|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
仁を得たキャストで贈る歌舞伎の世界!
原作をさらに面白くした
逆転につぐ逆転の世界!
●セクシュアルな娘から手のつけられない悪党への切り替えが魅力の中島千鶴の弁天小僧!
●魅力的な声で豪快な海の男を演じる小林由芽の南郷力丸!
●齢68、貫禄の重さが魅力の和田宏一の日本駄右衛門!
●原作改変の鍵を握る女コメデイアン谷麻帆の番頭与九郎!
●騙りを見抜く啖呵がみどころ、松本まどかの亀の子清次!
●悪と善の2役をこなす佐倉愛依の手下と宗之助!
●深田ちひろの浜松屋幸兵衛をはじめ女性全員が男役に!
●長唄をはじめ拍子木、ツケ打ちも「えむ栄C座」の座員が!
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
言葉の美を成立させる
河竹黙阿弥の名ぜりふ
浜松屋の手代たちが弁天と南郷のことを
「どこの馬の骨か、知るものかい」
と言うので、二人は次のように名乗る。
弁天 知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江之島で年季勤めの児ヶ淵、江戸の百味講の蒔銭を当てに小皿の一文子、百が二百と賽銭のくすね銭せえだんだんに悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の枕捜しも度重なり、お手長講と札付きにとうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で小耳に聞いた祖父さんの似ぬ声色で小ゆすりかたり、名さえ由縁の弁天小僧菊之助とはおれのことだあ。
南郷 その相ずりの尻押しは、富士見の間から向こうに見る、大磯小磯小田原かけ、生まれが漁師で波の上、沖にかかった元船へその舟玉の毒賽をぽんと打ち込み捨て碇、船丁半の側中を引っさらって来るかすり取り、板子一枚その下は地獄と名に呼ぶ暗闇も、明るくなって度胸がすわり、艪を押しがりや、ぶったくり、舟足重き刑状に、昨日は東、今日は西、居所定めぬ南郷力丸、面あ見知ってもらいやしょう。
ご存じ河竹黙阿弥の名ぜりふである。
これが名ぜりふたるゆえんは、まず七五調の〈韻律〉にある。例えば手代たちに素性を聞かれて、弁天が「 知らざあ言って聞かせやしょう」ではなく、
「知らないなら教えてやるよ」
とか、南郷が「 その相ずりの尻押しは」ではなく、
「弁天の仲間のおれは」
というように散文(歌舞伎で言えば世話)で言ったとしたら言語としての美はないが、弁天と南郷が、
「知らざあ言って(七)聞かせやしょう(五)浜の真砂と(七)五右衛門が(五)歌に残せし(七)盗人の(五)」
「 その相ずりの(七)尻押しは(五)富士見の間から(七)向こうに見る(五)」
というように、この名乗りのせりふをすべて七五七五と音数律を踏んで語るので、それによって盗人のせりふが言葉の美をなし、演劇作品としての芸術性が成り立つのである。
このように言葉の美を成立させる〈韻律〉に加え、黙阿弥は〈選択〉と〈転換〉も上手い。
〈選択〉と〈転換〉とは、どういう言葉を選ぶか、どういう事柄を選ぶかということである。例えば、弁天の
「知らざあ言って聞かせやしょう」
の次に語る言葉や事柄は千差万別で、ある意味では無限にある。この無限にある中から、黙阿弥は
「 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の」
を選んだ。なぜ黙阿弥がこの言葉を選んだかというと、手代たちに
「どこの馬の骨か、知るものかい」
と言われたことが起因している。弁天は手代たちに無名の小悪党と見られプライドを傷つけられた。そこで17歳の弁天は若者特有の背伸びしがちな自己顕示欲から大悪党の石川五右衛門の名前を出したのである。
