原文に忠実なのではなく
シェイクスピアの 言いたいことに忠実
ケント 王が目をかけておいでなのは、コーンウォール公よりはオールバニ公だと思っていたが。
グロスター 誰の目にもそう見えていた。しかし、こと王国の分割となると、どちらを重んじておられるか予断を許さない。すべて等分にとのご配慮なので、どれだけ細かく調べても、どちらも相手の取り分のほうがいいとは言えないだろう。
ケント そちらはご子息では?
グロスター 育てたのは確かに私だが、息子と認めるたびに赤面していたので、面の皮がすっかり厚くなってしまった。
ケント  おっしゃることが呑み込めませんが。
グロスター この若造の母親は、腹に私の種を呑み込んだ。そこで、大きくせり出し、いや実は、ベッドに夫を迎える前に揺り籠に息子を迎えたという次第、ふらちな罪の臭いがしますかな?
ケント その罪は犯さなければよかったとは言えませんね。こんなに立派な実を結んだのだから。
グロスター 私にはもう一人正式な結婚でもうけた息子がいる。これよりひとつ年上だが、先に生まれたからといってそれだけ可愛いという訳でもない。こいつはずうずうしくて、 呼び寄せもしないのにこの世に飛び出してきた。しかし、母親はいい女だった。こいつが出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ。そこで、妾腹とは言え、認知せざるを得なくなった。こちらを存じ上げているか、エドマンド?

 松岡和子訳『リア王』の幕開きの台詞だ。読んでわからないことはなにもない。ところがこれを読むのではなく〈聞く〉となると、とたんにわからなくなってしまう。  
 冒頭から日本人には耳慣れない人名がふたつも出てくるし、グロスターの過去の顛末が簡潔な言いまわしになっていないので、意味を追うのに精一杯になる。意昧に囚われていると、聞こえない台詞と同じで、ドラマの進行についていけないし、
「グロスターはなぜこんなことを言うのか?」
 という演劇の醍醐味である登場人物の歴史性を思うこともできない。  
 演劇は文学とちがって、わからない言葉を観客が辞書で調べるわけにはいかないから、観客が耳で聞いてすぐに理解ができる必要がある。だから原文に忠実なあまり観客に努力や負担を強いるより、シェイクスピア本来の面白さを楽しんでもらわなくては。  
 そこで私が台本にするばあい、次のような原則を設けた。

一、冒頭の台詞で人名は絶対に言わないこと。

二、シエイクスピアはこの冒頭で何を言いたいのかを突きとめ、それを表現すること。

三、王国分割の緊迫感を出すこと。

 この制約から次のような台詞になった。

ケント 驚いたな、王国分割とは。
グロスター ああ、予想もしなかった。
ケント 後継者はてっきりオールバニ公爵と思っていたが。
グロスター 喜んだのは、コーンウォール公爵だろう。思わぬ財産が転がりこんでくるわけだから。
ケント そうだな。 (ストップモーションのエドマンドを指して) あれはご子息では?
グロスター 息子にはちがいないが・・・・・・エドマンド!
エドマンド 父上!

 エドマンドはストップモーションを解除して、二人の所へやってくる。

ケント なにか事情でも?
グロスター ・・・・・・妻の子ではない。
ケント ・・・・・・だが、立派に育てられた。
グロスター これの母親は優しい、いい女だった。だから認知もした。これよりひとつ上の後継ぎもいるが、どちらかと言えばこっちをかっている。

 エドマンドはほくそ笑む。

グロスター この方を知っておるか、エドマンド?

 原作の言葉に忠実ではないが、シェイクスピアの言いたいことだけは押さえたつもりだ。以下上演の台詞は、すべてこのように改変した。
三澤憲治