―寛弘五年七月中旬
 秋の気配が深まるにつれて、土御門のお邸(左大臣藤原道長の邸宅)の様子は、言いようもなく風情がある。池のあたりの木々の梢や、遣水(やりみず)のほとりの草むらは、それぞれ一面に色づいて、およそ空の様子も美しいのに引き立てられて、僧たちの不断の読経の声々も、いっそうしみじみと身にしみる。  
 しだいに涼しくなってきている風の様子に、いつもの絶え間ない遣水の音が、夜通し読経の声と混じりあって聞こえる。  
 中宮さま
(道長の長女彰子中宮)も、おそばにお仕えする女房たちが、とりとめない話をするのをお聞きになりながら、(妊娠九ヶ月の身重で)苦しくしていらっしゃるはずなのに、さりげなく隠していらっしゃる様子などが立派なのを、いまさら称えるまでもないことだが、憂世のなぐさめには、こういう素晴らしい方には求めてでもお仕えすべきだと、日ごろのふさいだ気分とはうって変わって、たとえようもなくすべての憂いをを忘れているじぶんは、考えてみればとても矛盾している。
※土御門邸(左大臣藤原道長の邸宅)の景観描写。道長の長女彰子中宮は七月十六日夜から里下りしている。二十一歳で妊娠九ヶ月の身重。十二人の僧が中宮の安産祈願のため、「大般若経」「最勝王経」「法華経」を読誦。この「紫式部日記」の冒頭のように、紫式部には、現象に従う心情と、本質を見通す理性との共存がある。
〔二〕五壇の御修法(ごだんのみずほう)
 まだ夜深いころの月が曇って、木の下が暗いのに、
「御格子を上げましょう」
「女官
(下級の官女)はまだ控えていないでしょう」
「女蔵人が上げて」
 などと言い合っているうちに、後夜の鉦がはっと驚くように鳴って、五壇の御修法は定刻の勤行を始めた。われもわれもと声を張り上げている伴僧の声々が、遠く近く響きあって聞こえてくるのは、荘厳で、尊い。  
 観音院の僧正が、東の対から二十人の伴僧を率いて、寝殿へ御加持に行かれる足音で、渡り廊下の床板がどんどんと踏み鳴らされるのさえ、ほかのときの雰囲気とは違っている。法住寺
(ほうじゅうじ)の座主は馬場殿へ、浄土寺(じょうどじ)の僧都は文殿(ふどの)へと、お揃いの法衣姿で、立派な唐風の橋をいくつも渡って、木々の間を見え隠れしながら帰ってゆくときも、ずっと遠くまで見ていたい気がして、感慨深い。東の対ではさいさ(斎祇の誤りか)阿闍梨が、西壇の大威徳明王(だいいとくみょうおう)を礼拝して、腰をかがめている。  
 女官たちが出仕してくると、夜も明けた。
〔三〕朝露のおみなえし
 渡り廊下の戸口のそばのわたしの部屋で外を眺めていると、うっすらと霧がかかった朝の、露もまだ落ちないころなのに、殿(藤原道長)が庭を歩かれて、御随身(みずいじん)を呼ばれて、遣水のごみを取り除かせられる。渡殿の橋の南側にある女郎花(おみなえし)が真っ盛りなのを一枝お折りになって、几帳越しにわたしに見せられるお姿の、こちらが恥ずかしくなるほど立派なのにくらべ、わたしの寝起きの顔のみっともなさが思い知らされるので、
「この花の歌、遅くなってはいけないだろうな」
 と殿がおっしゃったのをよいことにして、硯のそばに寄った。

をみなえし さかりの色を 見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ
(女郎花の盛りの美しい色を見ますと 露がわけへだてをして置いてくれないわたしの容貌の衰えが思い知らされます)

「おお早い」
 とにっこりされて、殿は硯を取り寄せになる。

白露は わきてもおかじ をみなへし こころからにや 色の染むらむ
(白露はなにもわけへだてしているわけではない 女郎花はじぶんの心から美しくなろうとしているからだろう 女は心のもちようで美しくなれるよ)
※女郎花を見せる趣向や歌のやり取りは、単なる主人と女房の関係か、それともそれ以上の関係か?
〔四〕殿の子息三位の君
 しっとりした夕暮れに、宰相の君(藤原道綱の娘豊子。式部と最も親しい女房の一人)と二人で話をしていると、殿のご子息の三位の君(道長の長男頼通十七歳)がいらっしゃって、簾の端を引き上げて、お座りになる。年齢のわりにはずっと大人びて、奥ゆかしいご様子で、
「女はやはり、気立てのいいとなるとめったにいないものだね」
 などと、男女関係の話をしんみりとしていらっしゃる様子は、
「『幼い』と世間の人が侮っているのはよくないことだ」  
 と、こちらが恥ずかしくなるほど立派に見える。あまり打ち解けた話にならない程度で、
「おほかる野辺に
(女郎花 おほかる野辺に 宿りせば あやなくあたの 名をや立ちなむ/女という名を持つ女郎花の多い野原に泊まったら 別に多くの女と寝たというわけでもないのに 理不尽にも浮気者だという浮名が立つだろう[古今集・小野美材])
 と口ずさんで、退出なさった様子こそ、物語で褒めている男君そっくりのような気がした。  
 このくらいのちょっとしたことで、後々ふと思い出されることもあるし、その時はおもしろいと思ったことでも時がたつと忘れてしまうことがあるのは、いったいどういうわけなのだろう。
※朝の道長の戯れと夕の頼通の端正なふるまい。この父子の対照は、物語の光源氏と夕霧の対照になぞらえられる。
〔五〕御盤のさま
 播磨守(平生昌/たいらのなりまさか)が、碁に負けて饗応をした日、わたしはちょっと里に退出していたので、後日に碁盤の様子などを拝見したら、碁盤の華足(花形の脚)などがいかにも風流に作られていて、洲浜の波打ち際の水に次の歌が書きまぜてあった。

紀の国の しららの浜にひろふてふ この石こそは いはほともなれ
(紀伊の国の白良の浜で拾うというこの碁石こそは 中宮の御代とともに末長くあって 大きな巌となりますように)

 こんなときの扇なども、趣向を凝らしたものを、そのころ臨席した女房たちは持っていた。
六〕宿直(とのい)の人々―八月二十日過ぎ
 八月二十日過ぎの頃からは、上達部や殿上人たちで、当然お邸に伺候する人々は、みな宿直することが多くなって、渡殿の橋廊の上や、対屋の簀子などに、みなうたた寝をしては、とりとめもなく管弦の遊びをして夜を明かす。琴や笛の演奏などは、未熟な若い人たちの読経くらべや今様歌なども、こういう場所柄としては、おもしろかった。中宮さまは、中宮の大夫(藤原斉信/ただのぶ)、左の宰相の中将(源経房/つねふさ)、兵衛の督(かみ)(源憲定)、美濃の少将(源済政/なりまさ)などと一緒に、演奏を楽しまれる夜もある。だが、表立っての管弦のお遊びは、殿になにかお考えがあるのだろう、お催しにはならない。
 この数年、実家にもどっていた女房たちが、ご無沙汰していたのを思い起こして、参り集まってくる様子も騒がしくて、その頃はしんみりしたこともない。
〔七〕宰相の君の昼寝姿―八月二十六日
 八月二十六日、御薫物の調合が終わってから、中宮さまは、女房たちにもお配りになる。お香を練り丸めていた女房たちが、おすそわけにあずかろうと、御前に大勢集まっていた。
 中宮さまの御前から下がって部屋にもどる途中、弁の宰相の君
(藤原道綱の娘豊子)の部屋をちょっとのぞいてみると、ちょうどお昼寝をなさっているときだった。萩や紫苑の色とりどりの袿に、濃い紅の艶やかな打衣をはおって、顔は襟の中に入れて、硯箱を枕にして寝ていらっしゃる。その額がとても可愛らしくなよやかで美しい。まるで絵に描いてあるお姫様のようなので、口を覆っている袖を引っぱって、
「まるで、こまのの物語の女君のよう」
 と言うと、宰相の君は目をあけて、
「気でも狂ったの、寝てる人を思いやりもなく起こすなんて」
 と言って、少し起き上がられた顔が、思わず赤くなっていらっしゃるなど、ほんとうにどこまでも美しかった。  
 ふだんでも美しい人が、時が時なので、特別に美しく見えた。
※昼寝姿に物語のヒロインを連想して思わず声をかけてしまう。つまり、現実の中に物語世界を発見して感動してしまう紫式部は、熱心な物語読者であり、また物語作者としての資質もうかがわれる。
〔八〕重陽の菊の着せ綿―九月九日
 重陽の節句の九月九日、兵部のおもと(式部と同輩の女房。おもとは女房の敬称)が菊の着せ綿を持ってきて、
「これをね、殿の北の方
(鷹司殿倫子)が、特別にあなたにって。これでよく顔や体をぬぐって、老いを取り除きなさいって」
 と言うので、

菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ
(菊の露にはわたしはちょっと若返るくらい袖を触れて 千代の長生きは菊の花持ち主である北の方さまにお譲りしましょう)

