フーコーの考察 刑罰、狂気、類似から 新しいシチュエーションをつくる |
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一七五七年三月二日、ダミヤンにたいしてつぎの有罪判決が下された。「手に重さ二斤の熱した蝋製松明をもち、下着一枚の姿で、パリのノートルダム大寺院の正面大扉のまえに死刑囚護送車によって連れてこられ、公衆に謝罪すべし」、つぎに、「上
記の護送車にてグレーヴ広場へはこびこまれたのち、そこへ設置される処刑台のうえで、胸、腕、腿、脹らはぎを灼熱したやっとこで懲らしめ、その右手は、国王殺害を犯したさいの短刀を握らせたまま、硫黄の火で焼かれるべし、ついで、やっとこで懲らしめた箇所へ、溶かした鉛、煮えたぎる油、焼けつく松脂、蝋と硫黄との溶解物を浴びせかけ、さらに、体は四頭の馬に四裂きにさせたうえ、手足と体は焼きつくして、その灰はまき散らすべし」。 (ミシェル・フーコー「監獄の誕生」田村傲訳) このようにヨーロッパの近代以前の刑罰は、犯罪人に肉体的苦痛を与える〈身体刑〉が主流だった。フーコーは、この〈身体刑〉にはつぎのような特質があると指摘している。 @苦痛による身体刑の段階づけ 身体刑は、一刀両断に命を絶つ、つまり苦痛度ゼロの斬首刑から、苦痛を無限に高める四裂きの刑にいたるまで、苦痛の度あいによって段階づけられている。絞首刑、火刑、車 責めの刑は、この両極の刑の間に位置する。 A法律の基準にそくしたきわめて技術的な行為 身体刑は、犯罪者の身分、犠牲者の位階、犯罪の軽重によって、身体刑の型、苦痛の質・強さ・時間、また使用される道具などがきめられる。たとえば、綱の長さ、おもりの重さ、 鞭打ちの回数、烙印を押す位置などが正確に定められている。 B権力者の儀式としての祭り 身体刑は、犯罪者を不名誉な人間にしたてあげ、その拷問の苦痛を万人に記憶させる、権力者の勝利を祝う儀式である。 時の権力者が催す身体刑の祭り。権力者は、民衆に苛酷な身体刑のじっさいを見てもらわなければならない。民衆に恐怖心をいだかせ、どんな小さな犯罪でも処罰されるリスクは大きいという意識をうえつけ、罪人に猛威をふるう権力を見せつけなければならない。権力者にとって、罪人の苦痛の叫びと流れる血はけっして恥ずべきものではなく、権力者の力の誇示にほかならなかった。 この大いなる恥さらしといえる身体刑がヨーロッパで禁止されるのは、十八世紀末もしくは十九世紀前半であり、それ以後刑罰は野蛮で怖ろしい情景ではなくなる。人々は、この身体刑の儀式が、新しい犯罪を助長するものと疑いはじめる。犯罪者を裁くはずの死刑執行人や裁判官こそ、犯罪行為の実行者にほかならないではないか。死刑執行の公開は、暴力をふたたび燃えあがらせる火床ではないか。 こうして見せしめの刑罰は姿を消し、処罰行為は〈知覚〉の領域から〈意識〉の領域にうつっていく。もはや処罰のぞっとするような光景にではなく、処罰されるであろうという思いが、犯罪を思いとどまらせるようになる。 だがこの刑罰の残酷さの緩和は、けっして人間らしさの増大ではなく、目標の変更だとフーコーはいう。つまり刑罰の対象が、身体ではなく、精神にうつったにすぎないというのだ。これ以後刑罰は、心、思考、意志、素質などに鋭く深く作用する懲罰になっていく。たとえば殺人のばあいなら、殺人の原因は本能なのか、無意識なのか、環境なのか、遺伝なのか、そしてそれは矯正できるものかが問われる。つまり「裁判官は犯罪以外のものを、すなわち犯罪者の〈精神〉を裁き」はじめるようになる。フーコーは、この刑罰の転換を、ひとつの悲劇が終わって、ひとつの喜劇がはじまったとみなしている。 リア王の狂気。狂気といえば現在のわたしたちは、すぐに精神病と結びつけてしまう。精神病という概念は、古典主義時代(十七世紀中期から十九世紀初頭までの近代社会の形成期)以降のもので、それまでは狂気を病のカテゴリーに入れてはいなかった。 たとえばギリシァのプラトンにとって狂気とは、〈神懸り〉のしるしであり、神が人間に予見の働きを与えたものだった。だから正気の人間は、この〈神懸り〉にあった人間の合図を読みとり、何を予見しているのかを判別する必要があった。 狂気についてのこうしたギリシア的な考え方は中世まで維持され、ルネサンスにおいてある種の変容をきたしたとフーコーはいう。 それは、ボッシュの絵画『阿呆船』に見られるような、狂気に対するきわめて近寄りがたい〈怖ろしさ〉だ。船に乗っているのは狂人たちだ。かれらは鞭打たれ、街を追い払われ、脱出できない船に閉じこめられる。行き先は〈あの世〉であり、船をおりることは〈あの世〉から帰ってくることだった。ボッシュが描いている船のマストは、おそらくエデンの園から引き抜かれた禁断の樹(不老不死の約束と罪悪の樹)であろう、とフーコーはいう。 狂人たちのこうした知はなにを表わしているのか? おそらく、それは禁ぜられた知だから、サタンの君臨ならびに世界の終末を予言しているのである。最終の幸福と至高の懲罰を、地上における全能と地獄堕ちを。狂人の船が航行する場所は、いっさいが欲望にささげられている悦楽の風景であり、人間がもはや苦痛も欲求もあじわわぬ点では一種のよみがえった楽園である。 (フーコー「狂気の歴史」田村倣訳) ボッシュをはじめ、ブリューゲル、デューラーが表現するような狂気の知。それは破局を呼び起こし、世界の終末を予言するものだったから、人々は狂気に接するとある種の〈怖ろしさ〉を感じ、宇宙的な規模の暗さ、人間の悲劇的ヴィジョンを見た。 ところが十六世紀になると、この〈怖ろしさ〉という悲劇的な狂気は、〈笑いや滑稽〉という批判的な狂気に隠蔽されてしまう。それは狂気が理性と相関的になり、その狂暴さを失っていくことだった。人問の理性は、神の理性とくらべると狂気にほかならない。だから人間の理性は、みずからの愚かさや狂気をわきまえなければならない。こうして狂気は理性に取り囲まれていく。狂気はもはやあの世界の闇夜のなかの絶対的な実在を持たない。理性の領域そのものにおいてしか意味と価値がなくなってしまうのだ。 それでも十六世紀のあいだは、狂気はいまだ排除の対象ではなかった。だが古典主義時代の初期から近代の合理主義は、〈理性〉の名のもとに狂気を非理性として排除していく。狂人たちは、かつて聖なる病として監禁された癩病者の施療院に閉じこめられる。フーコーのいう「大いなる閉じ込め」の時代が始まったのだ。これをきっかけに西欧の新しい感受性は、狂気を性病と同種の〈罪〉と感じるようになり、その罪を罰するという道徳性が重視され、やがて狂気を治療するという医学的な行為に移っていく。ここに狂気は〈精神の病〉として規定されたのだ。 『リア王』の狂気は、狂気がまだ非理性として排除されない、狂気にとって幸運な一時期を象徴するものだ。このとき狂気は、白昼堂々と暴れまわっていた。それは、人間の想像力の自由奔放さであり、天空に翔る幻想の宇宙性と悲劇性を意昧するものだった。フーコーは、『リア王』を絶望せる情念の狂気ととらえ、それは悲劇的な狂気経験の証人であり、悲痛ながらも快い狂乱とのべている。 フーコーはまた『言葉と物』で、十六世紀では〈類似〉という概念が「知を構築する役割を演じてきた」という。書物の解釈を方向づけたのも〈類似〉なら、目に見えるもの、目に見えないものはすべて〈類似〉という視点からとらえられていた。 「大地は空を写し、 人の顔が星に反映し、草はその茎のなかに人間に役だつ秘密を宿していた」のだ。人間が思いうかべたものは、つねになにかの模写であり、言語は「人生の劇場、世界の鏡」であった。 だから十六世紀は、記号の意味をさぐる解釈学や、記号同士のつながりや連鎖の法則を求める記号学がさかんになり、世界の相貌は、記号、紋章、文字、暗号がひしめきあう大きな書物のようなものとなる。自然は、「記号学と解釈学を上下に重ねつつへだてる、わずかな厚みのなかにとらえられている」。自然が神秘的であったり、認識の対象であったりするのも、「この重なりあいのうちに類似関係のわずかなずれがあるからにほかならない」。 だがこうした〈知〉は、過剰であるとともに、絶対的な貧困といえる。類似はひとつの類似にとどまらず、べつの物と関係することによって新しい類似を無限に生んでいくという意昧では過剰であるが、つねに同じものしか認識できず、際限のないけっして到達できないところでしか認識できないという立場に追いやったという意昧では貧困というわけだ。 まさにこの点において、あの有名な小宇宙(ミクロコスモス)という観念が、十六世紀の〈知〉における基本的な役割を演ずるようになる。それは二重化された類似のはたらきを自然のあらゆる領域に適用し、じぶんを映す鏡とじぶんを保証してくれる大宇宙(マクロコスモス)とを見いだす。高い天球の可視的な秩序が、暗い大地の深層に反映していると断言するだがこの小宇宙と大宇宙との距離は無限ではない。計測可能であり、その結果さまぎまな相似関係はたがいにささえあい強めあうために、完全に閉ざされた領域となる。記号と類似とのたわむれの自然は、宇宙の二重化された形象にしたがってみずから閉じてしまうのだ。 この同じ必然性によって、この〈知〉は博識と魔術を同一のものとみなすことになる。 たとえば博物学者アルドロヴァンディの『蛇と龍の話』では、蛇類一般についての博物 学的な正確な記述と、怪蛇、神秘譚、奇蹟、謎など、神話や魔術に関することが同列に並べられる。これはわたしたちから見れば、愚かな混同としか思えないが、アルドロヴァンディにとっては〈書かれたもの〉である自然を細心に熟視して収録したにすぎない。それはけっして錯誤ではなく、絶対的な〈知〉であったからだ。 海の深みにも、天空の高みにも、人間が発見できないものはなにひとつない。自然は言語であり、それは書かれるものであり、はてしなく行われる解釈の対象であった。つまり言語すなわち自然であり、言葉すなわち物であった豊かで画一的な時代、それが十六世 紀だったのだ。 このフーコーの考察から、わたしは演出の想をえ、新しい.シチュエーションをつくり、現在的なアレンジをほどこした。それは一幕一場のリア王の狂気に、一幕ラストの無情の門に、二幕冒頭の嵐に端的にあらわれている。 |
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三澤憲治 | ||||