もう一つ〈転換〉でいえば、弁天の色気たっぷりなせりふから、南郷の豪快な海の男へのせりふへの転換は見事である。黙阿弥は七五調の華麗な文飾を施していながら弁天と南郷をうまく書き分けている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
美しい娘の
セクシュアルなイメージが
桜の刺青をした少年の
不思議に美しい
夢の世界へと転化する。
河竹黙阿弥の原作を
深く読み込み、
一幕の芝居の中に
劇的リアリティを
随所に盛り込んだ
三澤憲治台本・演出の
弁天娘女男白浪。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
歌舞伎の伝統だの、常識などを そのまま鵜呑みにするのは危険だ。
なぜなら、歌舞伎の様式化は 時として段取り芝居に堕落し、芝居としての劇的リアリティがなくなってしまうからだ。
歌舞伎だろうがなんだろうが、芝居は劇的リアリティがなければ面白くない。
河竹黙阿弥は 弁天小僧の出を次のように書いている。
(花道より弁天小僧高髷の島田、振袖、屋敷娘のこしらえにて、 南郷力丸侍のこしらえにて、付き添い出で来たりて)
弁天 これ四十八、浜松屋というのはどこじゃぞいの。
南郷 つい向こうに見えます呉服屋でござります。
弁天 婚礼の仕度じゃということは、必ず言うてたもんなや。
南郷 申してもよいではござりませぬか。
弁天 それでもわたしゃ恥ずかしいわいな。
ここでの劇的リアリティは 17歳の武家屋敷の娘の 美しく成熟したからだと 結婚を間近に控えた思春期の娘の 無邪気な恥じらいである。
この劇的リアリティをまず獲得しなければ 浜松屋の場は成立しない。そして、この美しい娘のセクシュアルなイメージは 桜の刺青をした少年の 不思議に美しい夢の世界へと転化するのである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
浜松屋の主人幸兵衛に店の支配を退役させられた番頭の 与九郎が、店の金を盗んで逃げようとすると、奥から
「どろぼうどろぼう」
と言いながら小僧が出て来る。与九郎はびっくりして、
与九 ええ、今のは何だ。
小僧 猫が干物を引いたのさ。
与九 疵持つ足でびっくりした。
と胸を撫でおろし、小僧を打つ真似をする。この見得、題目太鼓にて道具廻る。
これが原作の浜松屋の場の終わり方だが、 現在の歌舞伎ではこれはカットされて、 まったく違うように書き換えられ、番頭と小僧の 茶番劇が演じられてから道具が廻る。
わたしたちの公演では、浜松屋の場を一幕として 完結させるので、原作を踏襲しつつ、与九郎の 行動をもっと拡張することによって浜松屋という呉服店の劇的リアリティを表現することにした。
写真の
反物
銭箱の鍵
アジの干物
も劇的リアリティを表現するに 欠かせない道具である。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
浜松屋の場で花道を使うのは、弁天小僧と南郷力丸である。
二人の花道を使った「出」は、原作通りに演じてなんの問題もないのだが、二人の「引込み」は、原作通りに演じるわけにはいかない。
原作を見てみよう。
浜松屋を退散するときに、弁天小僧は上着と帯を、南郷は袴と大小というように、それぞれに荷物を担いでいるので、
弁天 なにしろこいつが、邪魔だな。
南郷 一緒にして坊主持ちにしよう。
弁天 それがいいそれがいい。
卜門附の合方にて弁天一つに結わえて肩にかけ行きかけると一人の按摩出て来る。
弁天 そりや按摩だ、そっちへ渡すぞ。(ト南郷に渡す)
南郷 べらぼうに早いじやあねえか。
ト按摩花道にて忘れ物をせし思い入れあって、後へ引き返す。
南郷 やあ、後へ帰ったからそっちへ返すぞ。
弁天 いめえましい按摩だな、(ト肩へかけ新内を語り)あんまにむごいどうよくな、
卜南郷口三味線にて花道へ行きかける、按摩また取って返し花道にて行きあい、舞台の方へ行く、弁天気づかぬ思い入れ。
按摩 あんま針。(トこれにて弁天心づき)
弁天 や、あんまか。(ト振り返る)