 と詠んで、着せ綿を返そうとしたら、
「北の方はもうあちらのお部屋にお帰りになってしまわれたわ」
 と言うので、無用になったのでそのままにしてしまった。
※着せ綿 重陽の節句の前夜、菊の花に真綿を覆っておき、あくる朝夜露に濡れて菊の香りがうつった綿で顔や体をぬぐうと老いが除くと信じられた。
※遠い血縁関係の倫子の長寿を祝う心。
〔九〕同日の夜、中宮産気づく
その夜、中宮さまの御前に参上したところ、月が美しい頃で、お部屋の端近には、御簾の下から裳の裾などがこぼれ出ているあたりに、小少将の君(源時通の娘)や大納言の君(源扶義の娘廉子)などが控えていらっしゃる。中宮さまは、香炉に、先日の薫物を土中かに取り出させてお入れになり、出来具合をためしてごらんになる。取り出してきた女房たちが、庭の景色の素晴らしさや、蔦が色づくのが待ち遠しいことなどを、口々に口々に申し上げていると、中宮さまはいつもより苦しそうな様子でいらっしゃるので、加持などもなさるところなので、なんだか落ち着かない気がして御几帳の中へ入った。  
 そのうち人が呼んでいるというので、じぶんの部屋に下がって、
〈しばらく休んでいよう〉
 と思ったが寝てしまった。夜中ごろに中宮さまが産気づいたと大騒ぎしている。
一〇〕修験祈祷のありさま―九月十日
 十日の夜が明けるころ、御座所の調度や設備や衣装などが白一色に変えられる。中宮様は白木の御帳台に移られる。殿をはじめ、ご子息たちや、四位五位の人々が騒ぎながら、御帳台の垂絹をかけたり、帳台の中に敷く上筵(うわむしろ)や茵などを運ぶさまは、実に騒がしい。  
 中宮さまは、一日中、とても不安そうに、起きあがったり横になられたりしながら過ごされた。修験僧は、中宮さまに憑いている物の怪を憑坐に追い移し、調伏しようと大声で祈り続けている。ここ数ヶ月、詰めている邸内の僧たちはいうまでもなく、諸国の山や寺を探し求めて、修験僧という修験僧は一人残らず参集し、その祈祷に
〈三世
(前世・現世・来世)の仏も調伏のためにどんなに空を飛びまわってることだろう〉
 と思いやられる。陰陽師もあらゆる人を集めて祈らせたので、
〈八百万の神々も耳をふりたてて聞いてくださらいわけがないだろう〉
 と見受けられる。御誦経を行う寺へお布施を持っていく使者が、次々と出立する騒ぎのうちに、その夜も明けた。
 御帳台の東面の間には、内裏の女房が参集して控えている。西の間には、中宮さまの物の怪が移った憑坐の人々がいて、それぞれ一双の屏風で囲み、その囲みの入口には几帳を立てて、修験者たちが憑坐を一人ずつ分担して大声で祈っている。南面の間には、尊い僧正や僧都たちが重なるように座って、不動明王の生きたお姿をも、呼び出して出現させそうなほど、安産を祈願したり、霊験のないのを恨んだりして、声がみな嗄れてしまっているのが、たいそう尊く聞こえる。北側の襖障子と御帳台との間の、とても狹い所に、四十人あまりの女房たちが、後で数えてみると座っていた。少しの身動きもできず、のぼせあがって、何が何だかわからないほどである。新たに実家から来た人たちは、せっかく来たのに邪魔者あつかいにされて座らせてもらえず、裳の裾や着物の袖が人混みでどこにあるかわからない。おもだった年輩の女房などは、中宮さまを心配して声をひそめて泣いて取り乱している。
※当時、病気や難産の原因は物の怪の祟りとされた。
※中宮のお産直前、権力・財力をあげての安産祈願。騒動の中での式部の冷静な観察力。
〔一一〕安産を待ち望む人々―九月十一日
 十一日の明け方にも、北側の襖を二間とりはらって、中宮さまは難産のために場所を忌み嫌って、北廂の間に移られる。御簾などもかけることができないので、御几帳を重ね立てて、その中にいらっしゃる。観音院権僧正勝算(しょうさん)、定澄僧都、権法務済信権大僧都などがそばについて加持をなさる。院源(いんげん)僧都(第二十六代天台座主)が、きのう殿が書かれた安産願いに、さらに尊い言葉を書き加えて、読み上げる言葉が、身にしみるほど尊く、心強く思われるのに、そのうえ殿が一緒になって仏の加護をお祈りになるのはとても頼もしく、
〈いくらなんでも大丈夫だろう〉
 と思うものの、やはりひどく悲しいので、女房たちはみな涙が流れるばかりで、
「ほんとに不吉な」
「そんなに泣かないで」
 などと、お互いに言い合うものの、涙をおさえることができなかった。  
 こんなに人が多くては、中宮さまもなおさら苦しいだろうと、殿は女房たちを南や東の間に出されて、どうしてもいなければならない人たちだけが、この二間の中宮さまの側に控えている。殿の北の方と讃岐の宰相の君
(豊子)、内蔵(くら)の命婦(道長の五男教通の乳母)が御几帳の中に、それに仁和寺(にんなじ)の僧都と三井寺の内供(ないぐ)を呼び入れられた。殿が万事に大声で指図される声に、僧も圧倒されて読経の声も静かになったように思われる。  
 もう一間にいる人たちは、大納言の君
(中宮女房、廉子)、小少将の君(中宮女房、源時通の娘)、宮の内侍(ないし)中宮女房、橘良芸子)、弁の内侍(中宮女房、藤原義子)、中務(なかつかさ)の君(中宮女房、中務少輔源至時の娘)、大輔(たいふ)の命婦(中宮女房、越前守大江景理の妻)、大式部(おおしきぶ)(道長家女房)のおもと、この人はこの邸の宣旨女房(帝の口宣を蔵人に伝える女官)です。いずれも長年お仕えしている人ばかりで、心配して取り乱しているのは、もっともなことだが、中宮さまに仕えて日が浅いわたしなどは中宮さまをお見慣れ申し上げるほどではないが、
〈比べものにならないほど大変なこと〉
 とじぶんなりに思われる。 また、わたしたちの後ろに立ててある几帳の向こう側に、尚侍
(かみ)(道長の次女妍子当年十五歳)付きの中務の乳母(藤原惟風の妻高子)、姫君(道長の三女威子当年十歳)付きの少納言の乳母(道長家女房)、幼い姫君(道長の四女嬉子当年二歳)付きの小式部の乳母(道長家女房藤原泰通の妻)などが無理に入り込んで、二つの御帳台の後ろの細い通路は容易に通ることができない。すれちがったり、身動きする人は、お互いの顔なども見分けられない。殿のご子息たち(頼通十七歳、教通十三歳)や、宰相の中将(藤原兼隆)、四位の少将(源雅通)などはもちろん、左の宰相の中将(源経房四十歳)、中宮の大夫(たいぶ)(中宮職の長官、藤原斉信)など、いつもはあまり親しくない人たちまでも、几帳の上からのぞいたりして、泣きはらしたわたしたちの目など見られるにしても、恥もなにもかも忘れていた。頭の上には魔除けの米が雪のように降りかかっているし、
〈混雑でしわになった着物がどんなに見苦しかっただろう〉
 と、後になって考えるととてもおかしい。
※道長の姿を浮かび上がらせる文章。
〔一二〕若宮の誕生
 中宮さまのお産が重いので、仏の加護を頼んで形式的に髪を剃って受戒(仏道でいう殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の五戒)をして安産を願っている間、途方にくれて、
〈これはどうしたことか〉
 と、あきれるほど悲しんでいるときに、安らかにご出産なさって、後産のことがまだすまない間は、あれほど広い母屋から廂の間、縁の欄干のあたりまで大勢いる僧侶も俗人も、もう一度大声をあげて、額を床につけて礼拝する。  
 東面にいる女房たちは、殿上人にまじって座るような状態で、小中将の君
(中宮女房)が左の頭の中将(近衛中将で蔵人頭を兼ねた者)とばったり顔をあわせて、あきれていた様子を、後になってみんなが言いだして笑う。この小中将はいつも化粧がいきとどいた美人で、この時も明け方に化粧をしたのだが、泣いたため、化粧くずれがして、あきれるほど変わってしまい、とてもその人とは見えななかった。あの美しい宰相の君の、顔が変わってしまっている様子なども、ほんとうに珍しいこと。ましてわたしの顔などはどうだったのだろう。でも、そのときに顔をあわした人の様子が、お互いに思い出せないのは、よかった。  
 いよいよ出産なさる時に、物の怪がくやしがってわめきたてる声などのなんと恐ろしいことか。源の蔵人が出した憑坐には心誉
(しんよ)阿闍梨を、兵衛の蔵人が出した憑坐にはそうそ(「めうそ」の誤りか。延暦寺の阿闍梨妙尊か)という人を、右近の蔵人(くろうど)が出した憑坐には法住寺の律師を、宮の内侍の局にはちそう阿闍梨(勝算の弟子の千算か)を担当させていたところ、ちそう阿闍梨が物の怪に引き倒されて、ひどく気の毒だったので、念覚(ねんがく)阿闍梨(園城寺の智弁の弟子の円明寺検校、大納言藤原済時の子)を呼び寄せ加えて大声で祈祷する。阿闍梨の効験が薄いのではなく、物の怪がひどく頑強だったのだ。宰相の君の担当の招祷人(おぎびと)(祈祷師)に、叡効(えいこう)(四十四歳。加持に高名[栄花物語])を付き添わせたところ、一晩中、叡効は大声を上げ続けて、声も涸れてしまった。物の怪が移るようにと新たに呼び出した憑坐たちにも、みな移らないので、大騒ぎした。
 午の刻
(午前十一時~午後一時)に、空が晴れて、朝日が射しだしたような気持ちがする。安産でいらっしゃった嬉しさは類もないのに、その上皇子でいらっしゃった喜びといったら、どうして並一通りのことであろう。きのうは一日中泣いていて、今朝も秋霧の中で泣いていた女房なども、みな局に引きとって休む。中宮さまには、年配の女房たちで、産後にふさわしい人が付き添う。
※若宮誕生の喜びの表現。ここに道長の栄華の基礎が固められる。
〔一三〕人々のよろこび
 殿も北の方も、あちらの部屋に移られて、この数ヶ月御修法や読経に奉仕したり、また昨日今日と参集していた僧侶たちにお布施をたまわったり、医師や陰陽師などで、それぞれの道で効験があった者に褒美(衣類・絹・布など)をお与えになったり、内々では御湯殿の儀式の準備をあらかじめさせていらっしゃるらしい。
 女房の各部屋では、大きな衣装袋や包などを運び込む人たちが出入りし、唐衣の刺繍や、裳のひき結びの螺鈿や刺繍の飾りを、多すぎるほどして、人には見せないようにして、
「注文の扇をまだ持って来ないわね」
 などと、言いかわしながら、化粧をし身づくろいをする。 いつものように、渡り廊下の部屋から眺めると、寝殿の妻戸の前に、中宮の大夫
(藤原斉信)や東宮の大夫(藤原懐平/ふじわらやすひら)など、その他の上達部たちも、大勢伺候していらっしゃる。殿は縁先に出られて、随身に落ち葉などで埋もれた遣水の手入れをおさせになり、まわりの人々も、いかにものどかで心地よさそうである。心配事のある人も、このときばかりはふと忘れてしまいそうで、中宮の大夫はことさらに得意そうな笑顔をなさるわけではないが、嬉しさはだれよりもで、しぜんと顔に表れるのもうなづける。右の宰相中将(藤原兼隆)は、権中納言(藤原隆家。道隆の子)とふざけあって、東の対屋の縁側に座っていらっしゃる。
一四〕御佩刀(みはかし)・御臍の緒(みほぞのお)・御乳付(みちつけ)
 宮中から下賜された御佩刀(守刀の剣)を持参した頭中将源頼定は、今日は伊勢神宮への奉幣使(みてぐらづかい)の出発する日なので、頼定は宮中に帰っても、お産の穢れに触れているために清涼殿に昇れないので、殿は頼定に庭先に立ったまま、母子ともに平安でいらっしゃるご様子を奏上おさせになる。頼定に禄なども賜ったが、そのことはわたしは見ていない。
 若宮の御臍の緒
(へその緒)を切るのは殿の北の方。御乳付けの役は橘の三位徳子。御乳母は、以前からお仕えしていて、親しくしていて気立てがよい人をということで、大左衛門(おおざえもん)のおもとが奉仕する。この人は備中の守むねとき朝臣(道時の誤りか)の娘で、蔵人の弁(藤原広業)の妻である。
〔一五〕御湯殿の儀(おおんゆどののぎ)
 御湯殿(おおんゆどの)の儀式は酉の時(午後五時~七時)とのこと。灯火をともして、中宮職の下級役人が、緑色の袍の上に白絹の袍を着て、お湯をお運びする。その桶をすえた台などは、みな白い覆いがしてある。尾張の守知光(ちかみつ 美作守藤原為昭の子)と中宮職の侍長である仲信(なかのぶ 六人部仲信)がかついで、御簾のところへ運んでくる。御簾の中からお水取役の女官二人、清子(きよいこ)の命婦と播磨(はりま)が桶のお湯を取り次いで、湯加減よく水でうめて、それを女房二人、大木工と馬とが、ほとぎ(素焼きの土器)に汲み入れ、定められた十六のほとぎに入れて、余ったお湯は湯槽に入れる。女房たちは、薄物の表着にかとりの裳をつけ、唐衣を着て、頭には釵子(さいし 飾り具)を挿し、白い元結をしている。そのため髪の様子が引き立って、美しく見える。若君にお湯をかける役は宰相の君、その介添え役は大納言の君(源廉子)、お二人の湯巻姿が、いつもとは違っていて、風情がある。  
 若宮は、殿がお抱きになって、御佩刀は小少将の君が、虎の頭は宮の内侍
(ないし)が持って、若宮の先導役をつとめる。宮の内侍の唐衣は松笠の紋様で、裳は大波・藻・魚貝などを刺繍で織り出して、大海の摺り模様に似せてある。裳の大腰は薄物で、それに唐草の刺繍がしてある。小少将の君は、秋の草むら、蝶や鳥などの模様を、銀糸で刺繍して、輝かせている。織物は身分上の制限があって、誰も思うままに作れるわけではないから、裳の大腰のところだけを普通のものとは違う意匠にしているのだろう。  
 殿のご子息お二人
(頼通十七歳と教通十三歳)と、源少将(源雅通)などが、散米(うちまき)を大声でまきちらし、
「じぶんこそ音高く響かそう」
 と、競って騒いでいる。浄土寺の僧都が、護身の法を行うために伺候していて、その頭にも目にも散米が当りそうなので、頭に扇をかざすものだから、若い女房たちに笑われる。
 漢籍を読む博士は、蔵人の弁の広業
(ひろなり 藤原広業)で、高欄の下に立って、『史記』の第一巻を読む。悪魔を払う弦打(つるうち)は二十人、そのうち五位が十人、六位が十人で、庭に二列に立ち並んでいる。
 夕方の御湯殿の儀といっても、形式的に繰り返して奉仕する。儀式は前と同じである。ただ読書の博士だけが変わったのだろうか。今度は伊勢の守致時
(むねとき 中原致時)の博士とか。読んだのは例によって『孝経(こうきょう)』の天子章の一章だろう。また挙周(たかちか 大江挙周)は、『史記』の文帝の巻を読むのだろう。七日間、この三人が交替で読書の役をつとめる。
〔一六〕女房たちの服装
 すべての物が一点の汚れもなく真っ白な中宮さまの御前に、人々の容姿や、色合いなどまでが、はっきりと現れているのを見わたすと、まるで上手な墨書きの絵に、髪だけを黒く描いたように見える。いつもよりますますきまりが悪く、恥ずかしい気がするので、昼間はほとんど御前に顔も出さず、部屋でのんびりしていて、東の対の局から御前に参上する女房たちを見ると、禁色(赤・青・黄丹〈おうに〉・梔子・深紫・深緋色・深蘇芳〈ふかすおう〉の七色)を許された上級の女房たちは、織物の唐衣に、同じく白地の袿(うちき)を着ているので、かえって端正な感じがして、それぞれの趣向が見えない。禁色を許されない女房でも、少し年配の人は、
「みっともないことはしない」
 と、なんとも言えない美しい三枚重ね、五枚重ねの袿に、表着
(うわぎ)は織物、その上に織模様のない唐衣を地味に着て、その重ね袿には綾や羅(うすもの)を用いている人もいる。扇なども、見た目には、おおげさにきらびやかにはしないで、風情がなくはないようにしている。扇には気のきいた詩文の一句をちょっと書いたりして、申し合わせたように同じ文句なのも、各自は独自のものをと思っていたのに、年格好が同じ者は、やはり同じものになってしまうのを、おかしなものだとお互いに扇を見比べている。こういうことからも、女房たちの人には劣らないという様子が、はっきり見える。裳や唐衣の刺繍はいうまでもなく、袖口に縁飾りをつけ、裳の縫い目には銀の糸を伏せ縫いにして組紐のようにし、銀箔を飾って白綾の紋様を押し、扇の様子なども白一色なので、まるで雪の深く積もった山を月の明るい夜に見渡しているような気がして、きらきら光って、はっきり見渡すことができず、鏡を掛け並べてあるようだ。
〔一七〕三日の御産(うぶ)養(やしない)―九月十三日の夜
 ご誕生三日目の夜は、中宮職(ちゅうぐうしき)の官人が、中宮の大夫(だいぶ)をはじめとして、御産養を奉仕する。大夫の右衛門の督(えもんのかみ 藤原斉信)は中宮さまにさし上げるご祝膳のこと、沈の懸盤や白銀のお皿などを調進したが、詳しくは見なかった。源中納言(げんちゅうなごん 源俊賢四十九歳)と藤宰相(とうさいしょう 藤原実成三十四歳)は、若宮の御衣(みそ)、御襁褓(むつき)、衣箱の折立(おたて)、入帷子(いれかたびら)、包み、覆い、下机などを調進なさる。御産養のいつもの例で、同じ白一色ではあるが、作り方に人それぞれの趣向があらわれていて念入りにこしらえてあった。近江の守(源高雅)は、その他の全般的なことを奉仕するのだろう。東の対の、西の廂の間は、上達部の席で、北を上席にして二列に並び、南側の廂の間には、殿上人の席が西を上席にしてある。白い綾張りの屏風をいくつも、母屋の御簾にそえて、外向きに立て並べてある。
〔一八〕五日の御産養―九月十五日の夜
 ご誕生五日目の夜は、殿が奉仕なさる御産養(おんうぶやしない)。十五夜の月がくもりなく美しい上に、池の水際近くに、かがり火をいくつも木の下にともして、屯食を五十具立て並べる。身分の低い男たちがしゃべりながら歩きまわっている様子なども、御産養(おんうぶやしない)の晴れがましさを際立たせているようだ。主殿寮(とのもつかさ)の役人たちが松明をかかげて立ち並んでいる様子も真剣で、昼のように明るいので、あちこちの岩の陰や木の下に集まっている上達部の随身でさえ、それぞれ話し合っている話題は、このような世の中の光といえる皇子が誕生なさることを、かげながら思っていて、じぶんたちの望みどおりであったという顔つきで、相好をくずして、うれしそうにしている。まして、この土御門の邸の人たちは、なにほどの人数にも入らない五位の者までもが、腰をかがめて会釈しながら行ったり来たりして、いそがしそうな様子をして、よい時勢に会ったという顔つきである。
※権勢に盲従する下役たちを描写する紫式部の辛辣な眼。
 中宮さまにお膳をさしあげるというので、女房が八人、白一色に装束して、髪を結い上げて、白い元結をして、白銀の御盤(ごばん)をささげて一列になって入っていった。今夜の給仕役は宮の内侍(ないし 中宮女房、橘良芸子)で、とても堂々としていて、とても美しい容姿に、白元結にいっそう引き立って見える髪の垂れ方は、いつもより好ましい様子で、扇からはみ出て見える横顔など、ほんとうに美しかった。
 髪を結い上げた女房は、源式部
(げんしきぶ 加賀の守、源重文の娘)、小左衛門(こざえもん 故備中の守、橘道時の娘)、小兵衛(こひょうえ 左京の大夫、源明理の娘)、大輔(伊勢の祭主、大中臣輔親の娘)、大馬(左衛門の大輔、藤原頼信の娘)、小馬(左衛門の佐、高階道順の娘)、小兵部(蔵人である藤原庶政の娘)、小木工(木工の允平文義という人の娘)で、みな美しい若女房ばかりで、向かい合って座っている様子は、ほんとうに見ばえのあるものだった。いつもは中宮さまにお膳をさしあげるとき、髪を結い上げることはしているのだが、このような晴れがましいときなので、殿がわざわざそれにふさわしい女房を選ばれたのに、「人前に出るのがつらい」とか「いや」だと嘆いて、泣いたりして、縁起が悪いほどに思われた。
※美しさを褒め称えたと思ったら、大役を恥ずかしがった若女房たちへの不満。紫式部特有の表現。
 御帳台の東に面した二間ほどの所に、三十人あまりも並んで座っていた女房たちの様子は、まさに見ものだった。威儀のお膳は采女(下級の女官)たちがさしあげる。妻戸口の方に、御湯殿を隔てた屏風に重ねて、さらに南向きに屏風を立てて、そこに白木の御厨子棚一対に威儀のお膳が置かれてある。夜が更けるにつれて、月が曇りなく射しこんでいる所に、采女(お膳)、水司(もいとり 水・粥・氷室)、御髪上げ(理髪)の女房たち、殿司(とのもり 輿車〈よしゃ〉・御帳・火燭〈ひそく〉・薪炭)や掃司(かんもり 舗設・掃除・式場の設備)の女官などは、顔も知らない者もいる。闈司(みかどづかさ 後宮の門鍵の管理・出納)などという者だろうか、粗末な装束をつけ雑な化粧をして、仰々しく挿した髪飾りも、儀式ばった感じで、寝殿の東の縁や渡り廊下の妻戸口まで、隙間もなく無理に入り込んで座っているので、人が通ることもできない。
 お膳をさし上げるのが終わって、女房たちは御簾のそばに出て座った。灯火によって、きらきらと見渡される中でも、大式部
(おおしきぶ)のおもとの裳や唐衣(からぎぬ)に、小塩山(おしおやま)の小松原の景色が刺繍してあるのは、とても趣がある。この大式部のおもとは陸奥の守(みちのくにのかみ)の妻で、このお邸の宣旨女房である。大輔(たいふ)の命婦は、唐衣には趣向も凝らさないで、裳を白銀の泥で、とても鮮やかに大海の波の模様を摺り出しているのは、際立ってはいないが、感じがよい。弁の内侍(ないし)が、裳に銀泥の洲浜の模様を摺り、そこに鶴を立てている趣向は珍しい。裳の刺繍も、松の枝で鶴の千年の齢と競わせている趣向には、才気が感じられる。少将のおもとの裳が、これらの人たちに見劣りする銀箔なのを、女房たちは秘かにつつき合って笑う。少将のおもとという人は、信濃の守(かみ)藤原佐光(ふじわらのすけみつ)の姉妹で、この土御門邸の古参の女房である。
 その夜の中宮さまの御前の様子が、誰かに見せたいほどなので、宿直の僧が伺候している屏風を押し開けて、
「この世では、こんな素晴らしいことは、またとごらんになれないでしょう」  
 と言いましたら、僧は、
「ああ、もったいない、ああ、もったいない」  
 と本尊様をそっちのけにして、手を摺り合わせて喜んだ。
 上達部たちは席を立って、渡り廊下の橋の上に行かれる。殿をはじめとして、皆で攤
(だ 双六の一種)をお打ちになる。高貴な方々が賭物の紙を得ようと争われるのは、ひどくみっともない。お祝いの歌などが詠まれ、
「女房、盃を受けて歌を詠め」
 などと言われたときには、
〈どんな歌を詠んだらいいのかしら〉
 などと、めいめいが口々につぶやいて試作している。

めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代をめぐらめ
(若宮がお生まれになって 素晴らしい光が射しこむお祝いの盃は 手から手へと満月のように欠けることなく 千年をめぐり続けるでしょう)

