過激な物語性を 排除して
未来の像を想い描いてもらう
 リアは、老後のやすらぎを願望しながら、それが残酷にも破壊される。しかも実の娘たちによって。この不幸な老人に、嵐が容赦なく襲いかかる。つまり人生末期においてはじめて知る喪失感と娘たちにたいする怨恨の情念に自然の猛威がさらにリアの被害感を駆りたてる。
 この原作の〈失意の老人をさらに不幸のどん底に陥れる嵐〉という設定に、わたしはシェイクスピアの過激な物語性を見てしまう。
 リアは荒れ狂う自然に向かって被虐的(マゾヒック)に叫ぶ。「風よ吹け!雨よ降れ!」と。リアはここで自然の風、雨、稲妻、雷を擬人化している。リアにとって自然は神の手先であり、 じぶんはその奴隷だからだ。だがこれは、神は人問の姿をしているとおもっていた未開の神人同性に起源をもち、自然との距離を救済としてみてしまう十六世紀の自然観でしかない。現在は、自然を擬人化したり、人間の内面性の暗楡とはみなさなくなったのではない だろうか。自然はただそこに〈ある〉だけだ。
 だから風や雨や稲妻や雷がおこったのは自然の必然であって、べつに失意の老人を懲らしめるために発生したのではない。偶然の結果としてリア王がさらにうちひしがれることになっただけのはずだ。
 ところがシェイクスピアは、リア王の不幸をさらに助長させたく、自然の嵐を作為的に設定した。ロブ=グリエの言葉をかりるなら、嵐はリアの魂の反映、苦悶の表象、欲望の影のために必要不可欠なものだからだ。
 リアが自然を神人同性的にみるのは、現在と『リア王』の時代との比較にもなるから、そのまま表現すればいいが、嵐でリアの不幸を助長し、観客の情緒を煽りたてるのは、現在のわたしたちが十六世紀のシェイクスピアに屈服することになる。
 だからわたしたちの『リア王』は、嵐はやってこない。リア王は穏やかな自然の なかで、「風よ吹け!雨よ降れ!」と叫ぶだけだ。
 するとどうなるのか? 
 原作の身体の物語と、現在のわたしたちに切実な精神の物語とを同時に表現できるので作品が重層的になる。つまり観客は現在と過去を一度に両方観ることによって、それを出発点にして未来までもイメージすることができるようになる。
 このようにわたしたちの『リア王』は、『リア王』という書物を読むことによって、現在と過去のちがいを認識して、現在の支点になるものを見つけだし、未来の像を想い描こうというものです。
 M・フーコーのいうように、夢みるためには、本を読むしか方法はないのですから。
三澤憲治