南郷 新内で川流れだ。
弁天 ええいめえましい。
ト両人よろしく花道へ入る。
この二人の軽妙なやりとりは江戸時代の観客なら笑うだろうが、現在の観客は笑わないだろう。いや笑わないどころか、按摩を
「盲人に対する蔑称」
と受け取って、不快な思いをするにちがいない。
そこでわたしたちの公演では、この花道の場をすべてカットして書き直し、原作にはないもう一つの劇的リアリティを付け加えた。これで身障者の方を傷つけることなく、お客様誰にも大いに笑っていただけると思う。
花道とは、
「役者を近くで見て、その華やかな気分を味わいたい」
という観客心理から成り立っている。その願望にも応えたい。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
原作では、弁天と南郷が浜松屋にやって来る前に、二人の頭である日本駄右衛門がやって来て、
「北条家への進物じゃが、濡珍、緞子の類、織物を見せてくりゃれ」
と言うと、浜松屋の幸兵衛が出てきて、
「幸い京都からただ今着きました品がござりますれば、取り出し御覧に入れましょう。しかし、少々手間どりますれば、ここは端近、奥の間でしばらくお待ち下さりませ、お茶を一服差し上げとうござりまする」
と言うので、駄右衛門は幸兵衛に連れられて奥へ行く。
こういう前置きを黙阿弥は書いているから、弁天と南郷が百両を騙し取って帰ろうとするときに、駄右衛門が奥から出てきて、
「お侍、ちょっと待ってもらいたい」
と呼び止めても、つじつまが合うのだが、現在の歌舞伎上演ではこの前置きをすべてカットしているからこの時の駄右衛門の出が唐突になってしまう。
「それなら原作通りに駄右衛門の前置きを上演すればいい」
ということになるのだが、ことはそう簡単にはいかない。原作を見てみよう。
花道より駄右衛門羽織袴大小にて若徒作平、中間を伴い出で来り、
駄右 こりゃ作平、浜松屋と申すは向こうの店じゃの。
作平 さようにござります、近年の仕出しにござりますが、ことのほか繁昌いたしまする。
駄右 いかさま、左様相見ゆる。
作平 ご進物の品々は、あれにてお求め遊ばしますか。
駄右 されば、何か珍しき品もあろうかと存じて。
作平 さようなら、ご案内いたしましょう。
花道より弁天小僧、高髷の島田、振袖、屋敷娘のこしらえにて、南郷力丸侍のこしらえにて、付き添い出で来りて、
弁天 これ四十八、浜松屋というのはどこじゃぞいの。
南郷 つい向こうに見えます呉服屋でござります。
弁天 婚礼の仕度じゃということは、必ず言うてたもんなや。
南郷 申してもよいではござりませぬか。
弁天 それでもわたしゃ恥ずかしいわいな。
南郷 言うて悪くば申しますまい。(ト門口へ来りて)さあお嬢様お入りなさりませ。
駄右衛門が進物の品を、弁天が婚礼の品を探しに来たという違いはあるが、その出の言葉のやりとりといい、これ以後の手代たちとのやりとりといい酷似している。
「同じことを二度するな」
が芝居の鉄則であり、似たようなシーンを二度も見せられるのは、観客にとってはたまったものではない。それに、駄右衛門を先に登場させたのでは、せっかくの高島田に振袖姿の弁天の出が新鮮味を失うことになる。こういうわけで駄右衛門の出はカットされるていると思うが、だからといってカットしたままでは、先ほど述べたように駄右衛門の出が唐突になってしまう。
そこでわたしたちの公演では、次のようなせりふを付け加えた。
太介が奥の部屋から戻ってきたので与九郎が、
与九 太介どん、奥のお方はお気に召されたか。
太助 それはもう、旦那様が京から届いた新荷を解かれましたもんで。
与九 そうか。
佐兵 (奥の侍の真似をして)「値はなにほどでも苦しゅうない」とは豪勢なお侍さんだ。
与九 あのような大口のお客様ばかりだと店も楽だがねえ。
これで劇としての筋道は通り、駄右衛門の出もリアリティを持って観ていただけると思う。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|