「四条の大納言
(藤原公任〈ふじわらのきんとう〉歌人)に歌を詠んで差し出す時には、歌の出来具合はもちろん、声の出し方にも気を配らなければ」
 などと、ひそひそと言い合っているうちに、あれこれすることが多くて、夜もすっかり更けてしまったせいか、特別に名指して歌を詠むように盃をさすこともなく退出なさった。褒美などは、上達部には女の装束に若宮のお召し物と産着が加わっていたのだろうか。殿上人の四位の者には、袷
(あわせ)の衵(あこめ)を一揃いと袴(はかま)、五位の者には袿一揃い、六位の者には袴一着と見えた。
〔一九〕月夜の舟遊び―九月十六日
 つぎの日の夜、月がとても美しく、そのうえ時候も風情あるときなので、若い女房たちは船に乗って遊ぶ。色とりどりの衣装を着ているときよりも、白一色の装束をつけている容姿や髪が、清浄で美しく見える。小大輔(こたいふ 中宮の女房 素性未詳)、源式部(げんしきぶ 中宮の女房 加賀守源重文の娘)、宮木(みやぎ)の侍従(中宮の女房 素性未詳)、五節(ごせち)の弁(中宮の女房 中納言平の惟仲の養女)、右近(中宮の女房 素性未詳)、小兵衛(こひょうえ 中宮の女房 左京大夫源明理の娘)、小衛門(こえもん 中宮の女房 素性未詳)、馬(中宮の女房)、やすらい(中宮の童女 素性未詳)、伊勢人(やすらいの注記の混入か)など、端近くに座っていたのを、左の宰相の中将(源経房 道長の妻明子と兄弟)と殿のご子息の中将の君(教通 十三歳)が誘い出されて、右の宰相中将兼隆(かねたか)に棹をささせて、舟にお乗せになる。一部の女房たちは船に乗らないでそっとぬけて残ったが、やはりうらやましいのだろうか、池のほうに目をやっていた。真っ白な白砂の庭に、月の光が照り返し、その月光に映えて女房たちの白装束の姿や顔つきも、風情がある。
 北の陣に牛車がたくさん停めてあるというのは、内裏の女房が来たからだ。藤三位
(左大臣師輔の娘繁子)をはじめとして、侍従の命婦(素性未詳)、藤(とう)少将の命婦(藤原能子)、馬の命婦(『枕草子』の「猫の乳母」と同一人か)、左近の命婦(素性未詳)、筑前の命婦(後に彰子に従い出家)、少輔の命婦(素性未詳)、近江の命婦(素性未詳)などであると聞いた。だが、詳しく見て知っている人たちではないので、間違いもあるかもしれない。内裏の女房たちの突然の訪れに、船に乗っていた若い人たちも、あわてて家の中に入った。殿が出てこられて、なにもないご様子で、歓待したり、冗談をおっしゃる。内裏の女房たちへの贈物なども、それぞれの身分に応じて与えられる。
※黄、白、黒のシンプルなカラー表現。
〔二〇〕七日の御産養(うぶやしない)―九月十七日の夜
 誕生七日目の夜は、朝廷主催の御産養。蔵人の少将道雅(みちまさ)を勅使として、天皇から若宮に贈られる目録を、柳筥(やないばこ)に入れて来られた。中宮さまはそれをごらんになると、そのまま宮司に返される。歓学院(かんがくいん)の学生(がくしょう)たちが、整然と威儀を正して歩いてくる。その参賀の人々の連名簿などを、中宮さまにごらんにいれる。中宮さまはこれもすぐに宮司に返される。禄なども賜れるだろう。今夜の儀式は、朝廷の御産養なので一段と盛大で、大騒ぎしている。
※歓学院は左大臣冬嗣が藤原氏の子弟教育のために開いた私学校。氏の長者の家に慶事があるときは、学生が別当(長官)に引率されて参賀する。そして、この参賀には、練歩除歩などの一定の作法があり、これを「歓学院のあゆみ」といった。
 中宮さまの御帳台をのぞいたところ、このような国の母として崇められる麗しい様子でもなく、少し苦しげで、面やつれして、お休みになっていらっしゃる様子は、いつもより弱々しく、若くて美しい。小さな灯炉が御帳台の中にかけてあるので、すみずみまで明るく、美しいお肌が、一段とすきとおるようにきれいで、ふさふさとした髪は、横になって乱れないように元結でくくられると、いっそうふさふさとして見事である。こんなことを言うのも、いまさらという気がするので、よく書き続けることができません。  
 だいたいの儀式は、先日五日の夜の御産養と同様である。上達部への褒美は、御簾の内から、女の装束に若宮のお召し物などを添えて差し出す。殿上人への褒美は、蔵人
(くろうど)の頭(とう)二人をはじめとして、順に御簾のそばへ寄って受け取る。朝廷からの褒美は、大袿(おおうちき 裄や丈を大きく仕立てる)、衾(ふすま 夜具)、腰差(こしざし 巻絹 軸に巻いた絹の反物)など、例によって公式通りだろう。御乳付の役を奉仕した橘の三位への贈物は、きまりの女の装束に、織物の細長を添えて、銀製の衣箱に納め、その包なども同じように白かったのだろうか。また、別に包んだ品を添えて与えられたなどと聞いた。でも、詳しくは見ていません。
 八日目の日、女房たちは、色とりどりの衣装に着替えた。
※中宮に慕わしさをつのらせる紫式部。  
〔二一〕九日の御産養―九月十九日の夜
 誕生九日目の夜は、東宮の権の大夫(ごんのだいぶ 道長の長男、藤原頼通)が御産養を奉仕なさる。白い御厨子一対に、お祝いの品々がのせてある。儀式は変わっていて現代ふうである。銀製の衣箱には、海浦(かいふ 大きな波に貝や海藻をあしらった模様)の絵模様がうち出してあり、その中にそびえる蓬莱山など、型通りの趣向だが、今風に精巧で素晴らしいのを、一つ一つとりたてて説明することができないのが残念である。
 今夜は、白一色の几帳に代えて、朽木形
(くちきがた)の模様のある几帳を普段と同じように立てて、女房たちは、濃い紅の打衣(うちぎぬ)を上に着ている。それが今までの白装束を見なれた目には目新しく、奥ゆかしくて優美に見える。すきとおった薄物の唐衣を通して、つやつやした打衣が見える。そして思い思いの衣装に、一人ひとりの姿もはっきり見える。 こまのおもとという人が、宴席で恥をかいた夜である。
※白から色彩への転換。「めずらしく」「なまめいて」「つやつやと」という表現
〔二二〕初孫をいつくしむ道長
 十月十日過ぎまでも、中宮さまは産後の養生のため御帳台から出られない。女房たちは、その東母屋の西寄りにある御座(おまし)に、夜も昼もひかえている。
 殿が夜中にも明け方にもやって来られては、乳母のふところをさがして若宮をのぞかれるのだが、乳母がうちとけて寝ているときなどは、はっとして目をさますのも、ほんとうに気の毒に思われる。若宮はなにもわからないころなのに、殿が抱き上げて可愛がられるのは、もっともで結構なことである。  
 ある時、若宮が殿におしっこをひっかけられたのを、殿は直衣の紐をといて脱がれ、御几帳のうしろで火にあぶってお乾かしになる。
「ああ、若宮のおしっこに濡れるのも、いいものだな。この濡れたのを、あぶるのも、ほんとうに思い通りにいったような気持ちだ」
 と、喜ばれる。
※初孫におしっこをかけられて喜ぶ道長の人間性に共感する紫式部。
〔二三〕中務の宮家との縁
 中務(具平親王は村上天皇第七皇子。当年四十五歳)の宮家のことを、殿は一生懸命(道長は長男頼通と具平親王の娘隆姫との結婚を切望)になられて、わたしをその宮家に縁故のある者と思われて、いろいろ相談なさるのも、ほんとうのところ、さまざまな思案にくれることが多かった。
※道長は宇多帝の皇孫源雅信の娘倫子、醍醐帝の皇子源高明の娘明子を妻室に迎えている。道長がさらに望むものは皇室の尊貴の血統。式部はこれを複雑な思いで見ている。
〔二四〕水鳥に思いをそえて
 一条天皇の土御門邸への行幸が近くなったので、邸を一段と手入れして立派になさる。見事な菊の株を、あちこちからさがし出しては掘って持ってくる。さまざまに美しく色変わりした菊も、黄色が見どころの菊も、さまざまに植えてある菊も、朝霧の絶え間に見わたした光景は、昔からいうように、老いもどこかに退散してしまうような気がするのに、どうしてかわたしは・・・わたしの物思いがもう少しふつうであったならば、風流を楽しんで若々しくして、この無常な世を過ごせるのに、どういうわけか、めでたいことやおもしろいことを、見たり聞いたりすると、ただもうつねづね思っている出家遁世に、ひきつけられるほうが強くて、憂鬱で、ままならず、嘆かわしいことばかり多くなって、とても苦しい。
〈でも、今はなにもかも忘れてしまおう、いくら思ってもしょうがないことだし、罪深いことだ〉
 などと思って、夜が明けると、ぼんやり外をながめて、池の水鳥たちがくったくなく遊んでいるのを見る。

水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世をすぐしつつ
(水鳥を他人事とは思えない。このわたしだって同じように、浮ついた日々を過ごしている)  

 あの水鳥たちも、楽しそうに遊んでいると思えるが、その身になってみれば、きっと苦しいだろうと、ついわが身と重ねてしまう。
※現世的栄華に溶け込めない紫式部。そこに身をおけばおくほど、仏道にひかれてゆく自分をどうすることもできない。キーワード「なぞや(慨嘆)」華麗な宮廷社会と自己との隔絶に懊悩する紫式部。 ※これ以後、「源氏物語」は、ブラック(暗黒)の世界に突き進むのではないか? 劇作「紫式部考」の第三部ブラック編の幕開きはこの場面を採用することにしよう。
〔二五〕時雨(しぐれ)の空
 小少将(こしょうしょう)の君(紫式部と特に親しかった中宮女房、源時通の娘)の手紙の返事を書いていると、時雨がさっと降ってきたので、使いの者も返事を急ぐ。
「わたしだけでなく、空の景色もざわついてる」
 と返事の末尾にそえて、拙い歌を書いてあげた。もう暗くなっているのに、返事がきて、紫色に濃く染めた雲紙に、

雲間なく ながむる空も かきくらし いかにしのぶる 時雨なるらむ
(時雨はなにを恋いしくて降っているのでしょう。それはあなた恋しさのわたしの涙の時雨みたい)  

