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俳優の表現形式と歴史性を決定する
 紀元前三世紀中ごろの中国、燕は斉を滅ぼした。そのとき燕は、斉の王の忠臣であった王躅が名にし負う賢者だったので、味方につけようと使者をつかわした。
「大将になってくれるなら、一万戸の領分を与えよう」。
 王躅は固くことわった。使者は怒り
「いうことを聞かなければ、住民を皆殺しにする」
 とおどした。王躅は敢然と答えた。
「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更ず、と申す。王がわが諌言を聞かれぬから、わしは隠退して野を耕しておる。国家の滅亡した今、わしももはや生きることはできぬ。それを兵力 をかさに大将にしようとはなにごとだ。それは暴君を助けて暴虐をなすと同じことだ。生きて忠義を失うより、 殺されたほうがましだ」。
 王躅はそう言うと、首を木に縛りつけ、みずからの命を絶った。

 司馬遷が著した中国最初の正史『史記』田単列伝からの引用である。この王躅が忠義の規範とし、かつ実践した「忠臣二君に事えず」は、ケントの理念であるといってもいい。ケントもリア王に諌言したが、それが災いして追放されたにもかかわらず、新たな主君を探すこともなく、また同じ王につかえるからだ。
 ケントの忠義について、新渡戸稲造は明治三十二年につぎのようにのべている。

 臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途はリア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血を濺いで言の誠実を表わし、これによって主君の明智と良心に対し景後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。
(新渡戸稲造「武士道」矢内原忠雄訳)  

 新渡戸稲造は、ヨーロッパの道徳教育をささえている宗教に匹敵するものして、武士道をとりあげ、日本では武士道が道徳教育の根幹をなしてきたと考察している。ケントを俎上にのせたのは、英語で書いた『武士道』の忠義を外国の読者によりわかりやすくするためであったが、ケントはまさに新渡戸がいうように武士の手本といっていい。ケントの行動はことごとく日本の武士道に符合する。  
 ケントは、リア王から言葉の自由を剥奪されたために、
「ここには自由はありませんから」
 といって王国を立ち去る。だがケントの求める自由は、同じ王にふたたびつかえることによってしか手に入れることができない自由だ。ケントにとっての王国は、あくまでもリア王あっての王国であり、ケントの生命はリア王につかえる手段でしかなく、その理想は名誉にすぎない。そこには真の意味での個人の主体がないといっていい。ケントが理念とした「忠臣二君に事えず」は、おし進めてゆくと必ず〈わたし〉よりも〈公〉が、〈個人〉より〈国家〉が大切だという思想になってしまう。わたしには、王躅もケントも武士道もつまらぬ自己犠牲だとしか思えない、吉本隆明がいうように、「〈公〉よりも〈私〉のほうが大切なのだ、という思想を媒介にしない〈公〉思想は、どんな装いをこらしても、人間を奴隷にする思想」だ。
 わたしたちは、ケントの忠義はあくまでも封建下に咲くあだ花であることを理解しなければならない。また演じる俳優もそれを冷静な目で見つめ、けっしてケントの忠義の情熱に溺れてはならない。
 病弱でからだの不自由な乞食が街賂や街道でたむろするのは、エリザベス朝時代の日常的な光景だった。
 A・L・バイアーの『浮浪考たちの世界(佐藤隆訳)』によると、ピューリタンの聖職者ウィリアム・パーキンズ(一五五五〜一六〇二年)は、乞食について
「職業にもつかず、どんな法人にも教会にも国家にも所属していない浮浪者や悪漠や落伍者のうってつけの温床」
 だと攻撃している。だが当時の人々は、貧困者がほんとうに困窮して物乞いをするなら、拒否はしなかった。なぜなら拒否すると、じぶんの魂が危険にさらされ、神の怒りをまねく と考えられたからだ。一五九六年に出版された説教集にも、
「われわれは、みな神の乞食である。それゆえに、神がその乞食を認めるように、われわれ も白分の乞食を軽蔑しないようにしよう」  
 と記されている。  
 エドガーがいう 「あの伝説の気ちがい乞食、トム」 は、原作ではBedlam beggars となっているが、このBedlamはBethlehem Hospitalからきている。ベツレヘム・ホスピタルは、中世後期から近代におけるイギリスの中心的な精神異常者の施設であり、ここからトム・オベドラムという言葉が生まれた。ところがベツレヘム・ホスピタルは、わずか三十人ぐらいしか収容できない小規模な施設であったために、収容さ れない者は各地を放浪して物乞いをしたので、いつのまにか放浪の精神異常者のことをトム・オベドラムというようになったらしい。 十六世紀の文筆家ジョン・オードレイは、この放浪の精神異常者を、
「素肌のまま、素足で歩き、みずからを精神異常者とよそおい、羊毛の包みかべーコンのついた杖か、その種のがらくたを持ち歩き、みずからを貧しいトムとよぶ」
 とのべている。またべつの記録によると、偽の放浪乞食たちは、じぶんたちがベツレヘム・ホスピタルに収容されたことを証拠だてるために、「焼いた紙、尿、火薬」で腕にあざを つけ、「ある者はひどい物音を立て、ある者はわあーと叫び声をあげ、・・・・・・ある者は一種の野蛮でとり乱した醜い顔だけをし、・・・・・・ある者は際限なく踊り、ほかの者たちはどこででも跳びはねた」という。  
 火事にあったと偽り、病気だと偽り、足が不白由だと偽り、口がきけないと偽って物乞いをする。バイアーは、十六世紀から十七世紀にかけての、にせの物乞いの物語や記録を多数収集している。なぜ、生活に困窮した人々はにせの物乞いをしたのだろうか。その理由は四つあげられる。

@乞食を虐待すると、神の怒りをまねくという共同の幻想があった。

A貧困者は救貧法で保護され、公認の物乞い許可書を与えられていた。

B物乞い許可書によって、ほんものの乞食というカテゴリーをつくったことによって、にせの物乞いを発生させる土壌をつくった。

C物乞いをすれば短期問の生活費がえられた。一六二二年には、一日に一ニシリングも稼いだものがいたという。
 にせの物乞いたちは、ひといちばい惨めなふりをして、偽りの涙を流して報酬をえると、
「神のお恵みがありますように」
 といって立ち去る。シェイクスピアが、エドガーを気ちがい乞食に変装させたのも、時代の現実を避けてとおれない、まさに作者の必然があったといっていいだろう。
三澤憲治