 前の手紙にどんな歌を書いたのか思い出せないままに、

ことわりの 時雨の空は 雲間あれど にがむる袖ぞ かわくまもなき
(時節柄降る時雨の空は雲の絶え間もあるけれど、あなたを思うわたしの袖はかわくひまもないの)
※小少将の君は、内面の苦悩も語り合え、慰めあえる無二の親友。
〔二六〕土御門邸行幸―十月十六日
 一条天皇行幸の当日、新しく作られた船を、殿は池の水際に寄せてごらんになる。竜頭(りゅうとう)や鷁首(げきしゅ)の船は生きている姿が想像されるほどで、鮮やかに美しい。  
 行幸は朝八時頃ということで、明け方から女房たちは化粧をして用意をする。上達部の席は、西の対屋なので、こちらの東の対のほうはいつもどおりで騒がしくない。あちらの内侍の督
(ないしのかん 道長の娘妍子)のところでは、女房たちの衣裳なども中宮さまのほうよりかえって、たいそう立派に支度なさるらしい。  
 明け方に、小少将の君が実家から帰ってこられた。一緒に髪をといたりする。例によって、行幸は八時だといっても、遅れて日中になるだろうと、ついぐずぐずしていて、扇が平凡なので、別にあつらえたのを、持ってきてほしいと待っていたところ、行幸の鼓の音を聞いて、あわてて御前に参上するのもみっともないことである。  
 帝の御輿を迎える船楽が、とてもおもしろい。御輿をかつぎ寄せるのを見ると、かつぐ人が、身分が低いながら、階段をかつぎ上がって、ひどく苦しそうにうつぶせているのは、どこがわたしの苦しさと違っているのか。高貴な人々にまじわっての宮仕えも、身分に限度があるにつけて、ほんとうにたやすいことでないとかつぐ人を見る。
※人並みにあつかわれない御輿をかつぐ人の苦しげな姿に、人間共通の苦悩を見る。物語作家ならではの透徹した眼。
 御帳台の西側に帝のご座所を設けて、南廂の東の間に御椅子(ごいし)を立ててあるが、そこから一間おいて、東に離れている部屋の境に、北と南端に御簾をかけて仕切って、女房たちが座っている、その南の柱のところから、簾をすこし引き上げて、内侍(ないし)が二人出て来る。その日の髪上げした端麗な姿は、唐絵を美しく描いたようである。左衛門の内侍が御剣(草薙剣、三種の神器の一つ)を捧げ持つ。青色の無紋の唐衣に、裾濃(すそご 裾のほうが濃い染色)の裳をつけ、領巾(ひれ 飾りの布)と裙帯(くんたい 装飾の紐)は浮線綾(ふ(せんりょう 綾織物)を櫨緂(はじだん くすんだ黄茶色と白のだんだら染め)に染めている。表着(うわぎ)は菊の五重(いつえ)、掻練(かいねり)は紅で、その姿や振る舞い、扇から少しはずれて見える横顔は、華やかで清らかな感じである。弁の内侍は御璽(みしるし 三種の神器の一つの八尺瓊勾玉〈やさかにのまがたま〉)の箱を捧げ持つ。紅の掻練に葡萄染めの綾織の袿、裳と唐衣は前の左衛門の内侍と同じである。とても小柄で可愛らしい人が、恥ずかしそうに、少し固くなっているのは、気の毒に見えた。扇をはじめとして、左衛門の内侍よりも趣向を凝らしているように見える。領巾は楝緂(おうちだん 薄紫と白とのだんだら染め)に染めたもの。内侍たちが夢のようにうねりながら歩き、すんなり伸び立つ風情や衣裳は、
〈昔、天
(あま)(くだ)ったという天女(てんにょ)の姿も、こんなふうだったろうか〉 
 とまで思われる。
 近衛司
(このえづかさ)の役人たちが、いかにもこの場にふさわしい身なりをして、御輿(みこし)のことなどを指揮している姿は、実に堂々として威厳がある。藤中将(藤原兼隆)が御剣や御璽(みしるし)などをとって、内侍に渡す。  
 御簾の中を見わたすと、禁色を許された女房たちは、例によって青色や赤色の唐衣に、地摺り
(じずり 白地に模様を摺りつける)の裳をつけ、表着(うわぎ)は、すべて蘇芳色の織物である。ただ馬の中将だけが葡萄染(えびぞ)めの表着を着ていた。打衣(うちぎぬ)などは、濃い紅葉薄い紅葉といろいろ混ぜあわせたようで、打衣の下に着ている袿などは、例によって梔子襲の濃いのや薄いの、紫苑襲、裏が青の菊襲、あるいは三重襲などを着たりして、人それぞれである。綾織物を許されていない女房で、例の年輩の人たちは、唐衣は平絹の青色、あるいは蘇芳色など、重ね袿はみな五重で、重ねはすべて綾織である。大海の模様を擦った裳の水の色は華やかで、くっきりしていて、裳の大腰の部分は、固紋(かたもん 織物の紋を人を浮かさないで固く織る)を多くの人はしている。袿は菊襲の三重や五重で、織物の紋様は用いていない。若い女房たちは、五枚重ねの菊襲の袿の上に唐衣を思い思いに着ている。上は白で、中は蘇芳色、下は青色で、袿の下の単衣は青いのもある。また、菊の五重襲は、一番上が薄い蘇芳色で、次々と下に濃い蘇芳色を重ね、間に白いのを混ぜているのもあるが、すべて配色に趣きのあるのだけが、気がきいているように見える。言いようもなく珍しく、大げさに飾った扇などもいくつか見える。  
 ふだんくつろいでいると時には、整っていない容貌がまじっていれば見分けがつくものだが、このようにみんなが精一杯身なりをつくろい、お化粧して、負けないように飾りたてているのは、女絵の美しいのにそっくりで、ただ老けているとか若いとか、髪が衰えているとか生き生きしてるかのちがいだけが、目につく。これでは顔を隠した扇からのぞいている額が、不思議に上品にも下品にも見せてしまうものだ。こういう中にあって優れていると目につく人こそ、とびっきりの美人なのかも。  
 行幸以前から、内裏女房で、中宮さまにも兼ねて仕えている五人は、こちらへ参上して伺候している。五人のうち内侍が二人、命婦が二人、給仕役が一人である。帝にお膳をさし上げるというので、筑前と左京が、一髻
(ひともと 頭の頂に髷を一つ丸くむ結う)の髪上げをして、内侍が出入りする隅の柱のところから出てくる。これはちょっとした天女である。左京は柳の重ね袿の上に青色の無紋の唐衣、筑前は菊の五枚重ねの袿の上に青色の唐衣、裳は例によって共に地摺りの裳である。給仕役は橘の三位(橘徳子)で、青色の唐衣に、唐綾の黄色の菊襲の袿が表着のようである。この人も一髻の髪上げをしている。柱の陰で、よくは見えない。
 殿が若宮を抱かれて、帝
(一条天皇)の前に出られる。天皇が若宮を抱かれたとき、少々泣かれた声がとてもかわいい。弁の宰相の君が、お守り刀を持って進み出られる。母屋の襖障子の西の方、殿の北の方がいらっしゃるところに、若宮をお連れなさる。帝が御簾の外に出られてから、宰相の君はもどってきて、
「あまりにも間近で、恥ずかしかった」
 と言って、ほんとに赤くなっていらっしゃる顔は、上品で美しい。着物の色合いも、この人は人より一段と引き立つように着ていらっしゃる。
※三種の神器とは、日本神話において、天孫降臨の時に邇邇芸命(ににぎのみこと)が天照大神から授けられたという八咫鏡(やさかのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢)雲剣(あめの(むらくものつるぎ)のこと。日本の歴代天皇が継承してきた。
※宰相の君に式部はとりわけ心ひかれる。
〔二七〕管弦の御遊び、人々加階(かかい)―同日の夜
 日が暮れてゆくにつれて、楽の音がとてもおもしろい。上達部が帝の御前に伺候なさる。万歳楽(まんざいらく 随楽の曲名)、太平楽(たいへいらく 唐楽の曲名)、賀殿(かてん 唐楽の曲名)などという舞曲、長慶子(ちょうげいし 唐楽の曲名)を舞楽が終わり、舞人が舞台から退場するときに演奏して、楽船が築山の先の水路を漕ぎめぐってゆくとき、だんだん遠くなっていくにつれて、笛の音も、鼓の音も、松風も、一緒に響きあってとても趣がある。  
 とてもよく手入れされている遣水が、気持ちよさそうに流れ、池の水波がさざめき、なんとなく肌寒いのに、帝は袙
(あこめ)をただ二枚だけお召しになっている。左京の命婦はじぶんが寒いものだから、帝にご同情申し上げるのを、女房たちは秘かに笑う。筑前の命婦は、
「故院
(円融天皇の女御で一条天皇の母の詮子。道長の姉)がご在世のときには、このお邸への行幸は、実にたびたびあったことです。あの時は・・・この時は・・・」
 などと、思い出して言うのを、不吉な涙もこぼしかねないので、人々は面倒なことだと思って、特に相手にしないで、几帳を隔てているようである。
「ほんとうに、その時はどんなだったのでしょう」  
 などとでも言う人がいたなら、筑前はすぐに涙をこぼしてしまうだろう。  
 天皇の御前で管弦の遊びがはじまって、興がのってきたときに、若宮の声がかわいらしく聞こえる。右大臣
(藤原顕光六十五歳)が、
「万歳楽が若宮の声に和して聞こえる」
 と言って、座を盛り立てる。左衛門の督
(藤原公任)などは、
「万歳、千秋」
 と声をそろえて朗詠し、ご主人の大殿
(道長)は、
「ああ、これまでの行幸をどうして名誉なことと思ったのか、きょうのような光栄があったのに」
 と、酔い泣きなさる。今さら言うことでもないが、殿ご自身も、きょうの行幸をかたじけなく思っていらっしゃるのは、たいへん素晴らしいことである。  
 殿は、あちらの方へ出られる。帝は御簾の中にお入りになって、右大臣を御前にお呼びになり、右大臣は筆をとって加階の名簿をお書きになる。中宮職の役人や、この邸の家司
(親王・摂関・大臣家などの家政をつかさどる者)のそれ相当の者は、みな位階があがる。頭の弁(源道方四十歳)に命じて、加階の草案は、奏上されるようである。  
 親王宣下
(せんげ)という若宮の慶祝のために、道長一門の公卿たちが、お礼の拝舞をする。藤原氏であっても、家門の別れた人たちは、その列にも立たれなかった。次に、親王家の別当になった右衛門の督が拝舞なさる。この方は中宮の大夫である。次が中宮の亮で、加階した侍従の宰相である。つぎづぎに人びとがお礼の拝舞をする。帝が中宮さまの御帳台にお入りになって間もないうちに、
「夜がたいそう更けました。御輿を寄せます」
 と騒ぎ立てるので、帝は御帳台から出て行かれた。
※若宮誕生の余慶にあずからない人たちのことも記す作家の眼。
〔二八〕御産剃(うぶそ)り、職司(しきし)定め―十月十七日
 翌朝、帝から中宮への後朝の文使いが、朝霧もまだ晴れないうちにやってこられた。わたしはつい寝過ごして、それを見なかった。きょうはじめて若宮のお髪(ぐし)をお剃りになる。行幸の後でということだったので、今までお剃りにならなかったのである。  
 また、その日に、若宮付きの家司や別当や侍者などの職官が決まった。わたしはそのことを前もって聞いていなかったので、残念なことが多い。
※宮中の人事は後宮女房の推挙がかなり有効であったらしい(枕草子)。この文末の「残念なことが多い(ねたきこと多かり)」もそれに関連づけて解すべきか?
  このごろの中宮さまの部屋の設備は、お産のために簡素であったが、またもとにもどって、御前のありさまは申し分ない。ここ数年来待ち遠しく思っていらっしゃつた皇子誕生が思いどおりになって、夜が明けると、殿の北の方もすぐに若宮のところへやってこられて、大切にお世話なさる。その華やかで盛んな様子は、格別の趣である。
〔二九〕中宮の大夫と中宮の権の亮
 日が暮れて、月がとても風情あるころに、中宮の亮(すけ 藤原実成)が、だれか女房に会って、特別に昇進(正四位下から従三位)したお礼を中宮さまに言ってもらおうというのか、妻戸のあたりも、若宮の産湯を使っていて湯気に濡れて、人音もしなかったので、こちらの渡り廊下の東の端にある宮の内侍の部屋に立ち寄って、
「ここにいらっしゃいますか」
 と声をかけられる。さらにこの宰相
(中宮の亮)はわたしのいる中の間によって、まだ桟(さん)のさしていない格子を押し上げて、
「いらっしゃいますか」
 などとおっしゃったが、出ていかないでいると、今度は中宮の大夫
(斉信)が、
「ここでしょうか」
 とおっしゃるのさえ、聞かないふりをしているのも、もったいぶっているようなので、ちょっとした返事などをする。お二人とも、なんの悩みもなさそうな様子である。宰相
(実成)は、
「わたしには返事をなさらないで、大夫
(斉信)を特別に待遇なさるなんて、もっともですがよくないよ。こんなところで、上官と差をつけるなんてあっていいの」
 と、とがめられる。そして、
「きょうの尊さは・・・」
 などと、催馬楽をいい声で謡われる。  
 夜が更けるにつれて、月がとても明るい。
「格子の下をはずしなさいよ」
 と、お二人は責められるが、ひどく品格をさげてこんなところに公卿たちが座り込まれるのも、こんな場所とはいえ、やはりみっともない。若い人なら道理をわきまえないでふざけていても、大目に見てもらえるだろうが、どうしてわたしがそんなことができるだろう、不謹慎だと思うので、下格子ははずさないでいる。
※式部はいつも自分の年齢や身分をわきまえて物事を理性的・批判的に見る性質だから、上達部や殿上人とのつきあいも消極的になる。
〔三〇〕御五十日(いか)の祝い―十一月一日
 誕生五十日目のお祝いは、十一月一日だった。例のように、女房たちが着飾って集まった中宮さまの御前の様子は、絵に描いた物合せ(歌合・花合・絵合・具合・扇合など、左右にわかれて物を出し合って優劣を競う遊戯)の場面によく似ていた。
 御帳台の東の中宮さまの御座所のわきに、御几帳を奥の御障子から廂の間の柱まで、隙間もないように立てて、 南面の廂の間に中宮さまと若宮のお膳をお供えしてある。その西側寄りのが中宮さまのお膳で、例によって沈の折敷
(おしき)とか、あれこれの台であろう。そちらのことは見ていない。お給仕役は宰相の君讃岐で、取り次ぐ女房も、釵子(髪に挿す飾りの金具)や元結などをしている。若宮のお給仕役は大納言の君で、東側寄りに供えてある。小さなお膳台、いくつかのお皿、お箸の台、洲浜(巌、鶴、松などの祝賀の景物をあしらった飾り物)なども、まるで雛遊びの道具のように見える。そこから東にあたる廂の御簾を少し開けて、弁の内侍、中務(なかつかさ)の命婦、小中将の君など、主だった女房だけが、お膳を取り次いでさし上げる。奥にいたので、詳しくは見ていない。
 この夜、少輔
(しょう)の乳母が禁色の着用を許される。きちんとした様子をしている。若宮をお抱きして、御帳台の内で、殿の北の方がお抱きになってにじり出ていらっしゃる灯火に照らされたお姿は、格別に立派である。赤色の唐衣に、地摺の裳をきちんとお召しになっていらっしゃるのも、もったいなくしみじみと見える。中宮さまは葡萄染めの五重の袿に、蘇芳の御小袿をお召しになっている。殿が若宮に五十日のお餅は差し上げなさる。
 上達部たちの席は、例によって東の対の西廂である。殿のほかもうお二人の大臣
(右大臣藤原顕光と内大臣藤原公季)も参上なさっている。渡り廊下の橋の上に行かれて、また酔い乱れてお騒ぎになる。折櫃物(おりびつもの)や籠物(こもの)など、殿のほうから殿の家司たちが取り次いで献上したものを、高欄に沿って簀子に並べてある。松明(たいまつ)の光でははっきり見えないので、四位少将などを呼び寄せて、紙燭をつけさせて人々は献上物を見る。それらは宮中の台盤所に持っていくはずだが、明日から帝の物忌みということで、今夜のうちにみな急いでかたづけてしまう。中宮の大夫が、中宮の御簾のところへ来て、
「上達部を御前に召しましょう」  
 と啓上なさる。お聞き届けになったというので、殿をはじめとして、上達部はみな参上なさる。寝殿正面の階段の東の間を上座にして、そこから東の妻戸の前までお座りになっている。女房たちは、廂の間に二列三列に並んで座らされた。御簾を、その間に割り当てられて座っていた女房たちが、近寄って巻き上げる。
 大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍というふうに座っていらっしゃる。右大臣が近寄ってきて、几帳の垂れ絹の開いた部分を引きちぎって酔ってお乱れになる。
「いいお年なのに
(右大臣は六十五歳)」  
 と、つつき合っているのも知らずに、女房の扇を取り上げ、聞きづらい冗談なども多くおっしゃる。中宮の大夫が盃を取って、右大臣の方へ出ていらっしゃった。催馬楽の「美濃山
(みのやま)」を謡って、管弦の遊びもほんの形ばかりだが、とてもおもしろい。
 そのつぎの間の、東の柱下に、右大将
(藤原実資、権中納言正二位五十二歳)が寄りかかって、女房たちの衣装の褄や袖口の色を観察していらっしゃるのは、ほかの人とはかなり違っている。わたしはみんなが酔っ払っているからわからないと、また、
〈誰とは気づかれないだろう〉
 と思って、右大将にちょっとしたことを話しかけてみたところ、当世風に気取っている人よりも、右大将は一段と立派でいらっしゃるようだ。祝杯がまわってきて賀歌を詠まされるのを気になさっていたが、このような祝いの席でよく口になさる千年
(ちとせ)万代(よろずよ)のお祝い歌ですまされた。
※神楽歌「千歳法」本「千歳千歳千歳や 千歳や 千年の千歳や」末「万歳万歳万歳や 万歳や 万代の万歳や」
※内省的な式部が、しかも酒の席で話しかける。藤原実資に注ぐ式部の視線は好意的である。実資は、阿諛追従のはびこる宮廷の中で、理非曲直をわきまえた人物である。
 左衛門の督(藤原公任か)が、
「失礼だが、このあたりに、若紫はいらっしゃいますか」
 と、几帳の間からのぞかれる。源氏の君に似てそうな人もいないのに、どうして紫の上がいるのよと、聞き流していた。
「三位の亮
(藤原実成)、杯を受けろ」
 などと殿がおっしゃるので、侍従の宰相
(藤原実成)は立って、父の内大臣(藤原公季五十二歳)がそこにいらっしゃるので、敬って前を通らないで、南の階下から殿の前に行ったのを見て、内大臣はわが子が道長から杯を受ける光栄と父に対する礼儀をわきまえた行動に感激して酔い泣きなさる。権中納言(藤原隆家)は、隅の間の柱の下に近寄って、兵部のおもと(菊の着せ綿のあの中宮女房)の袖を無理矢理引っ張っているし、殿は殿で聞きづらいふざけたことをおっしゃっている。
※ここで注目すべきは、「源氏物語」がすでに藤原公任のような官人にも知られていたことだ。
〔三一〕八千歳(やちとせ)の君が御代
 なんだかこわいことになりそうな酔いかたなので、宴が終わるとすぐに、宰相の君と言い合わせて、隠れようとすると、東面の間に、殿のご子息たち(頼通・教通など)や、宰相の中将(道長の甥、藤原兼隆)などが入り込んで、騒がしいので、二人は御帳台のうしろに隠れていると、殿が几帳を取り払って、わたしたち二人の袖をとらえて座らせられた。
「祝いの歌を一首ずつ詠め。そうしたら許してやる」
 とおっしゃる。うるさいし怖いのでこう詠む。  

いかにいかが かぞへやるべき 八千歳
(やちとせ)の あまり久しき 君が御代(みよ)をば
(「いかに」に誕生五十日目をかけ、幾千年にもわたる若宮の御代をどうして数えることなどできましょう)

「ほう、うまく詠んだな」
 と、殿は二度ばかり声に出して詠われて、すぐにこう詠まれた。

あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ
(「あしたづ」は葦の生えた水辺の鶴。わたしに鶴のように千年の齢があったなら、数えることができるのに)  

 あれほど酔っていらっしゃるのに、歌は心にかけている若宮のことなので、とても、その気持ちがわかる。このように殿のようなお方が若宮を大切になさるから、すべての儀式も箔がついて立派に見えるのだろう。千年でも満足できない若宮の繁栄が、わたしのような数にも入らない
(取るに足らない)者にも、思いつづけられるのである。
「宮さま、聞いていますか、上手に詠みましたよ」
 と、殿は自画自賛して、
「わたしは父として宮にふさわしいし、宮も娘としてふさわしい。母も幸福だと、笑ってるよ。きっとよい夫を持ったと思ってるだろうな」
 と、ふざけられるのも、深酔いのせいと見受けられる。冗談だけでたいしたこともないので、不安な気持ちはしながらも、結構なことと思う。これを聞いていらっしゃった北の方は、聞きづらいと思われたか、退席なさるようすなので、
「見送りしないと、母が恨んではいけないな」
 と言って、殿は急いで中宮の御帳台の中を通り抜けられる。
「娘とはいえ中宮の御帳台の中を通り抜けるなんて、宮はさぞ無作法だと思われるだろう。だがな、この親がいたから、子も立派になったのだよ」
 と、独り言をおっしゃるのを、女房たちは笑っている。
※女房、中宮、北の方と、無邪気に冗談をいう道長。その人間味あふれた言動に式部も好感を抱いている。
〔三二〕御冊子(みそうし)づくり―十一月中旬
 中宮さまが内裏へお帰りになる日が近くなったけれど、女房たちは行事が続いてゆっくりする日もないのに、中宮さまは物語の冊子をお作りになるというので、夜が明けると、わたしはすぐに中宮さまと対座して、色とりどりの紙を選んで、物語の原本をそえて、書写を依頼する手紙を書いてくばる。一方では書写したものを綴じたりして過ごす。
「どこの子持ちが、こんな冷える季節にこんなことをするものか」
 と、殿は中宮さまにおっしゃったが、上等の薄紙や、筆、墨など、持ってきて、硯まで持ってこられ、中宮さまがそれをわたしにくださったのを、女房たちは大げさに騒いで、
「いつも奥のほうにいるくせに、こんな仕事をするとは」
 と咎める。でも殿は墨挟、墨、筆など、くださった。  
 じぶんの部屋に、物語の原本を実家から取り寄せて隠しておいたのを、中宮さまのところへ行っている間に、殿がこっそりやってきて、探し出されて、内侍の督
(ないしのかん)の殿(道長次女妍子)に与えてしまわれた。なんとか書き直した本は、みな紛失してしまって、手直ししていないのが出まわって、気がかりな評判がたったことだろう。
※「物語」とはまさに「源氏物語」のこと。そして「源氏物語」も①原本 ②清書本 ③自分の部屋にあった本 ④なんとか書き直した本 などがこのときに存在していたことを示している。
〔三三〕若宮の成長
 若宮は、すでに「あ」「う」などと声をお出しになる。帝が、若宮の参内を心待ちにしていらっしゃるのも、うなずける。
〔三四〕里居の物憂い心
 中宮さまの前の庭の池に、水鳥が日に日に多くなっていくのを眺めながら、
〈中宮さまが宮中にお帰りになる前に雪が降ってくれれば、この庭の雪景色は、どんなに素敵だろう〉
 と思っているうちに、ちょっと実家に帰っていた間、二日ほどして雪が降るなんて。なんの見どころもない古里の木立を見ると、憂鬱で思いが乱れて、夫の死後数年来、ただ茫然と物思いに沈んで暮らし、花や、鳥の、色や声も、春から、秋に、移りかわる空の景色、月の影、霜や、雪を見ても、ああ、そんな季節になったのだなあと気づくだけで、いったいわたしはどうなるのだろうと、将来の不安は晴らしようがなかったけれど、それでもなんとか取るに足りない物語をつくったり、話をして気心の合う人とは、手紙を書きあったり、つてをたどって文通などしたものだが、ただこのような物語をいろいろいじり、とりとめない話にじぶんを慰めたりして、だからといってじぶんなど生きてゆく価値のある人間だとは思わないが、どうにか恥ずかしいとか、辛いと思うようなことはまぬがれてきたのに、宮仕えに出てからは、ほんとうにわが身の辛さを思い知らされる。
※実家に帰った式部の索漠とした心境。式部の宮仕えの憂鬱は底知れぬほど深い。
 そんな気持ちも晴れようかと、物語(自作の「源氏物語」)を読みかえしてみても、以前のようにはおもしろくなく、あきれるほど味気なく、
〈うちとけて親しく語り合った友も、宮仕えにでたわたしをどんなに軽蔑しているだろう〉
 と思うと、そんな気をまわすことも恥ずかしくなって、手紙も出せない。
〈奥ゆかしい人は、いいかげんな宮仕えの女では手紙も他人に見せてしまうだろう、と、つい疑ってしまうだろうから、そんな人がどうしてわたしの心の中を、深く思ってくれるだろう〉
 と思うと、それも当たり前で、ひどくつまらなく、交際が途絶えるというわけではないが、しぜんと音沙汰がなくなる人も多い。わたしが宮仕えに出ていつも家にいないからと、訪れてくる人も、来にくくなって、すべて、ちょっとしたことにふれても、別世界にいるような気持ちが、実家ではよけいにして、悲しみに気がふさぐ。
※式部の孤独な悲しみの述懐。彼女にとって華美な宮廷生活は、肌に合わないという程度のものではなく、生まれつきが合わないのである。
 今のわたしは、ただ、宮仕えでなんとなく話をして、少しでも心にかけてくれる人とか、細やかに言葉をかけてくれる人とか、さしあたってしぜんと仲良く話しかけてくる人ぐらいを、ほんの少しばかり懐かしく思うのははかないことだ。 大納言の君(源扶義の娘廉子)が、毎夜、中宮さまの近くにお休みになって、お話をなさったのが恋しく思われるのも、環境になれてしまう心なのだろうか。

浮き寝せし 水の上のみ 恋しくて 鴨
(かも)の上毛(うわげ)に さへぞおとらぬ
(中宮さまとの夜が恋しくて、ひとり実家にいる寂しさは、鴨の上毛の露の冷たさに劣らないのです)  

 返歌、

うちはらふ 友なきころの ねざめには つがひし鴛鴦
(おし)ぞ 夜半(よわ)に恋しき
(おしどりが互いに露をはらうような友のいないこのごろのねざめには、いつも一緒にいたあなたのことが恋しくてならない)

 歌の書き方までがとても素敵なのを、すべてによくできた方だと思って見る。
「中宮さまが雪をごらんになって、よりによってあなたが実家に帰ったのを、ひどく残念がっていらっしゃるわよ」
 と、女房たちも手紙で言ってくる。殿の北の方からの手紙には、
「わたしが引きとめた里帰りだから、特に急いで帰り、すぐに帰ってくると言ったのも嘘で、実家にいつまでもいるみたいね」
 とおっしゃってきたので、たとえそれが冗談でおっしゃったにしても、わたしもすぐにと言ったことだし、手紙もわざわざくださったのだから、悪いと思って宮廷にもどった。
※宮廷生活を嫌だと思いながらも同僚を慕い、宮仕えという境遇に流されてゆく式部。
〔三五〕中宮内裏還啓(かんけい)―十一月十七日
※還啓(皇太子、三后などが出先から帰ること)
 中宮さまが宮中にお入りになるのは十七日である。戌(いぬ)の刻(とき)(午後八時ごろ)と聞いていたけれど、延びて夜も更けてしまった。みんな髪上げして控えている女房は、三十人あまり、その顔など、見分けられない。母屋の東の間、東の廂に、内裏の女房も十人あまり、わたしたちとは南の廂の妻戸をへだてて座っていた。 中宮さまの御輿には、宮の宣旨女房がいっしょに乗る。糸毛の車に殿の北の方、それに少輔(しょう)の乳母が若宮を抱いて乗る。大納言の君、宰相の君は黄金づくりの車に、つぎの車には小少将の君と宮の内侍、そのつぎの車にわたしが馬(うま)の中将(中宮女房・左馬頭藤原相尹の娘)と乗ったのを、中将が嫌な人と同乗したと思っているのを見ると、なおさら宮仕えの煩わしさを感じる。殿守(とのもり)の侍従の君、弁の内侍、そのつぎに左衛門の内侍と殿の宣旨の式部までは順序が決まっていて、そのほかは、例によって思い思いに乗り込んだ。車からおりると月がくまなく照らしているので、
〈なんと恥ずかしいことだろう〉
 と、足も地につかなかった。馬の中将が先輩だから先に行くので、どこへ行くかもわからずたどたどしくついてゆく格好を、
〈わたしの後姿をどう見たのだろう〉
 と思うと、ほんとうに恥ずかしかった。
※式部は内気だが、いつも穴のあくほど人間を観察する。これが人によっては〈知的な冷たさ〉として嫌われるのである。
 一条院の東の対の部屋に入って横になっていると、小少将の君(源時通の娘)もいらっしゃって、やはり、こういう宮仕えの辛さなどを語り合って、寒さで縮んだ衣裳を隅にやり、厚ぼったい綿入れを重ねて着て、香炉に火を入れて、体が冷えきった同士が、お互いの不恰好を言い合っていると、侍従の宰相(藤原実成)、左の宰相の中将(藤原公信三十二歳、為光の子)、公信(きんのぶ)の中将など、つぎつぎに寄って来ては声をかけるのも、かえって煩わしい。今夜はいないものと思われて過ごしたいのに、ここにいることをだれかに聞かれたのだろう。
「明日の朝早く来ましょう。今夜はがまんできないほど寒くて、体もすくんでるから」
  などと、こちらの迷惑がっているのに気づいて、それとなくおっしゃって、こちらの詰所より出てゆかれる。それぞれ家路を急がれるけれど、
〈どれほどの女性が待っているのだろう〉
 と見送る。こんなことを思うのは、じぶんの身の上から言うのではなく、世間一般の男女関係、小少将の君が、とても上品で美しいのに、世の中を辛いと思っていらっしゃるのを見るからです。この方は父
(右少弁源時通)が出家(永延元年987年)なさったときから不幸が始まって、その人柄にくらべて運がとても悪いようです。
※還啓の乗車は身分の順で、式部は中位より上だが、儀式で役目があるわけではなく、冊子作りなどで主任格といえる彼女の身分はやや別格である。
〔三六〕殿から宮への贈物
 昨夜の殿からの贈物を、中宮さまは今朝になってていねいにごらんになる。御櫛箱(髪の道具一式をいれる二段重ねの箱)の道具類は、言葉ではいえないほど立派である。手箱が一対、その一方には白い色紙を綴じた本類、『古今集』『後撰集』『拾遺集』などで、その歌集一部はそれぞれ五帖に作って、侍従の中納言(藤原行成・三蹟の一人)と延幹(えんかん 能書の僧)とに、それぞれ冊子一帖に四巻をあてて書かせていらっしゃる。表紙は薄絹、紐も同じ薄絹の唐様の組紐で、箱(懸子〈かけ〉ご)の上段に入れてある。下段には大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)や清原元輔(きよはらのもとすけ 清少納言の父)のような、昔や今の歌人たちの家集を書き写して入れてある。延幹と近澄(ちかずみ)の君(清原近澄か)が書かれたものは、立派なもので、これらはもっぱら、身近において使われるものとして、見たこともない見事な装丁になっているのは、現代風で変わっている。
※『紫式部日記』底本は上下二冊本。ここで上巻が終わる。
下巻
〔三七〕五節(ごせち)の舞姫―十一月二十日
 五節の舞姫は二十日に内裏に入る。中宮さまは侍従の宰相に、舞姫の装束などをお遣わしになる。右の宰相の中将が、舞姫に日蔭の葛(ひかげのかずら 飾りの組紐)のご下賜をお願いなさったのをお遣わしになるついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花に梅の枝をつけて、美しさを競うようにお贈りになる。
 さしせまってから急いで準備する例年よりも、今年はいっそう競い合って立派にしたと評判なので、当日は東の、御前の向かいにある立蔀
(たてじとみ 板張りの目隠しの塀)に、隙間もなく並べて灯してある灯の光が、昼間より明るくて恥ずかしい感じなのに、舞姫たちが静かに入場してくる様子は、
〈あきれるほど、平然としている〉
 とばかり思うけれど、他人事とばかりは思えない。
〈中宮さまの還啓の時も、ただこのように、殿上人が顔をつき合わせたり、脂燭を照らしていないというだけだ。幔幕を引いて人目を遮っているとしても、わたしたちのだいたいの様子は、舞姫たちと同じように見えただろう〉
 と思い出すと、胸がつまってしまう。
※この年の舞姫は四人(侍従宰相藤原実成の娘、右宰相中将藤原兼隆の娘、丹波守高階業遠(たかしななりとお)の娘、尾張守藤原中清(ふじわらのなかきよ)の娘)
 業遠(なりとお 高階業遠)の朝臣の舞姫の介添役は、錦の唐衣を着て、闇夜でもほかに紛れないで、立派に見える。衣装をたくさん重ね着して、身動きもしなやかでないように見える。それを殿上人が、特に気を配って世話をしている。こちらの中宮さまのところに帝もいらっしゃって舞姫をごらんになる。殿も忍んで、引戸の北側にいらっしゃっているので、わたしたちは気ままにできないので面倒だ。
 藤原中清の舞姫の介添役は、背丈も同じくらいそろっていて、とても優雅で奥ゆかしい様子は、他の人にも劣らないと評定される。右の宰相の中将
(藤原兼隆)の介添役は、しなければならないことはすべてしてある。その中の下役の女二人のきちんとした身だしなみが、
「どこか田舎じみている」
 と人々は笑っている。最後に、藤宰相
(とうさいしょう 藤原実成)のは、そう思って見るせいか現代的でとてもお洒落である。介添の女房は十人いる。孫廂(まごひさし)の御簾をおろして、その下からこぼれ出てる衣装の褄なども、得意げに見せているよりは、いっそう見栄えがして、灯火の光の中で美しく見える。
※五節の舞姫が注目されて、平静を装っている辛い心を思いやり、それが他人事でなく、じぶんも同じ境遇であると胸をつまらせる。このように、他人事をじぶんに引きつけ、内省して沈んでゆくのは、式部特有の精神構造である。
〔三八〕殿上の淵酔(えんずい)・御前(ごぜん)の試み―二十一日
 寅の日の朝、殿上人が中宮さまの前に参上する。例年のことだが、ここ数ヶ月の間に里住まいに馴れたせいか、若い女房たち殿上人を珍しいと思っている様子である。きょうはまだ青摺り衣(神事の祭服)も見えない。
 その宵、中宮さまは東宮の亮
(すけ 高階業遠)をお呼び寄せになって薫物を賜る。大きめの箱ひとつに、うずたかく入れられた。尾張の守には、殿の北の方がつかわされた。その夜は御前(五節の舞)の試みとかで、中宮さまも清涼殿へ行かれてごらんになる。若宮も一緒なので、魔除けの米をまき散らし、高らかな声をあげるが、例年とはちがう気がする。
 わたしは気が進まないので、しばらく局で休んで、そのときの様子をみて伺おうと思っていたところ、小兵衛や小兵部なども囲炉裏のそばにいて、
「とても狭いので、よく見えない」
 などと言ってるときに、殿がいらっしゃって、
「どうしてこんなことをしてる、さあ、一緒に行こう」
 と急きたてられるので、その気はなかったが御前に参上した。
〈舞姫たちは、どんなに苦しいだろう〉
 と見ていると、尾張の守の舞姫が、緊張のあまり気分が悪くなって出てゆくのが、現実のこととは思えず夢の中のことのように見える。御前の試みが終わって中宮さまは退出なさった。
 この頃の若い人たちは、もっぱら五節所
(ごせちどころ 舞姫の控室)の趣あることを話している。
「簾の端や帽額
(もこう 一幅の布)さえも、それぞれの部屋ごとに趣がちがっていて、そこに出仕している介添の女たちの髪格好や、立ち居振る舞いさえ、さまざまに趣がある」 
 などと、聞きづらいことを話している。
※華麗な舞姫の内心の苦しさを思わずにいられない式部。
〔三九〕童女御覧(わらわごらん)の儀―二十二日  
 今年のように舞姫の美しさを競うわけではないふつうの年でも、舞姫に付き添っている童女御覧(わらわごらん)の日の童女たちの気持ちは、並大抵の緊張ではないのに、
〈今年はどうでだろう〉
 と、気にかかって早く見たいと思っていると、舞姫たちが付添の女房と並んで出てきたのには、わけもなく胸がつまって、ほんとうに気の毒な気がする。だからといって、特別に好意を寄せる人もいないのだが。われもわれもと、あれほどの人々が自信たっぷりにさし出したからであろうか、目移りしてしまって、その優劣も、はっきりと見わけられない。現代的な感覚の人には、きっと見分けがつくだろう。ただこのような曇りのない日中に、扇も満足に持たせず、大勢の男たちがいる所で、
〈相当な身分、才覚のある人とはいえ、人に負けないよう競い合う気持ちも、どんなに気後れがするだろう〉
 と、無性に気の毒に思われるのは、まったく時代遅れの融通のきかないことだ。
  丹波の守の童女の、青みがかった緑色の正装が、素敵だと思っていたところ、藤宰相の童女は、赤みがかった黄色を着せて、その下仕えの童女に唐衣に青みがかった緑色を対照させて着せているのは、嫉妬したくなるほど気がきいている。童女の容貌も、丹波の守の一人はそれほど整っているとは見えない。宰相の中将のほうは、童女がみな背丈がすらりとして、髪も素敵だ。その中の馴れすぎた童女の一人を、
「どうだろう、あまりよくないのでは」
 と、人々は言っている。みんな濃い紅の衵
(あこめ)を着て、表着はさまざまである。正装の上衣は、みな五重がさねを着ているのに、尾張の守は童女に葡萄染めを着せている。それがかえって由緒ありそうで、衣装の色合いや、光沢など、とても優れている。下仕えの童女の中にとても顔のいいのが、その扇をとらせようと六位の蔵人が近寄ると、じぶんから扇を投げたのは、
〈しっかりしているけれど、女らしくない〉
 と感じた。もしわたしたちが、あの人たちのように人前に出ろということだったら、こんな批評めいたことを言っていてもあがってしまってうろうろしているだけかも。わたしだって以前にはこんなに人前に出るとは思わなかった。けれど、目の前に見ながら浅はかなことは、人の心の常だから、
〈わたしもこれからあつかましくなって、宮仕えに慣れすぎて、男と直接顔を合わせても平気になるだろう〉   
 と、じぶんのことが夢のように思い続けられて、あってはならないこと
(乱れた異性関係か)まで想像して、怖くなるので、目の前の盛儀も、例によって目に入らなくなってしまう。
※童女への同情は自己への反省となる。つまり、他人への同情、批評は必ず内省に進み、自己批判をしてしまう。これが式部の精神の特徴である。
〔四〇〕左京の君
 侍従の宰相(藤原実成)の舞姫の控所は、中宮さまの御座所から見渡せる近くにある。立蔀(たてじとみ)の上から、あの評判の簾の端(出衣〈いだしぎぬ〉)も見える。人々の声もほのかに聞こえる。
「あの弘徽殿の女御
(実成の姉、藤原義子)のところに、左京の馬という人が、慣れた様子でまじっていたね」
 と、宰相の中将
(源経房)が、昔の左京を知っていておっしゃるのを聞いて、
「あの夜、侍従の宰相の舞姫の介添役で、東側にいたのが左京ですよ」
 と、源少将
(源済政)も見ていたのを、なにかの縁があって左京のことを聞きたい女房たちが、
「おもしろいことだわね」
 と言いながら、
「さあ、知らないふりはしていられない。以前上品ぶって住み慣れていた宮中に、こんな介添役なんかで出てくるなんて。本人はわからないと思ってるでしょうが、暴露してやろう」
 ということで、中宮さまの前にたくさんある扇の中で、蓬莱山
(不老不死の仙境)の絵が描いてあるのを特別に選んだのは、なにか趣向があるにちがいないが、その趣向を左京にはわかっただろうか。箱のふたに扇をひろげて、日陰の鬘を丸めて載せ、それに反らした櫛や、白粉など、とても念入りに端々を結いつけた。
「少し盛りを過ぎた人だから、これでは櫛の反りようがたりないな」
 と、男の方がおっしゃるので、今流行りの両端がくっつくくらいみっともないほど反らして、黒坊
(薫香の名)を押し丸めて、不細工に両端を切り、白い紙二枚を重ねて立文(正式の書状)にした。手紙は大輔(たいふ)のおもとにつぎのように書かせた。

おほかりし 豊の宮人 さしわきて しるき日かげを あはれとぞ見し
(大勢いた宮廷人の中で、とりわけ目立った日陰の鬘のあなたを、とても感慨深く見受けた)

 中宮さまは、
「同じことならもっと趣向を凝らして、扇ももっとたくさんあげたら」
 とおっしゃるけれど、
「あまり大げさなのも、趣旨にあわないでしょう。中宮さまが特別にお贈りになるのでしたら、このように内々にして意味ありげになさるものではありません。これはほんの私事なのですから」   
 と申し上げて、顔の知られていない者を使いにやって、
「これは中納言の君
(弘徽殿の女御付の女房)からあずかった女御(義子)さまからの手紙です。左京の君に」
 と声高に言って置いてきた。
〈使いの者が引きとめられたらいけないな〉
 と思っていると、使いは走って帰ってきた。先方では女の声で、
「舞姫の付添で来てるなんてだれも知らないはずなのに、使いはどこから入ってきたの」
 と下仕えにたずねているようだったが、女御さまの手紙と、疑いなく信じてることだろう。
※もと内裏の女房が舞姫の付添でやっきているのを見ていたずらをする。虚栄や嫉妬や競争に明け暮れる宮廷女房社会の一端。
〔四一〕五節も過ぎて
 なにも耳をとどめることもなかったこの数日間だが、五節も終わってしまったという宮中の様子は、急に寂しい気がするけれど、二十六日の夜にあった臨時祭の雅楽の練習は、ほんとうにおもしろかった。若々しい殿上人などは、どんなに名残惜しい気持ちだろう。
 高松の上
(道長の第二夫人、源高明の娘明子)の若い子息たち(頼宗十六歳、頼信十五歳、能信)さえ、中宮さまが宮中にお入りになった夜からは、女房の部屋に入ることを許されて、すぐ近くを通って歩かれるので、ひどくきまりが悪い思いをする。わたしは盛りが過ぎたのを口実にして隠れている。若い子息たちは五節が恋しいなどとは思ってはいないで、やすらい(中宮付の童女の名)や、小兵衛(中宮の若女房)などの、裳の裾や、汗衫(かざみ)にまつわりつかれて、まるで小鳥のようにきゃあきゃあとふざけていらっしゃる。
※五節が過ぎ去った空虚感と高松の子息たちのはしゃぎの対比。
〔四二〕臨時祭(りんじのまつり)―十一月二十八日
 賀茂神社の臨時祭りの神に奉献する使者は、殿のご子息の権の中将(道長の五男教通〈のりみち〉)である。当日は宮中の物忌なので、殿は、宿直(とのい)をなさった。公卿たちも舞人をつとめる人たちも、宮中にこもって、そのため一晩中、女房の部屋があるこの細殿のあたりは、ひどくざわついたけはいだった。
 祭りの日の早朝、内大臣
(公季)の随身が、こちらの殿の随身に贈り物を渡して帰っていったが、それは先日の左京に扇を贈ったときの箱のふたで、それに白銀の冊子箱が置いてある。その箱の中に鏡を入れて、沈(じん)の香木製の櫛、白銀製の笄(こうがい 髪をかきあげる用具)など、使いの権の中将が髪を整えるようにというふうにしてある。箱のふたに葦手書き(仮名を図案化した書風)で浮き出ているのは、あの「日陰」の歌の返事らしい。文字がふたつ抜けていて、なんだか変だなと思えたのは、内大臣(公季)がてっきり中宮さまからの贈物だと思われて、このようにおおげさになさったのだと聞いた。ちょっとしたいたずらが、気の毒なことに、こんなにおおげさになさって。
 殿の北の方も、参内して使者の儀式
(晴れ姿)をごらんになる。教通(のりみち)さまが藤の造花を冠に挿し、とても立派で大人びていらっしゃるのを、内蔵(くら)の命婦(教通の乳母)は、舞人たちには目も向けないで、成人した教通さまをつくづくと見ては感涙にむせんでいた。
 宮中の物忌なので、賀茂の社
(やしろ)から、使いの一行が内裏に丑の刻(午前二時ごろ)に帰ってくると、還立(かえりだち)の神楽などもほんの形ばかり行われた。舞の名手の兼時(尾張兼時)が、去年までは舞人として素晴らしかったが、今年は老けて衰えた動作は、わたしには関係のない人のことだけれど、あわれで、じぶんの身になぞらえることが多かった。
※舞人は桜の造花を挿す。この文章も二項対立、教通の晴れ姿と舞の名手の老残による内省の念。
〔四三〕年末独詠―十二 月二十九日の夜
 師走の二十九日に実家から宮中に参上する。はじめてわたしが宮中へ参上したのも十二月二十九日の夜だった。
〈あの時はまるで夢の中を彷徨い歩いているようだったなあ〉
 と思い出してみると、今ではすっかり宮仕えに慣れてしまっているのも、じぶんながらいやな身の上だと思われる。
 夜はたいそう更けた。中宮さまは物忌にこもっていらっしゃるので、御前にも行かないで、心細い気持ちで横になっていると、一緒にいる若い女房たちが、
「宮中はやっぱり違うわね。実家にいたら、もう寝ているはずなのに、寝つかれないほど女房の局をたずねる男たちの沓音のしょっちょうすること」
 と、どきどきして言っているのを聞いて、

年くれて わが世ふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな
(今年も暮れて、わたしも老いてゆく。風の音に心が荒れて寂しい)

 とひとり言をいう。
※老いゆく身の荒涼たる絶望。
〔四四〕晦日(つごもり)の夜の引きはぎ
 大晦日(おおみそか)の夜、鬼やらい(悪鬼払い)の行事は早くすんでしまったので、お歯黒をつけたりなど、ちょっとしたお化粧などしようとして、くつろいでいると、弁の内侍(藤原義子)がやってきて、話をして、お休みになった。内匠(たくみ)の蔵人(くろうど 中宮女房、女蔵人)は長押の下座に座って、あてき(童女の名)が縫う仕立物の、折り込み方を教えたりなど、せっせとしていたときに、中宮さまのところではげしい悲鳴がする。内侍を起こしたが、すぐには起きない。だれかが泣き騒いでいるのが聞こえるので、とても恐く、どうすることもできない。火事かと思ったが、そうではない。
「内匠
(たくみ)の君、さあさあ」
 と、先に押しやり、
「ともかく、中宮さまは下の部屋にいらっしゃいます。まずそこへ行ってみましょう」
  と、弁の内侍を荒々しくつついて起こして、三人がふるえながら、足も地につかないほどうろたえて行ってみると、裸の人が二人いる。靱負
(ゆげい)と小兵部(こひょうぶ)だった。引きはぎに着物を奪われたのだとわかると、ますます気味が悪い。御厨子所(みずしどころ 食膳を調達する所)の人たちもみないなく、中宮付きの侍(さぶらい)も、滝口の侍(警護の武士)も、鬼やらいがすむとすぐに、みんな退出していた。手をたたいて叫んでも、返事をする人もいない。おものやどり(御膳を納めておく所)の老女を呼んで、
「殿上人の詰所に、兵部の丞
(ひょうぶのじょう 式部の兄、藤原惟規〈のぶのり)という蔵人(くろうど)がいる、呼んできて、呼んできて」
 と恥も忘れて直接に言ったので、老女はすぐに行ったが、兵部の丞はやはり退出していた。こんな情けないことがあるものか。
 式部の丞資業
(すけなり)がやって来て、あちらこちらの灯台の油を、ただ一人で注いでまわる。女房たちは、ただ呆然として、顔を見合わせて座り込んでいる。帝から中宮さまにお見舞いの使いがあった。ほんとうに恐ろしいことだった。中宮さまは納殿(おさめどの 財宝・衣服・調度を納めた蔵)にある衣裳を出させて、この二人に賜った。元日用の晴着は盗っていかなかったので、二人ともなにもなかったようにしているけれども、あの裸姿は忘れられず、恐ろしいものの、今になってみればおかしくもあるけれど口に出してはいえない。
※この引きはぎは、盗賊ではなく、年を越す下人の物ほしさだろう。
※兵部の丞である藤原惟規(ふじわらのぶのり)は、式部の弟というのが通説であるが、兄という説もある。わたしは兄という説をとる。

〔四五〕新年御戴餅(いただきもちい)の儀―寛弘六年正月
  正月一日、元旦なので不吉な言葉は避けるべきだが昨夜のことをつい口にしてしまう。元旦は坎日(かんにち 陰陽道で凶の忌日)にあたっていたので、若宮の御戴餅(小児の頭上に餅をあてる)の儀式はとりやめになった。それで三日の日に若宮は清涼殿におのぼりになる。今年の若宮の陪膳役は大納言の君(廉子)。その装束は、元日は紅の袿、葡萄染めの表着、唐衣は赤色で地摺りの裳。二日は紅梅の織物の表着、打衣の掻練は濃い紅で、青色の唐衣に色摺りの裳。三日は綸子(りんず 滑らかで光沢がある絹織物)の桜がさねの表着、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅の袿は中に、紅の掻練を着る日は濃い紅の袿を中に着るなど、いつもの決まりどおりである。女房たちは萌黄襲、蘇芳襲、山吹襲の濃いのや薄いの、紅梅襲、薄色襲など、ふだんの色目を一度に六つほど、これに表着を重ね合わせて、とても体裁よく着こなして控えている。  
 宰相の君
(豊子)が、若宮のお守刀(まもりがたな)を捧げ持って、殿が若宮を抱いていらっしゃるのに続いて、清涼殿に行かれる。紅の袿の三重縫い五重縫い、三重縫い五重縫いと交互にまぜて、同じ紅色のつやを出した七重襲の打衣に、さらに一重を縫い重ね、重ねまぜて八重にして、その上に同じ紅色の固紋の五重の表着をつけ、袿には葡萄染めの浮紋で堅木の葉の紋様を織ってあるが、縫い方まで気がきいている。それに緑を三重に重ねた裳をつけ、赤色の唐衣は菱の紋様を織って、意匠も唐風にしゃれている。とても美しく髪などもいつもより念入りにつくろってあって、容姿、態度も、上品で美しい。背丈もちょうどよく、ふっくらとした人で、顔はとても可愛く、色艶も美しい。  
 大納言の君
(廉子)は、とても小柄で、小さい部類にはいる人で、色白で美しく、まあるく太っているが、見た目にはすらっとして、髪は、背丈に三寸ほどあまっている裾の様子、髪の生えぐあいなど、すべて個性的で、神経のゆきとどいた美しさだ。顔もとても可愛らしく、身ぶりなども、可憐でやさしい。  
 宣旨の君
(中納言源伊陟〈みなもとのこれちか〉の娘)は、小柄な人で、とてもほっそりしていて、髪の毛筋は細かいところまできれいで、垂れ下がっている髪の末が袿の裾から一尺ほど余っている。こちらが恥ずかしくなるほど、際限なく気品がある。物陰から歩いてこられた姿も気品に満ちていて、自然と気にかけてしまう。上品な人はこのような人だろうと、気立てのよさが、ちょっとしたことをおっしゃっても、わかる。
※宰相の君、大納言の君、宣旨の君の容姿や人柄への賞賛は、続いて他の女房たちの人物批評に移ってゆく。
〔四六〕人々の容姿と性格
 このついでに、人々の容姿のことをお話ししたら、遠慮がないということになるだろうか。それも現在の人のことを。顔をあわせる人のことは、差し障りがあるし、どうかと思われるような、少しでも欠点のある人のことは、言わないことに。
 宰相の君は、豊子様でなく、北野の三位
(藤原遠度)の娘のほう、彼女はふっくらして、とても容姿が整っていて、才気ある理知的な容貌で、ちょっと見たより、見れば見るほど、格段によくて、かわいらしくて、口元に、気品がただよい、こぼれるような愛嬌もそなわってる。立居振舞いもとても美しく、華やかにみえる。気立てもとてもおだやかで、可愛らしく素直で、こっちが気おくれしてしまうような気品もそなわっている。
 小少将の君
(源時通の娘)は、なんとなく上品に優雅で、二月ごろの初々しいしだれ柳のよう。容姿はとても美しく、物腰は奥ゆかしく、性質なども、じぶんでは判断できないように内気で、ひどく世間を恥ずかしがり、見てはいられないほど子どもっぽい。意地の悪い人で、悪しざまにあつかったり事実とはちがうことを言う人があれば、それを気に病んで、死んでしまいそうなほど、弱々しくどうしようもないところが、頼りなくて気がかりです。
 宮の内侍
(橘良芸子)は、とても清楚な人です。背丈もちょうどよいほどで、座っているとき、姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿で、細かに、とりたてて素敵だとは見えないが、とても清楚で、すらりとしていて、中高な顔立ちで、黒髪に映えた顔の色合いなど、ほかの人より優れている。頭髪の格好、髪の生えぐあい、額のあたりなど、
〈まあなんときれいな〉
 と思えて、華やかで愛嬌がある。ごく自然にありのままにふるまって、気立てなどおだやかで、つゆほどもやましいところがなく、すべてあんなふうでありたいと、人の手本にしてもいい人です。風流がったり気取ったりはなさらない。
※宮の弁侍までは式部より上位の女房。人物批評にも敬意と憧憬の念がうかがわれる。
 式部のおもと(橘忠範の妻)は、宮の内侍の妹です。ふっくらしすぎるほど太っている人で、色はとても白く艶やかで、顔は整っていて趣がある。髪も非常に美しく、長くはないので、付け髪などして、宮仕えしている。出仕の当時はその太った容姿が、とても美しかった。目もと、額のあたりなど、ほんとうにきれいで、微笑んだところなど、愛嬌もいっぱい。  
※当時、肥満はかならずしも美人のマイナス条件ではなかったらしい。適度のふっくらとした愛らしさはむしろ好まれた。
 若い人たちの中でも容貌が美しいのは、小大輔(こだいふ)、源式部(げんしきぶ)など。大輔は小柄な人で、容姿はとても現代的、髪は美しく、とても豊かで、丈に一尺以上も余っていたのに、今では抜け落ちて細くなっている。顔もひきしまって、なんて素敵な人と思われる。容貌はなおすところなし。源式部は、背丈もちょうどよく、すらりとしていて、顔も整っていて、見れば見るほど素敵で、可愛らしい風情、清々しくさっぱりしていて、 宮仕えの女房というよりどこかの娘のよう。  
 小兵衛、少弐なども、とてもきれい。それらの美しい女房たちは、殿上人が見すごすなんて、少ない。だれも、まかりまちがうと知れわたってしまうが、見られないところでも用心してるので、知られずにすんでいる。宮木
(みやぎ)の侍従はすみずみまで整った美しい人。とても小さくてほっそりしていて、まだ童女のままにしておきたいようだったが、じぶんから老け込んで、尼になって宮仕えをやめてしまった。髪が、袿の丈に少し余って、その末をとても華やかに切りそろえて参上したのが、宮仕えの最後のとき。顔もとても美しかった。  
 五節の弁という人がいる。平中納言
(平惟仲)が、養女にして大事にしていたと聞いている人です。絵に描いたような顔して、額が広い人で、目じりがとても長く、顔もとくに個性があるわけでなく、色白で、手つきや腕の様子はとても風情があって、髪は、わたしが見た春は、背丈に一尺ばかり余って、豊かにたくさんあったが、父惟仲の横死が原因で、あきれるほど抜け落ちてしまって、裾のほうもさすがに誉められたものではなく、長さは丈に少し余っているよう。  
 小馬
(こま)という人、髪がとても長かった。昔は美しい若女房だったが、今は琴柱(ことじ)に膠(にかわ)をつけたように融通がきかなく実家に引っ込んでいるよう。
  このように言ってきたけれど、さて気立てはとなるとこれはと思う人はいない。それも、それぞれに個性があって、ものすごく悪いのもいない。また、優れて気品があって、思慮ぶかく、才覚や風情も、信頼も、将来性も、すべて持っているような人もいない。みなそれぞれで、どの人をとるべきかと迷う人ばかり多い。こんなこと言ってほんとうにごめんなさい。
※五節の弁の宮仕えは式部よりも後。五節の弁の髪が抜け落ちたのは、父平惟仲の大宰府での横死による悲嘆と傷心が原因。とすると彼女が出仕したのは父が死んだ寛弘二年三月以前であり、式部との出会いもこの春と推定される。
〔四七〕斎院と中宮御所  
 賀茂の斎院に、中将の君(斎院女房、斎院長官源為理の娘。歌人で式部の兄の惟規の愛人だったらしい)という人が仕えていると聞いているが、つてがあって、この人が誰かに書いた手紙を、人がこっそりと取り出して見せてくれた。その手紙はひどく思わせぶりで、じぶんだけが世の中でものの情趣を知っていて、心が深く、比類なく、
〈すべて世間の人は、深い心も分別もない〉
 と思っているらしく、手紙を見たら、無性にむしゃくしゃして、憤りをおぼえ、下賎な人が言うように、ほんとうに憎らしく思えた。たとえ手紙の文面であっても、
「和歌などの趣のあるものは、わが斎院さま
(村上天皇の第十皇女選子内親王四十六歳)よりほかに、だれが見わける人がいるでしょうか。世の中に情趣豊かな人が出現するとすれば、わが斎院さましか見わけることができないでしょう」   
 などと書いてある。 なるほどそれももっともだけれど、じぶんの方のことをそれほど誇って言うのなら、斎院方から作り出された歌はどうかというと、
「優れて良い」
 と思えるものは特にない。ただ斎院はとても趣があり、風情がある生活をなさっている所のようだ。だが、お仕えしている女房を比べて優劣を競うなら、中宮さまのまわりの人たちに、必ずしも斎院方の女房が勝ってはいないはずで、斎院は神域だから、斎院方をいつも内部まで見ている人はいないので、美しい夕月夜とか、風情ある有明の時とか、花見のついでや、ほととぎすの名所として行ってみると、斎院さまはとても趣味豊かな心があって、御所
(ごしょ 北紫野〈きたむらさきの〉)は浮世離れがして、神々しい。また世俗の雑事にとらわれることもない。こちらは中宮さまが帝のところへおあがりになったり、殿がいらっしゃったり、宿直なさるなど騒々しいことが多いが、あちらはそのような俗事に煩わされることなく、ふるまいが、しぜんと風雅を好むようになっているので、優雅のかぎりをつくしたとしても、軽率な言い間違いをすることもないだろう。わたしのような埋もれ木をさらに埋めたような引っ込み思案な性格でも、あの斎院方にお仕えしたのなら、そこで知らない男と出会って、話をするにしても、
〈人が軽薄な女だという評判を立てるはずがない〉
 と、心をゆったりとさせてしぜんと優雅なふるまいをするだろう。まして若い女房で、容貌も、年齢も、引け目を感じることのない人が、それぞれ思う存分色っぽくして、歌を詠むのもじぶんの趣向のままにしたら、斎院方の人たちに劣ることはないだろう。 ところが、こちら中宮方では、宮中で明け暮れ顔をあわせて、競いあわれる女御や后もいらっしゃらず、そちらのお方、あちらの細殿のお方というように、並べて言う相手もいなく、男も女も、争うこともなくのんびりしていて、中宮さまの気風として色っぽいことを、
〈ひどく軽薄なこと〉
 と思っていらっしゃるので、
〈中宮さまのご意志に少しでも背かないようにしよう〉
 と思っている女房は、めったに人前に出ることはない。もっとも、気軽に、恥ずかしがったりもしないで、ああだこうだという人の評判を気にしない女房は、中宮さまのお考えとは違った気持ちを見せないわけでもない。ただそのような女房には、気軽に男たちが立ち寄って話をするので、
「中宮方の女房たちは引っ込み思案だ」
 あるいは、
「奥ゆかしさがない」
 などと批評するのだろう。たしかに上級、中級の女房は、あまりに引っ込みすぎてお高くとまってばかりいるようだ。それでは、中宮さまのために、なんの引き立て役にもならず、かえって見苦しい。
※中宮彰子の唯一の競争相手は皇后定子だったが、定子は彰子が中宮になった長保二年(1000)の十二月に崩じている。  
 こういうと上臈・中臈(上級・中級)の女房の欠点を、わたしがよく知っているようだが、人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない。そのことが優れていれば、あのことが劣る、といったようなものだ。けれど、若い人たちでさえなるべく重々しくふるまおうと真面目にしているのに、上臈・中臈(上級・中級)の人たちが見苦しくふざけたりするのも、ひどくみっともない。とにかく中宮方の雰囲気を、このような無風流にはしたくないと思う。
※「人はみなとりどりにて、こよなう劣りまさることもはべらず(人はみなそれぞれで、ひどく劣ったり勝ったりするものでもない)」式部の確かな人間観察。  
 とはいっても、中宮さまのお心はなにひとつ不足なところがなく、聡明で奥ゆかしくいらっしゃるのに、あまりにも内気な性格だから、
〈気づいても言わないことにしよう。言ったとしても、なんの心配もなく後悔しないですむ人は、めったにいない〉
 と思っていらっしゃる。たしかに、何かの時に、つまらないことを言うほうが、なにも言わないより劣っているに違いない。とりわけ思慮深くない人で、中宮御所で得意顔をしている者が、ひどく見当違いのことを、なにかの時に言ったのを、中宮さまはまだとてもお若い
(十八歳の)時で、
〈ひどく聞き苦しいこと〉
 と心から思われたので、それ以後、
〈ただこれといった過ちがなくて過ごすのが、無難なこと〉
 と思っていらっしゃるお考えに、子どもっぽい良家の子女たちが、みなとてもよく中宮さまの考えにあわせようと仕えているうちに、こんな中宮方の気風
(地味で控え目)になれてしまったのだとわたしは思っている。  
 今では、中宮さまは
(二十三歳で)だんだん大人らしくなられるにつれて、世の中のことも、人の心の良し悪しも、出過ぎるのも控えめなのも、すべておわかりになっていて、
「この中宮御所のことを、殿上人だれもが見なれて、
『特におもしろいこともない』
 と思ったり言ったりしているらしい」
 と、すべてご存じでいらっしゃる。だからといって、女房たちは奥ゆかしさに徹することもできず、ちょっと気を緩めれば、軽薄なことも起こってくるので、無風流に引きこもってばかりいるのを、中宮さまも、
〈もっと積極的になってほしい〉
 と思ったり言ったりもなさるが、この中宮方の控えめな習慣はなおりにくく、また、現代風の若い貴公子たちときたら、この気風に順応して、中宮御所にいる間は実直にふるまう人ばかりである。だがこの貴公子たちも、斎院などのような所では、月を見たり、花を愛でたり、ひたすら風流のあることを、じぶんから求めて、想像したり口にしたりするだろう。
「中宮方は、朝夕出入りして、心惹かれない所で、普通の会話でも歌や詩に関係づけて聞いたり、言ったり、あるいは、男たちから興味あることを話しかけられて、返事を恥ずかしくなくできるような女房は、ほんとうに少なくなった」
 と、殿上人たちは批評しているようだ。でもこれはわたしが直接見たわけではないから、よくはわからない。
※斎院方は風流で奥ゆかしく、中宮方は地味で趣がないという殿上人たちの世評。「みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかし(わたしが直接見たわけではないから、よくはわからない)」の「え知らずかし」は、中宮方への悪評に対する強い反発がある。
 人が立ち寄って話しかけてきたとき、ちょっとした応対をして、相手の気持ちを損なうのは困りもの。上手に応対して当然である。ところがこの当然のことができない、それだけ気立てのいい人はめったにいないということなのだろう。だからといって、とりすまして引っ込んでいるのが賢いといえるだろうか。また、どうして慎みなくあちこちしゃしゃり出るのがよいことなのだろうか。そのときどきの状況に応じて、配慮するのはとても難しいようだ。
 その例をあげると、中宮の大夫
(藤原斉信〈ふじわらのただのぶ〉)がお越しになって、中宮さまに啓上なさるような時に、ひどく弱々しく子どもっぽい上臈たちは、応対なさることはめったにない。また、応対に出られても、どんこともてきぱきと応対しているようには見えない。言葉が足りないでも、心配りができないのでもなく、
〈気がひける、恥ずかしい〉
 と思って、間違ったことを言うのを心配するあまり、できるだけ聞かれないように、ちょっとした姿も見られないようにしようとするのだろう。上臈以外の女房たちは、それほどでもない。男たちと対面しなければならない宮仕えに出たのなら、とても高貴な方でも、宮仕えのしきたりに従うものだが、中宮付の女房たちは、宮仕え以前の姫君の時のままの振舞いで、みないらっしゃる。下級の女房が応対に出るのを、大納言
(藤原斉信)は快く思っていらっしゃらないので、大納言に応対しなければならない上臈の人たちが実家に帰っていたり、局にいても、やむをえず暇がない時には、応対にでる者がいなくて、大納言がそのままお帰りになるときもあるようだ。そのほかの上達部で、中宮さまの御所に来られて、なにか啓上なさるときは、それぞれ、贔屓の女房と、いつのまにかそれぞれ昵懇にしていて、その女房がいないときは、つまらなそうに、帰ってゆくが、そんな人たちがなにか機会があると、この中宮方のことを、
「引っ込み思案だ」
 などと言うのも、無理もないことである。 斉院あたりの人も、こんなところを軽蔑するのだろう。だからといって、
「じぶんの方が、優れていて、他の人はものを見る目がない、風雅もわからないだろう」
 と、侮るのも、筋が通らない。すべて非難するのはたやかく、じぶんに気を配るのは難しいはずのに、そう思わないで、じぶんは賢いと、他人を無視したり、世間を非難しているところに、浅はかな心がはっきりと見える。  
 まったく見せてあげたいような斎院の中将の手紙の書きぶりだった。ある人が隠しておいたのをそっと取り出し、こっそり見せてくれて、すぐに返してしまったので、手紙を見せられないのが残念である。
※式部は藤原実資に信用され、しばしば取次を頼まれている。
※斎院の中将の手紙に対する批評には、激しい憤りがあるが、斎院と中宮のそれぞれの環境と特質を分析した上で反論を進めているので説得力がある。相手の非だけを責めるのではなく、中宮方の短所も素直に自己批判しているところに、つねに自己凝視をする式部の特性がある。
〔四八〕和泉式部・赤染衛門・清少納言批評  
 和泉式部という人とは、趣深い手紙のやりとりをした。だが、和泉には倫理的に感心しないところがある。気軽に手紙を走り書きしたときに、その面で文章の才能のある人で、ちょっとした言葉にも、色艶が見えるようだ。和歌は、とても上手い。でも古歌の知識、歌の理論などは、ほんとうの歌人というわけではなく、口からでるにまかせて詠んだ歌などに、かならず面白い一点の、目にとまるものが詠んである。それほどの歌人であっても、他人が詠んだ歌を、非難したり批評したりする場合、歌というものをよくわかっていないようだ。口からしぜんと歌が出てくるような、そんな感じの歌人。こっちが恥ずかしくなるような素晴らしい歌人とは思えない。
※和泉式部 越前守大江政致(おおえのまさむね)の娘。情熱的な歌人で三十六歌仙の一人。中宮彰子への出仕は寛弘六年の初夏ごろ。
※紫式部と和泉式部は、歌においてはまさに対極にあるといえる。例えば和泉式部はこう詠う。

夢にだに 見で明しつる 暁の 恋こそ恋の 限りなりけれ
(現実はもちろん 夢でさえ恋人の姿を見ることができないで明かしてしまった暁 この恋こそ 悲しい恋の極みだろう)
 
 和泉式部畢生の名歌である。初句から三句まではゆったりと運び、四句から結句まで、コイコソコイノカギリナリケリ、とカ行音を駆使して、たたみかけるようなリズムは、彼女の直情的、情熱的な心情をあますところなく表現し、しかも結句「限りなりけれ」で急転直下、修復不能な嘆きに変わる。

 これに対して、紫式部の歌は、

澄める池の 底まで照らす かがり火に まばゆきまでも うきわが身かな
(澄みきった池の底まで照らす篝火が 恥ずかしいほどに映しだす不幸せなわが身)
 
 藤原道長邸の栄光を見るにつけても、式部はそれを単純に「めでたい」などとは思えない。篝火の光の中に闇を見てしまう。「まばゆきまでも うきわが身かな」と嘆くのは、紫式部独自の人生観である。
 和泉式部は恋を情熱的に歌い上げる。紫式部は輝きの中に闇を見てしまう。歌人と物語作家の歌は、交換不能の秀歌といえる。
 丹波の守(大江匡衡〈おおえのまさひら〉)の北の方を、中宮さまや、殿などのところでは、匡衡衛門(まさひらえもん 赤染衛門)と言っている。歌は格別優れているわけではないが、じつに風格があり、歌人だからといって、すべてにおいて詠み散らすことはしないが、世に知られている歌はすべて、ちょっとしたときの歌も、それこそこっちが恥ずかしくなるような詠みっぷりである。それに対し、ややもすると、上の句と下の句がつながらない「腰折れ歌」を詠んで、なんとも言いようがない気取ったことをしても、じぶんこそ優れた歌人だと得意がってる人なので、憎らしくも気の毒にも思われる。
※赤染衛門 道長家女房。大江匡衡の妻。歌人で三十六歌仙の一人。『栄花物語』正編の作者と伝えられる。
※『赤染衛門集』六一四首の歌がのっているが、残念ながらわたしの琴線に触れる秀歌といえる歌はない。和泉式部の歌は難解だが心に迫るものを感じるのだが・・・。赤染の歌を読んでいくうちに気づいたのは、赤染の歌には代作が多いから、歌が真に迫らないのではないかということである。百人一首には、家集四の「やすらはで 寝なまし物を 小夜更て かたぶく迄の 月を見し哉」があげられているが、この歌も当たり前のことを詠っただけで秀歌とはいえない。
 清少納言こそ、得意顔に偉そうにしていた人。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているけれど、よく見れば、まだいたらないところが多い。このように、人より特別に勝れようと意識的にふるまう人は、かならず見劣りし、将来は悪くなるばかりだし、風流を気取る人は、ひどく寂しくつまらない時でも、しみじみ感動してるようにふるまい、興あることを見逃さないようにしているうちに、しぜんと見当はずれの浮薄な態度にもなるだろう。そういう軽薄になってしまった人の最後が、どうしてよいことがあろうか。
※清少納言 清原元輔の娘。一条天皇皇后定子に仕えた才媛で、『枕草子』の作者。晩年は不幸落魄の身。
※すでに『枕草子』を著して才女として名高い清少納言を痛烈に批判している。
〔四九〕わが身をかえりみて  
 このように、あれこれにつけて、なにひとつ、思い出となるようなこともなくて、過ごしてきたわたしが、夫を亡くして将来の希望もないのは、慰めるすべもないが、だからといって心寂しいだけのわが身だとは思わないようにしよう。そんな荒んだ心が依然として消えないのか、物思いがます秋の夜、縁近くに出て空を眺めていると、ますます、
〈あの月が昔は盛りのじぶんをほめてくれた月なのだろうか〉
 と、老いたわが身を誘い出すように思われる。
〈世間の人が忌むという鳥もきっと渡ってくるだろう〉
 と思われて、すこし奥に引っ込んでも、やはり心の中では際限もなく物思いを続けている。  
 風の涼しい夕暮れに、聞くにたえない琴をひとり鳴らしては、
〈「嘆きくははる
(嘆きが増す)
 と琴の音を聞いてわたしの思いをわかる人もあるだろう〉
 と、忌まわしく思われるのは、愚かで哀れだ。  
※わび人の 住むべき宿と 見るなべに 嘆きくははる 琴の音ぞする
(わび住いをしている人が住んでいるのだろうと見ていると、嘆きが増すように琴の音がする)[古今集] 
 それにしても、見苦しく黒ずんで煤けた部屋に、筝の琴(十三絃の琴)、和琴(六絃の琴)が、調律したままなのに気づいて、
「雨の降る日は、琴柱を倒せ」
 などとも言わないのでそのままに、塵も積もって、寄せて立てかけてあった厨子と柱との間に首をさし入れたまま、琵琶もその左右に立てかけてある。大きな厨子一対に、隙間もなく積んであるのは、一つには古歌や、物語の本が言いようもなく虫の巣となってしまったもので、気味悪いほどに虫が逃げだすので、開けて見る人もいない。もう一方には、漢籍類、大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も特にいない。漢籍類を、どうしようもなく寂しくてしょうがないときに、一冊二冊引き出して見ていると、女房たちが集まって、
「ご主人さまはいつもこんなふうだから、幸せが少ないのです。どういう女が漢籍を読むのでしょう。昔は女が経を読むのさえ止められたのに」
 と陰口を言うのを聞いても、
「縁起をかついだ人が、将来長寿だということは、見たこともない」
 と言ってやりたいけれど、それでは思いやりがないし、
「幸せが少ない」
 と侍女たちの言うのももっともなので。
 何事も人によってさまざま。得意そうに派手で、楽しそうに見える人もいる。すべてにあてもなく寂しい人が、気のまぎれることもないままに、思い出の手紙を探し出して読んだり、仏への勤めに身を入れて、お経を絶えず唱え、数珠音
(じゅずおと)高くもんだりするなど、あまり好感が持てないやり方だと思うので、わたしはじぶんの思うままにしてよいことまで、侍女たちの目を憚って、心の中におさめてなにも言わない。まして宮仕えで人中にまじっては、言いたいこともあるけれど、言わないほうがいいと思えて、わかってくれそうもない人には、言っても無駄だし、なにかと人を非難し、じぶんこそはと思っている人の前では、面倒なので、口をきくのもおっくう。特になにもかもすべてに通じている人はめったにいない。ただ、じぶんがこうと決めこんだこと(主義主張)で、他人を無視しているようなものだ。
 そんな人は、ほんとうの心とは裏腹のわたしの表情を恥ずかしがっているのだと見るけれど、そんなことはなく、面と向かって人に真向かいで座っていたこともあるが、あんなようなものだと非難されないようにしようと、恥ずかしいわけではないけれど、弁解するのが面倒だと思って、ぼんやり呆けてしまった人間のようにみせかけていると、
「こんな方だとは思わなかった。ひどくあでやかに取り澄ましていて、気難しげに、よそよそしい感じで、物語を好み、風流ぶって、なにかというと歌を詠んだりして、人を人とも思わないで、憎らしいほど人を見くだす人なんだと、だれもが言ったり想像したりして反感を持っていたのに、会ってみると、不思議なほどおっとりしていらっしゃって、まるで別人かと思われるほど」
 と、みなが言うので、きまりが悪く、
〈人からこうまでおっとり者と見くだされたのだなあ〉
 と思うけれど、ただこれがじぶんの本心だというように、ふるまっているわたしの様子を、中宮さまも、
「ほんとうに打ち解けてはつきあえないと思っていたけれど、ほかの人よりずっと仲良くなったわね」
 とおっしゃる時もある。個性的で、優雅にふるまい、中宮さまに尊重されている上流の女房の方たちにも、反感を持たれたりしないようにしなければと思う。
※紫式部は、宮廷生活の中で、じぶんを隠すことに懸命だ。なぜなら、内面にはびこる魔を、作品のほかの世界で放てば、人間の顔をした怪物みたいに思われてしまうからだ。これは古典近代期の芸術家たちの〈内心の仮装〉と似たものといっていい。
〔五〇〕人の心さまざま  
 見苦しくないよう、すべて女は穏やかに、心の持ち方もゆったりとして、落ち着いていることを基本としてこそ、品位も風情も、魅力的で親しみがもてる。あるいは、色っぽく移り気であっても、生来の人柄にくせがなく、周囲の人にもつきあいにくい様子をしないようになってしまえば、憎いことはない。じぶんこそはちがうと、人の関心を引くことに慣れて、態度が仰々しくなった人は、立ち居振る舞いだって、じぶんで気を配っているときでも、その人には目がとまる。目がとまれば、かならずものを言う言葉の中にも、来て座る動作にも、立ってゆく後姿にも、かならずそうした癖はみつけられるものだ。言うことが少しちぐはぐな人と、他人のことをすぐけなしてしまう人とは、なおさら注意深く聞いたり見たりされるようになる。悪い癖のない人であれば、なんとかして、ちょっとした批判の言葉も聞かなかったことにして、形だけでも好意をかけてあげたくなる。  
 人が故意に、いやなことをした時は、悪いことを誤ってやった時でも、これを笑っても、遠慮はいらないと思う。とても心の美しい人は、他人がじぶんを憎んでも、じぶんはなおさら、その人を思って世話をするかもしれないけれど、普通の人はとてもそんなことまではできない。慈悲深い仏様だって、三宝
(仏・法・僧)をそしる罪は軽いなんて説かれているだろうか。まして、これほど濁りきった世俗の人は、こちらに辛くあたる人には辛くしてもよい。それを、じぶんのほうが上だと言わんばかりに、ひどい言葉を言って、面と向かって険悪な表情でにらみ合ったりするのと、そうではなくて心の中を見せず、表面は穏やかにしているのとの違いによって、心の良し悪しはわかるものだ。  
※紫式部にとって人間の差は、本心を露にするか、包み隠して寛大にふるまうかの違いにある。
〔五一〕日本紀(にほんぎ)の御局(みつぼね)・楽府(がふ)御進講  
 左衛門(さいも)の内侍(ないし)(内裏女房、橘隆子)という人がいる。この人がどういうわけかわたしのことを不快に思っていたのを、知らないでいたところ、いやな陰口がたくさん聞こえてきた。
 帝
(一条天皇)が、『源氏物語』を女房に読ませてお聞きになっていたときに、
「この作者は、日本紀
(にほんぎ 『日本書紀』の古称)を読んいるにちがいない。実に学識がある」
 と仰せられたを、内侍が当て推量して、
「とっても学問があるんだって」
 と、殿上人などに言いふらして、
「日本紀の御局
(みつぼね)
 とあだ名をつけたが、まったくばかばかしいことだ。じぶんの実家の侍女の前でさえ、漢籍を読むのを隠しているのに、宮中のようなところで学識をひけらかすことなんかしない。
 わたしの兄の式部の丞
(藤原惟規、引きはぎ事件では兵部の丞)という人が、子供のころに漢籍を読んでいた時、そばで聞いて覚えていて、兄が時間をかけて理解したところや、忘れたりしたところでも、わたしは不思議なほど早く理解したので、学問に熱心だった父は、
「悔しい。この娘
(こ)が男の子でなかったのは不運だ」
 と、いつも嘆いていらっしゃった。 それなのに、
「男だって学問をひけらかす人は、どういものだろうか。栄達はしないだろうよ」
 と、だんだん人が言うのを聞いてからは、一という漢字でさえ書いてみせないので、あまりにも無学で、あきれるほどだ。かつて読んだ漢籍などというものは、目にもとめなくなっていたのに、さらにこんなあだ名を聞いたので、
〈こんなことでは人も伝え聞いて憎むだろう〉
 と、恥ずかしいので、屏風に書いてある文字さえ読まないふりをしていたのに、中宮さまが御前で、『白氏文集』のところどころをわたしに読ませられたりして、
〈この方面
(漢詩文)のことを知りたそうにしていらっしゃる〉
 と思われたので、極力人目を避けて、女房の伺候していないあい間あい間に、一昨年の夏ごろ
(寛弘四年)から、
「楽府
(がふ 『白氏文集』の巻二、巻三)
 といふ本二巻を、きちんとではないが教えさせていただいているが、このことも隠している。中宮さまもお隠しになっていたが、殿も帝もその様子をお気づきになり、殿は漢籍などを立派に書家に書かせられて、中宮さまにさしあげられた。中宮さまがこうしてわたしに漢籍を読ませられていることまでは、さすがに、あの口うるさい内侍も、聞きつけていないだろう。
〈もし知ったなら、どんなに悪口を言うだろう〉
 と思うと、何事においても世の中というものは煩わしいことが多く厭なものである。
※この箇所から惟規を式部の弟とする説が多いが、〔四四〕の「晦日の夜の引きはぎ」のところでも言ったが、わたしは兄だと理解している。原文では、「かの人はおそう読みとり」となっていて、弟がなかなか理解できなかったことを、そばで聞いていた姉が弟よりも早く理解したというのでは、わざわざ日記に認めなくてもいいと思う。兄よりも年少の式部のほうが早く理解したから、あえて日記に認めたのであり、父の為時も残念がったのである。
※『紫式部日記』をここまで読んできて、『源氏物語』のすさまじい肉迫力と、骨身をけずるような描写力は、類まれな詩魂と学才を持った、ひとりの容赦ない女流から必然的に生み出されたことを納得する。
〔五二〕求道の願いとためらい  
 さあ、今は言葉を慎むのはやめよう。他人が、とやかく言っても、ただ阿弥陀仏を信じて、お経を習おう。世の中の厭わしいことは、すべて露ほども未練はなくなったので、出家しても、仏道修行をなまけることはない。ただそう思って出家しても、来迎の雲に乗らないうちは心が迷うこともあるかもしれない。そんなわけで、出家をためらっている。年齢も、出家に適したころあいになってきた。これ以上老いぼれては、目もかすんでお経も読めないし、心もおっくうになっていくから、信心深い人の真似のようだけれど、今はただ、仏道方面のことだけを考えている。それにしても、わたしのような罪深い人間は、必ずしも出家の願いがかなうとはかぎらない。前世の罪を思い知らされることばかり多いので、なにごとにつけても悲しいことだ。
※出家を望みながら、なお俗世を離れられない人間の宿命的な苦悩。これが後々「宇治十帖」で深く展開されることになるだろう。
〔五三〕文をとじるにあたって  
 手紙にうまく書き続けられないことを、良いことでも悪いことでも、世間の出来事や、身の上の憂えでも、残らず言っておきたいと思います。いくら不都合な人を念頭において、申し上げたとしても、こんなことまで書き立ててよいのでしょうか。しかし、あなたもすることがなくて退屈でしょうから、どうかわたしの所在ない気持ちをごらんになってください。また、思っていらっしゃることで、こんな無益なことはたくさんなくても、お書きください。拝見いたしましょう。万が一この手紙がひと目に触れるようなことになったら、ほんとうに大変なことでしよう。世間の耳も多いことです。このごろはいらなくなった手紙もみんな破ったり焼いたりして捨ててしまい、雛遊びの家を作るのに、この春使ってしまってからは、人からの手紙もありませんし、紙にわざわざ書くことはないと思ってるのも、人目に立たないようにしているからです。でもそれは悪い事情からではなく、意図してやったことです。この手紙をごらんになったら早くお返しください。あちこち読めないところや、文字の抜けたところがあるかもしれません。そういうところは、構いません、読み過ごしてください。このように世間の人の口の端を気にしながら、最後に書き終えてみると、わが身を捨てきれない未練な心が、こんなに深くあるものですね。われながら一体どうしようというのでしょうか。
※〔四六〕人々の容姿と性格の「このついでに・・・・・・」からここまでが消息文といわれている部分である。しかし、この部分はだれかに宛てた消息と見るより、式部が率直な心情を吐露するために、その形式をかりただけと見たほうがいいだろう。
〔五四〕御堂詣でと舟遊び 
 十一日の明け方に、中宮さまは御堂(土御門邸の池のほとりにある供養堂)へお渡りになる。中宮さまのお車には殿の北の方(倫子)が同乗なさり、女房たちは舟に乗って池を渡った。わたしはそれには遅れて夜になってから参上した。祈願の仏事では、比叡山や三井寺(ともに天台宗の本山)の作法どおりに大懺悔(滅罪のための作法)をする。上達部は白い百万塔などをたくさん絵に描いて、遊び興じていらっしゃる。その多くは退出なさって、少しだけ残っていらっしゃる。後夜の御導師の祈願は、説教の仕方がみなそれぞれ異なっていて、二十人の僧たちがみな中宮さまがこのように身重でいらっしゃる旨を、一生懸命に祈って、言葉につまって、笑われることもたびたびあった。
 仏事が終わって、殿上人たちは舟に乗って、みな次々と漕ぎ連ねて管弦の遊びをする。お堂の東の端の、北向きに押し開けてある戸の前に、池に降りられるよう造ってある階段の欄干を押さえるようにして、中宮の大夫は座っていらっしゃる。殿がちょっと中宮さまのところへ行かれたときに、宰相の君などが中宮の大夫の話し相手をして、中宮さまの前なので、打ち解けないように気をつけている様子など、御簾の内も外も趣のある雰囲気である。  
 月がおぼろに出て、若々しい男たちが、今様歌
(当時流行の俗謡)を歌うのも、かれらはみなうまく舟に乗ることができて、若々しく楽しく聞こえるが、大蔵卿(藤原正光五十三歳)が、その中に年がいもなく入って、さすがに若い人たちに一緒に歌うのも気がひけるのか、ひっそりと座っている後ろ姿がおかしく見えるので、御簾の中の女房たちも秘かに笑う。
「舟の中にや老をばかこつらむ
(舟の中で老いを嘆いているのでしょうか『白氏文集』巻三「海慢慢」の詩の一句の「童男丱女舟中老。徐福文成多誑誕」による)
 とわたしが言ったのを、お聞きになったのか、中宮の大夫
(藤原斉信〈ふじわらのただのぶ〉)が、
「徐福文成
(じょふくぶんせい)誑誕(きょうたん)多し(徐福や文成は嘘が多い)
 と、朗唱なさる声も様子も、格別新鮮に感じられる。
「池の浮き草
(今様歌の一節)
 などと謡って、笛などを吹き合わせているが、その明け方の風の様子さえも、格別の風情がある。こんなちょっとしたことも、場所柄、時節柄で趣深く感じるものである。
〔五五〕人にまだ折られぬものを  
 『源氏物語』が中宮さまのところにあるのを、殿がごらんになって、いつもの冗談を言い出されたついでに、梅の実の下に敷かれている紙にお書きになる。  

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ  
(浮気者と評判がたっているので おまえを見た人で口説かないですます人はいないと思う)  

 という歌をくださったので、  

人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ  
(だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょう)  

 心外なこと」
 と申し上げた。  
※この段の年時については諸説ある。おそらく寛弘五年の記事が紛れこんだのだろう。  
※道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を実生活でも恋愛に精通したものとしてからかっているが、このからかいの中には式部を抱いてみたいという本音が混じっていると思う。
〔五六〕戸をたたく人  
 渡り廊下にある部屋に寝た夜、部屋の戸をたたいている人がいると聞いたが、恐ろしいので、返事もしないで夜を明かした翌朝に殿から、  

夜もすがら 水鶏
(くいな)よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる  
(昨夜は水鶏以上に泣く泣く槙の戸口で、夜通したたき続けたよ)  

返歌、  

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいか に くやしからまし  
(熱心に戸をたたかれたあなただから、戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう)
※藤原道長は紫式部にとって尊敬できる人間味にあふれた殿であったが、このように夜更けに戸を叩いて、強引に肉体関係を持とうとする老醜の男でもあったのだ。
〔五七〕若宮たちの御戴餅(いただきもちい)―寛弘七年正月
 今年は正月三日まで、若宮たち(敦成〈あつひら〉親王、敦良〈あつなが〉親王)の御戴餅(いただきもちい)の儀式のために毎日清涼殿におのぼりになる、そのお供に、みな上臈女房たちも参上する。左衛門の督(かみ)(藤原頼通十九歳)が抱かれて、殿が、お餅を取りついで、帝(一条天皇)に差し上げられる。二間の東の戸に向かって、帝が若宮たちの頭上にお餅をいただかせなさるのである。若宮たちが抱かれて帝の前に参上したり退下したりする儀式は、見物である。母宮さまはおのぼりにならなかった。  
 今年の元日は、御薬の儀の陪膳役は宰相の君で、例の衣装の色合など格別で、実に素晴らしい。御膳を取りつぐ女蔵人は、内匠
(たくみ)と兵庫(ひょうご)が奉仕する。髪上げした容貌などは、陪膳役の方が格別立派に見えるけれど、そのおつとめの胸中を察すると、わたしはたまらなくせつない気持ちになる。御薬の儀の女官の、文屋(ふや)の博士(内裏女房、文屋時子)は、利口ぶって才がありそうにふるまっていた。献上された膏薬(唐薬)が配られたが、それは例年行われることである。
※膏薬(皇薬)を忌んで唐薬という。正月三日に典薬寮から膏薬献上の儀があり、天皇はこれを右の薬指で額と耳の裏に塗る。式後人々にも配った。
〔五八〕中宮の臨時客・子(ね)の日の遊び  
 二日、中宮様の宴はとりやめになって、臨時客が、東面の間をとり払って、例年のとおり行われた。列席の公卿たちは、傅(ふ)の大納言(藤原道綱)、右大将(藤原実資)、中宮の大夫(藤原斉信)、四条の大納言(藤原公任)、権中納言(藤原隆家)、侍従の中納言(藤原行成)、左衛門の督(かみ)(藤原頼通)、有国(ありくに)の宰相(藤原有国)、大蔵卿(おおくらきょう)(藤原正光)、左兵衛(さひょうえ)の督(かみ)(藤原実成)、源(げん)宰相(源頼定)たちが、向かい合ってお座りになっていた。源中納言(源俊賢)、右衛門(えもん)の督(藤原懐平)、左の(源経房)右の(藤原兼隆)の宰相の中将は、長押(なげし)の下手の、殿上人の上座にお着きになった。殿が若宮を抱かれて出てこられて、いつもの挨拶などを若宮に言わせたりして、可愛がられ、北の方に、
「弟宮
(敦良親王)を抱いてあげよう」
 と殿がおっしゃったのを、兄宮
(敦成親王)がひどくやきもちを焼かれて、
「いや」
 と駄々をこねられるのを、殿は可愛く思われて、あれこれなだめあやされるので、右大将などはおもしろがっていらっしゃる。  
 それから公卿たちは清涼殿に参上して、帝も殿上の間に出てこられて、管弦の御遊があった。殿は、いつものように酔っていらっしゃる。わたしは避けたいと思って、隠れていたのに、
「どうして、おまえの父は、わたしが御前の御遊びに呼んでやったのに、伺候もしないで急いで帰ったのか。ひねくれてる」
 などと、気分を害していらっしゃる。
「その罪が許されるほどの和歌を一首詠め。父親のかわりに。今日は初子
(はつね)の日だ。詠め、詠め」
 と責められる。すぐに歌を詠んだら、みっともないことだろう。ひどく酔っていらっしゃるので、ますます顔色が美しく、灯火に照らされた姿は輝き映えて素晴らしく、
「ここ数年来、中宮が寂しそうな様子で、一人でいたのを、侘しく見ていたが、このようにうるさいほどに、左右に若宮たちを拝見するのは嬉しいことよ」
 とおっしゃって、お休みになっている若宮たちを、帳台の垂絹を何度も開かれては見ていらっしゃる。そして、
「野辺に小松のなかりせば」
 と口ずさまれる。新しく歌を詠まれるより、こういうときにぴったりの歌を出してこられる、そんな殿の様子が、わたしには立派に思われた。  
※子の日する 野辺に小松の なかりせば 千代のためしに なにを引かまし(若宮たちがいなかったら わが世の千年の繁栄の証を何に求めよう[拾遺集]春、壬生忠岑)
※二皇子を得た道長の喜びに式部も共感している。
〔五九〕中務の乳母  
 つぎの日の、夕方、早くも霞んでいる空を、幾重にも建ち並んだ殿舎の軒が隙間もないので、ただ渡り廊下の上の空をわずかに眺めながらだが、中務の乳母(中宮女房、源隆子)と、昨夜の殿が口ずさまれたこと(野辺に小松のなかりせば)をほめあう。この命婦は、ものの道理をわきまえた、よく気がきくお人です。
※敦良親王の乳母である中務の命婦にとっても、道長が「野辺に小松のなかりせば」と口ずさんだことは当然嬉しいことだった。
〔六〇〕二の宮の御五十日―正月十五日
 ほんのちょっと里に帰って、二の宮(敦良親王)の御五十日のお祝いは、正月十五日なので、その明け方に参上したが、小少将の君(源時通の娘)は、すっかり夜が明けた間が悪いほどのころに参上なさった。いつものように同じ部屋にいた。二人の部屋を一つに合わせて、一方が実家に帰っているときもそこに住んでいる。一緒にいる時は、几帳だけを仕切りにして暮らしている。殿はお笑いになる。
「お互いに知らない男でも誘ったら、どうするつもりだ」
 などと、聞きづらいことをおっしゃる。でも、ふたりとも、そんなによそよそしくはないから、安心である。  
 日が高くなってから中宮さまの御前に参上する。あの小少将の君は、桜の綾織の袿に、赤色の唐衣を着て、いつもの摺裳をつけていらっしゃった。わたしは紅梅の重袿
(かさねうちき)に萌黄(もえぎ)の表着、柳襲の唐衣で、裳の摺り模様なども現代風で派手で、とりかえたほうがよさそうなほど若々しい。帝付きの女房たち十七人が、中宮さまのところへ参上した。弟宮の陪膳役は橘の三位(内裏女房、橘仲遠の娘徳子)。取次役は、端の方に小大輔(中宮女房)、源式部(中宮女房)、内には小少将の君が奉仕する。帝と、中宮さまとが、御帳台の中にお二人で一緒にいらっしゃる。朝日がさして光り輝いて、まばゆいばかり立派な御前の情景である。帝は、御引直衣(おひきのうし)に小口袴(こぐちばかま)をお召しになり、中宮さまはいつもの紅の袿に、紅梅、萌黄、柳、山吹の袿を重ねられ、上には葡萄染めの織物の表着をお召しになり、柳襲の上白の御小袿の、紋様も色合いも珍しく当世風なのを着ていらっしゃる。あちらはとても目立つので、わたしはこちらの奥にこっそり入りじっとしていた。 中務の乳母が、弟宮を抱かれて、御帳台の間から南面の方に連れて行かれる。よく整っていてすらりとはしていない容姿で、ただゆったりと、重々しい様子で、乳母として人を教育するのにふさわしい、才気の感じられる雰囲気がある。葡萄染めの織物の小袿と、紋様のないの青色の表着の上に、桜襲の唐衣を着ていた。  
 その日の女房たちの衣装は、だれもかれもが華麗を尽くしていたが、袖口の色の配色のよくない人でも、御前の物を受け取る時に、大勢の公卿たちや、殿上人たちに、袖口をまじまじと見られてしまったと、あとになって宰相の君なども、悔しがっていらっしゃったようだ。とはいっても、それほど悪いというほどでもなかった。ただ色の取り合わせが引き立たなかっただけだ。小大輔
(こだいふ)は、紅の袿一重に、上に紅梅の袿の濃いのや薄いのを五枚重ねていた。唐衣は、桜襲。源式部(げんしきぶ)は濃い紅の袿に、さらに紅梅襲の綾の表着を着ていたようだ。唐衣が織物でなかったのをよくないとでもいうのだろうか。でもそれは禁色だから無理というもの。公の晴れの場でこそ、過失がはた目にちらりと見えた場合なら、批判されてもよいだろうが、衣装の優劣は身分上の制約もあることだから言うべきではない。  
 弟宮にお餅を献上なさる儀式なども終わって、御食膳なども下げて、廂の間の御簾を巻き上げる、そのそばに帝付きの女房たちは、御帳台の西側の昼の御座の向こうに、重なるようにして並んでいた。橘
(たちばな)の三位の君をはじめとして、典(ないしの)侍(すけ)たちも大勢参上していた。  
 中宮付きの女房たちは、若い人々は廂の長押の下手に、東の廂と母屋の間の南側の襖を取り外して御簾をかけてある所に、上臈の女房たちは座っていた。御帳台の東側の隙がわずかにあいてる所に、大納言の君や小少将の君が座っていらっしゃる、そこにわたしは訪ねていって祝宴を拝見する。  
 帝は、平敷のご座所につかれ、御食膳が差し上げられ並べられた。お膳の調度や、飾りつけの様子は、言いようがないほど立派である。縁側には、北向きに西の方を上座にして、公卿たちは、左・右・内の大臣たち、東宮の傅
(ふ)、中宮の大夫、四条の大納言と並び、それより下座は見ることができなかった。  
 管弦の遊びが催される。殿上人は、こちらの東の対の東南にあたる廊に伺候している。地下
(じげ)の席は決まっている。景斉(かげまさ)の朝臣(あそん)(藤原景斉)、惟風(これかぜ)の朝臣(藤原景斉)、行義(ゆきよし)(平行義)、遠理(とおまさ)(藤原行義)などというような人がいた。殿上では、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁が琵琶、琴は□(不明)、左の宰相の中将が笙(しょう)の笛ということである。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)(催馬楽)」、次に「席田(むしろだ)(催馬楽)」「此殿(催馬楽)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに「伊勢の海(催馬楽)」を謡う。右大臣は、
「和琴が実に見事だ」
 などと、聞きながらお褒めになる。戯れていらっしゃったようだが、そのあげくにひどい失態をなさった気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二
(はふたつ)」で、箱に納めて差し上げられたと拝見した。  
※右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。[御堂関白記] 
※笛は道長が、去る十一日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。
 
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